文化祭が終わった翌朝。
私立星蘭学園の校門をくぐった神崎颯真は、いつもより少しだけ歩く速度を落としていた。
理由は簡単だ。
今日は、一ノ瀬冷花と一緒に帰る約束をしている。
ただそれだけのことなのに、朝から落ち着かなかった。
「……何やってんだ、俺」
颯真は小さく呟いた。
昨日までは、文化祭の準備や当日の進行で忙しかった。冷花と話す機会はいくらでもあったし、何か相談があれば自然に隣に立つこともできた。
けれど、今日は違う。
文化祭は終わった。
実行委員長と生徒会長という立場で、一緒に行動する理由はなくなった。
それでも、彼女と一緒にいたい。
その気持ちを、自分自身がはっきりと自覚してしまったからこそ、緊張していた。
「おはようございます、神崎くん」
「うおっ!?」
突然声をかけられ、颯真は肩を跳ねさせた。
振り返ると、そこには冷花が立っていた。
いつもどおり整った制服姿。背筋は伸び、表情は落ち着いている。
ただし、颯真にはわかった。
今日は、いつもより少しだけ表情が柔らかい。
「お、おはよう、一ノ瀬」
「どうかしましたか? 何か驚くようなことでも?」
「いや、別に! ちょっと考え事をしてただけだ!」
「そうですか。では、考え事の邪魔をしてしまいましたね」
「違う違う! お前に声をかけられたのが嫌だったとか、そういうことじゃないからな!」
冷花は、ぱちぱちと瞬きをした。
「……私は、嫌だったとは言っていませんが」
「……あ」
「神崎くんは、私に声をかけられるのが嫌なのですか?」
「そんなわけあるか!」
思わず大声を出してしまった。
周囲の生徒たちが一斉にこちらを見る。
颯真は慌てて声を落とした。
「……だから、そうじゃなくて」
「はい」
「……お前と話すのは、嫌じゃない。むしろ、その……」
「むしろ?」
「……楽しいんだよ」
言ってしまった。
冷花は、しばらく颯真を見つめていた。
そして、ふわりと微笑んだ。
「私もです」
「……っ!」
朝から心臓に悪い。
颯真は、これから一日を無事に過ごせるのか、本気で心配になった。
*
昼休み。
颯真が教室で弁当を広げていると、友人の佐伯が隣に座ってきた。
「なあ、神崎」
「何だよ」
「今日、一ノ瀬さんと一緒に帰るんだって?」
「……誰から聞いた」
「昨日、本人が『神崎くんと一緒に帰る約束をしました』って、普通に生徒会の子に話してたぞ」
「本人が!?」
「お前、そんなに驚くことか?」
佐伯は呆れたように笑った。
「それにしても、すごいよな。あの一ノ瀬さんが、わざわざお前と帰る予定を周りに話してるんだぜ」
「いや、あいつに深い意味は……」
「あるかもしれないだろ?」
「……」
颯真は黙った。
確かに、冷花は以前なら、誰かと一緒に帰る約束をわざわざ人に話したりしなかっただろう。
彼女は、自分の予定を正確に管理する人間だ。
必要がなければ、余計なことは話さない。
けれど最近は、自分の気持ちを言葉にするようになっている。
楽しい。
嬉しい。
一緒にいたい。
そんな言葉を、少しずつ口にしてくれるようになった。
「……俺はさ」
颯真は、弁当箱の蓋を閉じた。
「一ノ瀬にとって、特別な人間になりたいんだと思う」
佐伯は目を丸くした。
「おお。ついに認めたか」
「うるさいな」
「いや、だってさ。お前、最初は勝つことしか考えてなかったじゃん」
「……そうだな」
颯真は窓の外を見た。
初めて冷花に勝負を挑んだ日のことを思い出す。
彼女は、どんな勝負でも簡単に勝ってしまう、手の届かない相手だった。
悔しくて、負けたくなくて、何度も挑戦した。
けれど、いつからだろう。
勝負に負けても、彼女と話せることが嬉しくなったのは。
彼女が笑うと、自分まで嬉しくなったのは。
そして、彼女の隣にいることを、当たり前にしたいと思うようになったのは。
「……勝ちたい気持ちが、なくなったわけじゃないんだ」
「うん」
「でも、今はそれだけじゃない。あいつが何を考えてるのか、もっと知りたい。あいつが困ってたら助けたいし、嬉しいことがあったら一緒に喜びたい」
颯真は、少し照れくさそうに笑った。
「……そういう相手なんだよ、俺にとって」
佐伯は、しばらく黙っていた。
それから、にやりと笑う。
「じゃあ、今日の帰りに告白するのか?」
「しない!」
「即答かよ!」
