学園の女王とイケメン王子様

 文化祭が終わった翌朝。

 私立星蘭学園の校門をくぐった神崎颯真は、いつもより少しだけ歩く速度を落としていた。

 理由は簡単だ。

 今日は、一ノ瀬冷花と一緒に帰る約束をしている。

 ただそれだけのことなのに、朝から落ち着かなかった。

「……何やってんだ、俺」

 颯真は小さく呟いた。

 昨日までは、文化祭の準備や当日の進行で忙しかった。冷花と話す機会はいくらでもあったし、何か相談があれば自然に隣に立つこともできた。

 けれど、今日は違う。

 文化祭は終わった。

 実行委員長と生徒会長という立場で、一緒に行動する理由はなくなった。

 それでも、彼女と一緒にいたい。

 その気持ちを、自分自身がはっきりと自覚してしまったからこそ、緊張していた。

「おはようございます、神崎くん」

「うおっ!?」

 突然声をかけられ、颯真は肩を跳ねさせた。

 振り返ると、そこには冷花が立っていた。

 いつもどおり整った制服姿。背筋は伸び、表情は落ち着いている。

 ただし、颯真にはわかった。

 今日は、いつもより少しだけ表情が柔らかい。

「お、おはよう、一ノ瀬」

「どうかしましたか? 何か驚くようなことでも?」

「いや、別に! ちょっと考え事をしてただけだ!」

「そうですか。では、考え事の邪魔をしてしまいましたね」

「違う違う! お前に声をかけられたのが嫌だったとか、そういうことじゃないからな!」

 冷花は、ぱちぱちと瞬きをした。

「……私は、嫌だったとは言っていませんが」

「……あ」

「神崎くんは、私に声をかけられるのが嫌なのですか?」

「そんなわけあるか!」

 思わず大声を出してしまった。

 周囲の生徒たちが一斉にこちらを見る。

 颯真は慌てて声を落とした。

「……だから、そうじゃなくて」

「はい」

「……お前と話すのは、嫌じゃない。むしろ、その……」

「むしろ?」

「……楽しいんだよ」

 言ってしまった。

 冷花は、しばらく颯真を見つめていた。

 そして、ふわりと微笑んだ。

「私もです」

「……っ!」

 朝から心臓に悪い。

 颯真は、これから一日を無事に過ごせるのか、本気で心配になった。

     *

 昼休み。

 颯真が教室で弁当を広げていると、友人の佐伯が隣に座ってきた。

「なあ、神崎」

「何だよ」

「今日、一ノ瀬さんと一緒に帰るんだって?」

「……誰から聞いた」

「昨日、本人が『神崎くんと一緒に帰る約束をしました』って、普通に生徒会の子に話してたぞ」

「本人が!?」

「お前、そんなに驚くことか?」

 佐伯は呆れたように笑った。

「それにしても、すごいよな。あの一ノ瀬さんが、わざわざお前と帰る予定を周りに話してるんだぜ」

「いや、あいつに深い意味は……」

「あるかもしれないだろ?」

「……」

 颯真は黙った。

 確かに、冷花は以前なら、誰かと一緒に帰る約束をわざわざ人に話したりしなかっただろう。

 彼女は、自分の予定を正確に管理する人間だ。

 必要がなければ、余計なことは話さない。

 けれど最近は、自分の気持ちを言葉にするようになっている。

 楽しい。

 嬉しい。

 一緒にいたい。

 そんな言葉を、少しずつ口にしてくれるようになった。

「……俺はさ」

 颯真は、弁当箱の蓋を閉じた。

「一ノ瀬にとって、特別な人間になりたいんだと思う」

 佐伯は目を丸くした。

「おお。ついに認めたか」

「うるさいな」

「いや、だってさ。お前、最初は勝つことしか考えてなかったじゃん」

「……そうだな」

 颯真は窓の外を見た。

 初めて冷花に勝負を挑んだ日のことを思い出す。

 彼女は、どんな勝負でも簡単に勝ってしまう、手の届かない相手だった。

 悔しくて、負けたくなくて、何度も挑戦した。

 けれど、いつからだろう。

 勝負に負けても、彼女と話せることが嬉しくなったのは。

 彼女が笑うと、自分まで嬉しくなったのは。

 そして、彼女の隣にいることを、当たり前にしたいと思うようになったのは。

「……勝ちたい気持ちが、なくなったわけじゃないんだ」

「うん」

「でも、今はそれだけじゃない。あいつが何を考えてるのか、もっと知りたい。あいつが困ってたら助けたいし、嬉しいことがあったら一緒に喜びたい」

 颯真は、少し照れくさそうに笑った。

「……そういう相手なんだよ、俺にとって」

 佐伯は、しばらく黙っていた。

 それから、にやりと笑う。

「じゃあ、今日の帰りに告白するのか?」

「しない!」

「即答かよ!」

「今は、あいつ自身が自分の気持ちを探してるところなんだ。俺の気持ちを押しつけたくない」

 佐伯は、少しだけ真面目な表情になった。

「そっか。まあ、お前らしいな」

「……だから、変にからかうなよ」

「はいはい。頑張れよ、神崎」

 颯真は返事をしなかった。

 ただ、心の中では決めていた。

 今日、冷花に伝えたいことがある。

 告白ではない。

 けれど、これからも一緒にいたいという気持ちを、きちんと言葉にしたかった。

     *

 放課後。

 夕日が校舎の窓を赤く染めていた。

 颯真が昇降口で待っていると、やがて冷花がやってきた。

「お待たせしました」

「いや、俺も今来たところだ」

「そうですか。では、帰りましょう」

 二人は並んで歩き始めた。

 校門を出ると、通学路には帰宅する生徒たちの姿があった。

 最初は、文化祭の話をしていた。

 どの企画が面白かったか。

 どの発表が印象に残ったか。

 片づけのときに、誰が最後まで残っていたか。

 そんな、何気ない話だ。

 けれど、颯真は気づいていた。

 冷花が、以前よりも自然に話していることに。

 相手の反応を気にしすぎず、自分が感じたことを伝えてくれる。

 そして、颯真の話にも、楽しそうに耳を傾けてくれる。

「……なあ、一ノ瀬」

「はい?」

「文化祭が終わっても、俺たちの関係は変わらないよな?」

 冷花は、足を止めた。

「関係、ですか?」

「ああ。実行委員長と生徒会長として一緒に行動することは、もうないだろ?」

「そうですね」

「だから、その……」

 颯真は、少しだけ視線をそらした。

「これからも、一緒に勉強したり、話したり、勝負したりしたいんだ」

 冷花は、黙って聞いていた。

「もちろん、お前が忙しいときは無理にとは言わない。でも、俺は……お前と一緒にいる時間が好きなんだ」

 言葉にした途端、胸が熱くなった。

 ずっと思っていたことだ。

 けれど、口に出すのは初めてだった。

「……だから、これからも誘っていいか?」

 冷花は、ゆっくりと顔を上げた。

 夕日の光が、彼女の瞳に映っている。

「……はい」

 小さな声だった。

 けれど、その声には、確かな喜びがあった。

「私も、神崎くんと一緒にいたいです」

「……本当か?」

「はい。神崎くんと勉強するのも、勝負するのも、何気ないお話をするのも、好きです」

 冷花は、少し考えてから続けた。

「以前の私は、誰かと一緒にいることに、特別な意味を感じていませんでした。必要なことがあれば話し、協力する。それで十分だと思っていました」

「……うん」

「ですが、神崎くんと出会ってから、少し変わりました」

 彼女は、自分の胸元にそっと手を当てた。

「神崎くんがいないと、少し寂しいのです。神崎くんが笑っていると、私も嬉しくなります。何かあったとき、最初に話したいと思うこともあります」

 颯真は、息を止めた。

 それは、彼がずっと聞きたかった言葉だった。

「……一ノ瀬」

「はい」

「それって……」

 好き、ということなのだろうか。

 喉まで出かかった言葉を、颯真は飲み込んだ。

 まだ、答えを急ぐ必要はない。

 彼女は、彼女なりに考えている。

 ならば、自分はその時間も大切にしたかった。

「……いや。何でもない」

「そうですか?」

「ああ」

 颯真は笑った。

「でも、今の言葉は嬉しかった。ありがとう」

 冷花は、ほっとしたように微笑んだ。

「どういたしまして」

 二人は、再び歩き始めた。

 その距離は、いつの間にか、以前よりも少しだけ近くなっていた。

     *

 駅へ向かう道の途中。

 颯真は、ふと思い出したように言った。

「そうだ、一ノ瀬。最後に一つ、頼みがあるんだけど」

「何でしょうか?」

「これからも、俺と勝負してくれないか?」

 冷花は、目を丸くした。

「……それは、今までどおりということですか?」

「ああ。でも、前とは少し違う」

 颯真は、まっすぐに彼女を見た。

「俺は、これからもお前に勝ちたい。勉強でも、運動でも、将棋でもな」

「はい」

「でも、勝負が終わったら、それで終わりっていうのは嫌なんだ」

 彼は、照れくさそうに笑った。

「勝っても負けても、そのあとにお前と話したい。お前がどんなことを考えてるのか知りたいし、俺のことも知ってほしい」

 冷花は、しばらく彼を見つめていた。

 そして、ゆっくりと頷いた。

「……わかりました」

「本当か?」

「はい。私も、神崎くんとの勝負を続けたいと思っています」

 冷花は、少しだけいたずらっぽく微笑んだ。

「ただし、これまでどおり、手加減はしません」

「望むところだ!」

「次の数学の試験では、満点を取ります。神崎くんも、当然満点を目指してください」

「お前、いきなり勉強の話かよ!」

「勝負の約束ですから」

「だったら、俺が勝ったら何かご褒美をくれよ」

「ご褒美、ですか?」

「ああ。そうだな……」

 颯真は少し考えた。

「今度、一緒に本屋に行かないか? お前が好きそうな本も知りたいし、俺のおすすめも教えたい」

 冷花は、嬉しそうに微笑んだ。

「いいですね。では、私が勝った場合は?」

「えっ?」

「私が勝った場合にも、何かお願いをしてよいのでしょうか?」