「今は、あいつ自身が自分の気持ちを探してるところなんだ。俺の気持ちを押しつけたくない」
佐伯は、少しだけ真面目な表情になった。
「そっか。まあ、お前らしいな」
「……だから、変にからかうなよ」
「はいはい。頑張れよ、神崎」
颯真は返事をしなかった。
ただ、心の中では決めていた。
今日、冷花に伝えたいことがある。
告白ではない。
けれど、これからも一緒にいたいという気持ちを、きちんと言葉にしたかった。
*
放課後。
夕日が校舎の窓を赤く染めていた。
颯真が昇降口で待っていると、やがて冷花がやってきた。
「お待たせしました」
「いや、俺も今来たところだ」
「そうですか。では、帰りましょう」
二人は並んで歩き始めた。
校門を出ると、通学路には帰宅する生徒たちの姿があった。
最初は、文化祭の話をしていた。
どの企画が面白かったか。
どの発表が印象に残ったか。
片づけのときに、誰が最後まで残っていたか。
そんな、何気ない話だ。
けれど、颯真は気づいていた。
冷花が、以前よりも自然に話していることに。
相手の反応を気にしすぎず、自分が感じたことを伝えてくれる。
そして、颯真の話にも、楽しそうに耳を傾けてくれる。
「……なあ、一ノ瀬」
「はい?」
「文化祭が終わっても、俺たちの関係は変わらないよな?」
冷花は、足を止めた。
「関係、ですか?」
「ああ。実行委員長と生徒会長として一緒に行動することは、もうないだろ?」
「そうですね」
「だから、その……」
颯真は、少しだけ視線をそらした。
「これからも、一緒に勉強したり、話したり、勝負したりしたいんだ」
冷花は、黙って聞いていた。
「もちろん、お前が忙しいときは無理にとは言わない。でも、俺は……お前と一緒にいる時間が好きなんだ」
言葉にした途端、胸が熱くなった。
ずっと思っていたことだ。
けれど、口に出すのは初めてだった。
「……だから、これからも誘っていいか?」
冷花は、ゆっくりと顔を上げた。
夕日の光が、彼女の瞳に映っている。
「……はい」
小さな声だった。
けれど、その声には、確かな喜びがあった。
「私も、神崎くんと一緒にいたいです」
「……本当か?」
「はい。神崎くんと勉強するのも、勝負するのも、何気ないお話をするのも、好きです」
冷花は、少し考えてから続けた。
「以前の私は、誰かと一緒にいることに、特別な意味を感じていませんでした。必要なことがあれば話し、協力する。それで十分だと思っていました」
「……うん」
「ですが、神崎くんと出会ってから、少し変わりました」
彼女は、自分の胸元にそっと手を当てた。
「神崎くんがいないと、少し寂しいのです。神崎くんが笑っていると、私も嬉しくなります。何かあったとき、最初に話したいと思うこともあります」
颯真は、息を止めた。
それは、彼がずっと聞きたかった言葉だった。
「……一ノ瀬」
「はい」
「それって……」
好き、ということなのだろうか。
喉まで出かかった言葉を、颯真は飲み込んだ。
まだ、答えを急ぐ必要はない。
彼女は、彼女なりに考えている。
ならば、自分はその時間も大切にしたかった。
「……いや。何でもない」
「そうですか?」
「ああ」
颯真は笑った。
「でも、今の言葉は嬉しかった。ありがとう」
冷花は、ほっとしたように微笑んだ。
「どういたしまして」
二人は、再び歩き始めた。
その距離は、いつの間にか、以前よりも少しだけ近くなっていた。
*
駅へ向かう道の途中。
颯真は、ふと思い出したように言った。
「そうだ、一ノ瀬。最後に一つ、頼みがあるんだけど」
「何でしょうか?」
「これからも、俺と勝負してくれないか?」
冷花は、目を丸くした。
「……それは、今までどおりということですか?」
「ああ。でも、前とは少し違う」
颯真は、まっすぐに彼女を見た。
「俺は、これからもお前に勝ちたい。勉強でも、運動でも、将棋でもな」
「はい」
「でも、勝負が終わったら、それで終わりっていうのは嫌なんだ」
彼は、照れくさそうに笑った。
「勝っても負けても、そのあとにお前と話したい。お前がどんなことを考えてるのか知りたいし、俺のことも知ってほしい」
冷花は、しばらく彼を見つめていた。
そして、ゆっくりと頷いた。
「……わかりました」
「本当か?」
「はい。私も、神崎くんとの勝負を続けたいと思っています」
冷花は、少しだけいたずらっぽく微笑んだ。
「ただし、これまでどおり、手加減はしません」
「望むところだ!」
「次の数学の試験では、満点を取ります。神崎くんも、当然満点を目指してください」
「お前、いきなり勉強の話かよ!」
「勝負の約束ですから」
「だったら、俺が勝ったら何かご褒美をくれよ」
「ご褒美、ですか?」
「ああ。そうだな……」
颯真は少し考えた。
「今度、一緒に本屋に行かないか? お前が好きそうな本も知りたいし、俺のおすすめも教えたい」
冷花は、嬉しそうに微笑んだ。
「いいですね。では、私が勝った場合は?」
「えっ?」
「私が勝った場合にも、何かお願いをしてよいのでしょうか?」
「もちろんだ!」
冷花は、少し考えたあと、答えた。
「では、私が勝ったら……また、一緒に帰ってください」
颯真は、驚いて彼女を見た。
「……それ、勝負に関係なくてもいいだろ」
「ですが、勝負に勝ったときの特別なお願いにしたいのです」
「……そっか」
颯真は、思わず笑ってしまった。
「わかった。じゃあ、俺も絶対に負けられないな」
「私も、負けるつもりはありません」
二人は顔を見合わせた。
そして、同時に笑った。
それは、勝負を始めたばかりの頃には想像もできなかった光景だった。
以前の二人は、勝ち負けだけを見ていた。
けれど、今は違う。
勝負の先に、相手と過ごす時間がある。
勝ちたいという気持ちも、負けたくないという意地も、すべてが二人をつなぐ大切なものになっていた。
*
駅に到着すると、二人は改札の前で立ち止まった。
「今日は、ありがとうございました」
冷花が丁寧に頭を下げた。
「いや、こっちこそ。付き合ってくれてありがとう」
「……神崎くん」
「ん?」
「また、明日もお話ししてくださいますか?」
颯真は、驚いた。
そして、すぐに笑った。
「当たり前だろ。明日も、その次の日もな」
「……はい」
冷花の頬が、ほんのり赤くなった。
颯真は、それに気づいたけれど、何も言わなかった。
からかったら、きっと彼女は真剣に理由を分析し始めるだろう。
それも面白いけれど、今はこの笑顔を大切にしたかった。
「じゃあ、また明日な。一ノ瀬」
「はい。また明日、神崎くん」
二人は、それぞれの改札へ向かった。
けれど、別れる直前。
「神崎くん!」
冷花が振り返った。
「どうした?」
彼女は、少しだけ迷ってから、言った。
「……私にとって、神崎くんは特別な人です」
颯真は、立ち止まった。
「……え?」
「まだ、その理由をすべて説明することはできません。ですが、ほかの人とは違います。これからも、そばにいてほしいと思っています」
冷花は、まっすぐに彼を見つめていた。
「ですから……これからも、よろしくお願いします」
颯真は、しばらく何も言えなかった。
胸の奥が、熱くなった。
自分が彼女にとって特別な存在になりたいと願っていた。
その願いが、今、彼女自身の言葉になって返ってきたのだ。
恋人になったわけではない。
好きだと、はっきり伝え合ったわけでもない。
それでも、今の颯真には十分だった。
彼は、満面の笑みを浮かべた。
「……ああ。こちらこそ、よろしくな!」
冷花も、嬉しそうに笑った。
その笑顔を見て、颯真は思った。
いつか、彼女にきちんと気持ちを伝えよう。
そして、彼女が自分の気持ちに答えを見つけたときには、隣で一緒に喜びたい。
その日が来るまで、何度でも勝負を挑もう。
何度でも話しかけよう。
彼女が笑ってくれる、その瞬間を大切にしながら。
*
翌朝。
颯真が教室に入ると、冷花が一冊のノートを持って近づいてきた。
「神崎くん。昨日の数学の問題について、確認したいことがあります」
「……おい。朝から勝負か?」
「はい。次の試験に向けて、準備を始めようと思いまして」
「まだ試験まで時間があるだろ!」
「準備は早いほうがよいと、神崎くんも言っていました」
「俺、そんなこと言ったっけ……?」
「言っていませんでしたか?」
「いや、言ったかもしれないけど!」
冷花は、楽しそうに微笑んだ。
「では、放課後に勉強会をしましょう」
「……わかった。絶対に負けないからな!」
「私も、負けません」
いつものように、二人は勝負を始める。
けれど、その関係は、もう以前とは違う。
学園の女王と呼ばれた少女は、一人で何でもできる完璧な存在であり続ける必要はないと知った。