「もちろんだ!」

 冷花は、少し考えたあと、答えた。

「では、私が勝ったら……また、一緒に帰ってください」

 颯真は、驚いて彼女を見た。

「……それ、勝負に関係なくてもいいだろ」

「ですが、勝負に勝ったときの特別なお願いにしたいのです」

「……そっか」

 颯真は、思わず笑ってしまった。

「わかった。じゃあ、俺も絶対に負けられないな」

「私も、負けるつもりはありません」

 二人は顔を見合わせた。

 そして、同時に笑った。

 それは、勝負を始めたばかりの頃には想像もできなかった光景だった。

 以前の二人は、勝ち負けだけを見ていた。

 けれど、今は違う。

 勝負の先に、相手と過ごす時間がある。

 勝ちたいという気持ちも、負けたくないという意地も、すべてが二人をつなぐ大切なものになっていた。

     *

 駅に到着すると、二人は改札の前で立ち止まった。

「今日は、ありがとうございました」

 冷花が丁寧に頭を下げた。

「いや、こっちこそ。付き合ってくれてありがとう」

「……神崎くん」

「ん?」

「また、明日もお話ししてくださいますか?」

 颯真は、驚いた。

 そして、すぐに笑った。

「当たり前だろ。明日も、その次の日もな」

「……はい」

 冷花の頬が、ほんのり赤くなった。

 颯真は、それに気づいたけれど、何も言わなかった。

 からかったら、きっと彼女は真剣に理由を分析し始めるだろう。

 それも面白いけれど、今はこの笑顔を大切にしたかった。

「じゃあ、また明日な。一ノ瀬」

「はい。また明日、神崎くん」

 二人は、それぞれの改札へ向かった。

 けれど、別れる直前。

「神崎くん!」

 冷花が振り返った。

「どうした?」

 彼女は、少しだけ迷ってから、言った。

「……私にとって、神崎くんは特別な人です」

 颯真は、立ち止まった。

「……え?」

「まだ、その理由をすべて説明することはできません。ですが、ほかの人とは違います。これからも、そばにいてほしいと思っています」

 冷花は、まっすぐに彼を見つめていた。

「ですから……これからも、よろしくお願いします」

 颯真は、しばらく何も言えなかった。

 胸の奥が、熱くなった。

 自分が彼女にとって特別な存在になりたいと願っていた。

 その願いが、今、彼女自身の言葉になって返ってきたのだ。

 恋人になったわけではない。

 好きだと、はっきり伝え合ったわけでもない。

 それでも、今の颯真には十分だった。

 彼は、満面の笑みを浮かべた。

「……ああ。こちらこそ、よろしくな!」

 冷花も、嬉しそうに笑った。

 その笑顔を見て、颯真は思った。

 いつか、彼女にきちんと気持ちを伝えよう。

 そして、彼女が自分の気持ちに答えを見つけたときには、隣で一緒に喜びたい。

 その日が来るまで、何度でも勝負を挑もう。

 何度でも話しかけよう。

 彼女が笑ってくれる、その瞬間を大切にしながら。

     *

 翌朝。

 颯真が教室に入ると、冷花が一冊のノートを持って近づいてきた。

「神崎くん。昨日の数学の問題について、確認したいことがあります」

「……おい。朝から勝負か?」

「はい。次の試験に向けて、準備を始めようと思いまして」

「まだ試験まで時間があるだろ!」

「準備は早いほうがよいと、神崎くんも言っていました」

「俺、そんなこと言ったっけ……?」

「言っていませんでしたか?」

「いや、言ったかもしれないけど!」

 冷花は、楽しそうに微笑んだ。

「では、放課後に勉強会をしましょう」

「……わかった。絶対に負けないからな!」

「私も、負けません」

 いつものように、二人は勝負を始める。

 けれど、その関係は、もう以前とは違う。

 学園の女王と呼ばれた少女は、一人で何でもできる完璧な存在であり続ける必要はないと知った。

 彼女に勝ちたいと願った少年は、勝つことだけが大切なのではないと知った。

 二人は、互いに足りないものを教え合いながら、少しずつ前へ進んでいく。

 これからも、きっと勝負は続く。

 数学の試験、運動会、将棋、料理。

 どんな勝負でも、冷花は簡単には負けないだろう。

 颯真も、決して諦めない。

 そして勝負が終わるたびに、二人はきっと、また笑い合う。

 いつか、その関係に新しい名前がつく日が来るかもしれない。

 けれど、今はまだ、このままでいい。

 勝ちたい相手がいる。

 一緒に笑いたい相手がいる。

 明日も会いたいと、心から思える相手がいる。

 それだけで、二人の世界は以前よりずっと鮮やかになったのだから。

 ――学園の女王に、勝てない。

 そんな日々は、これからも続いていく。

 ただし、ひとつだけ変わったことがある。

 神崎颯真にとって、一ノ瀬冷花は、もう倒すべきライバルだけではない。

 いつか本当の意味で隣に立ちたい、世界でたった一人の特別な人だった。