彼女に勝ちたいと願った少年は、勝つことだけが大切なのではないと知った。
二人は、互いに足りないものを教え合いながら、少しずつ前へ進んでいく。
これからも、きっと勝負は続く。
数学の試験、運動会、将棋、料理。
どんな勝負でも、冷花は簡単には負けないだろう。
颯真も、決して諦めない。
そして勝負が終わるたびに、二人はきっと、また笑い合う。
いつか、その関係に新しい名前がつく日が来るかもしれない。
けれど、今はまだ、このままでいい。
勝ちたい相手がいる。
一緒に笑いたい相手がいる。
明日も会いたいと、心から思える相手がいる。
それだけで、二人の世界は以前よりずっと鮮やかになったのだから。
――学園の女王に、勝てない。
そんな日々は、これからも続いていく。
ただし、ひとつだけ変わったことがある。
神崎颯真にとって、一ノ瀬冷花は、もう倒すべきライバルだけではない。
いつか本当の意味で隣に立ちたい、世界でたった一人の特別な人だった。
私立星蘭学園の校門をくぐった神崎颯真は、いつもより少しだけ歩く速度を落としていた。
理由は簡単だ。
今日は、一ノ瀬冷花と一緒に帰る約束をしている。
ただそれだけのことなのに、朝から落ち着かなかった。
「……何やってんだ、俺」
颯真は小さく呟いた。
昨日までは、文化祭の準備や当日の進行で忙しかった。冷花と話す機会はいくらでもあったし、何か相談があれば自然に隣に立つこともできた。
けれど、今日は違う。
文化祭は終わった。
実行委員長と生徒会長という立場で、一緒に行動する理由はなくなった。
それでも、彼女と一緒にいたい。
その気持ちを、自分自身がはっきりと自覚してしまったからこそ、緊張していた。
「おはようございます、神崎くん」
「うおっ!?」
突然声をかけられ、颯真は肩を跳ねさせた。
振り返ると、そこには冷花が立っていた。
いつもどおり整った制服姿。背筋は伸び、表情は落ち着いている。
ただし、颯真にはわかった。
今日は、いつもより少しだけ表情が柔らかい。
「お、おはよう、一ノ瀬」
「どうかしましたか? 何か驚くようなことでも?」
「いや、別に! ちょっと考え事をしてただけだ!」
「そうですか。では、考え事の邪魔をしてしまいましたね」
「違う違う! お前に声をかけられたのが嫌だったとか、そういうことじゃないからな!」
冷花は、ぱちぱちと瞬きをした。
「……私は、嫌だったとは言っていませんが」
「……あ」
「神崎くんは、私に声をかけられるのが嫌なのですか?」
「そんなわけあるか!」
思わず大声を出してしまった。
周囲の生徒たちが一斉にこちらを見る。
颯真は慌てて声を落とした。
「……だから、そうじゃなくて」
「はい」
「……お前と話すのは、嫌じゃない。むしろ、その……」
「むしろ?」
「……楽しいんだよ」
言ってしまった。
冷花は、しばらく颯真を見つめていた。
そして、ふわりと微笑んだ。
「私もです」
「……っ!」
朝から心臓に悪い。
颯真は、これから一日を無事に過ごせるのか、本気で心配になった。
*
昼休み。
颯真が教室で弁当を広げていると、友人の佐伯が隣に座ってきた。
「なあ、神崎」
「何だよ」
「今日、一ノ瀬さんと一緒に帰るんだって?」
「……誰から聞いた」
「昨日、本人が『神崎くんと一緒に帰る約束をしました』って、普通に生徒会の子に話してたぞ」
「本人が!?」
「お前、そんなに驚くことか?」
佐伯は呆れたように笑った。
「それにしても、すごいよな。あの一ノ瀬さんが、わざわざお前と帰る予定を周りに話してるんだぜ」
「いや、あいつに深い意味は……」
「あるかもしれないだろ?」
「……」
颯真は黙った。
確かに、冷花は以前なら、誰かと一緒に帰る約束をわざわざ人に話したりしなかっただろう。
彼女は、自分の予定を正確に管理する人間だ。
必要がなければ、余計なことは話さない。
けれど最近は、自分の気持ちを言葉にするようになっている。
楽しい。
嬉しい。
一緒にいたい。
そんな言葉を、少しずつ口にしてくれるようになった。
「……俺はさ」
颯真は、弁当箱の蓋を閉じた。
「一ノ瀬にとって、特別な人間になりたいんだと思う」
佐伯は目を丸くした。
「おお。ついに認めたか」
「うるさいな」
「いや、だってさ。お前、最初は勝つことしか考えてなかったじゃん」
「……そうだな」
颯真は窓の外を見た。
初めて冷花に勝負を挑んだ日のことを思い出す。
彼女は、どんな勝負でも簡単に勝ってしまう、手の届かない相手だった。
悔しくて、負けたくなくて、何度も挑戦した。
けれど、いつからだろう。
勝負に負けても、彼女と話せることが嬉しくなったのは。
彼女が笑うと、自分まで嬉しくなったのは。
そして、彼女の隣にいることを、当たり前にしたいと思うようになったのは。
「……勝ちたい気持ちが、なくなったわけじゃないんだ」
「うん」
「でも、今はそれだけじゃない。あいつが何を考えてるのか、もっと知りたい。あいつが困ってたら助けたいし、嬉しいことがあったら一緒に喜びたい」
颯真は、少し照れくさそうに笑った。
「……そういう相手なんだよ、俺にとって」
佐伯は、しばらく黙っていた。
それから、にやりと笑う。
「じゃあ、今日の帰りに告白するのか?」
「しない!」
「即答かよ!」
「今は、あいつ自身が自分の気持ちを探してるところなんだ。俺の気持ちを押しつけたくない」
佐伯は、少しだけ真面目な表情になった。
「そっか。まあ、お前らしいな」
「……だから、変にからかうなよ」
「はいはい。頑張れよ、神崎」
颯真は返事をしなかった。
ただ、心の中では決めていた。
今日、冷花に伝えたいことがある。
告白ではない。
けれど、これからも一緒にいたいという気持ちを、きちんと言葉にしたかった。
*
放課後。
夕日が校舎の窓を赤く染めていた。
颯真が昇降口で待っていると、やがて冷花がやってきた。
「お待たせしました」
「いや、俺も今来たところだ」
「そうですか。では、帰りましょう」
二人は並んで歩き始めた。
校門を出ると、通学路には帰宅する生徒たちの姿があった。
最初は、文化祭の話をしていた。
どの企画が面白かったか。
どの発表が印象に残ったか。
片づけのときに、誰が最後まで残っていたか。
そんな、何気ない話だ。
けれど、颯真は気づいていた。
冷花が、以前よりも自然に話していることに。
相手の反応を気にしすぎず、自分が感じたことを伝えてくれる。
そして、颯真の話にも、楽しそうに耳を傾けてくれる。
「……なあ、一ノ瀬」
「はい?」
「文化祭が終わっても、俺たちの関係は変わらないよな?」
冷花は、足を止めた。
「関係、ですか?」
「ああ。実行委員長と生徒会長として一緒に行動することは、もうないだろ?」
「そうですね」
「だから、その……」
颯真は、少しだけ視線をそらした。
「これからも、一緒に勉強したり、話したり、勝負したりしたいんだ」
冷花は、黙って聞いていた。
「もちろん、お前が忙しいときは無理にとは言わない。でも、俺は……お前と一緒にいる時間が好きなんだ」
言葉にした途端、胸が熱くなった。
ずっと思っていたことだ。
けれど、口に出すのは初めてだった。
「……だから、これからも誘っていいか?」
冷花は、ゆっくりと顔を上げた。
夕日の光が、彼女の瞳に映っている。
「……はい」
小さな声だった。
けれど、その声には、確かな喜びがあった。
「私も、神崎くんと一緒にいたいです」
「……本当か?」
「はい。神崎くんと勉強するのも、勝負するのも、何気ないお話をするのも、好きです」
冷花は、少し考えてから続けた。
「以前の私は、誰かと一緒にいることに、特別な意味を感じていませんでした。必要なことがあれば話し、協力する。それで十分だと思っていました」
「……うん」
「ですが、神崎くんと出会ってから、少し変わりました」
彼女は、自分の胸元にそっと手を当てた。
「神崎くんがいないと、少し寂しいのです。神崎くんが笑っていると、私も嬉しくなります。何かあったとき、最初に話したいと思うこともあります」
颯真は、息を止めた。
それは、彼がずっと聞きたかった言葉だった。
「……一ノ瀬」
「はい」
「それって……」
好き、ということなのだろうか。
喉まで出かかった言葉を、颯真は飲み込んだ。
まだ、答えを急ぐ必要はない。
彼女は、彼女なりに考えている。
ならば、自分はその時間も大切にしたかった。
「……いや。何でもない」
「そうですか?」
「ああ」
颯真は笑った。
「でも、今の言葉は嬉しかった。ありがとう」
冷花は、ほっとしたように微笑んだ。
「どういたしまして」
二人は、再び歩き始めた。
その距離は、いつの間にか、以前よりも少しだけ近くなっていた。
*
駅へ向かう道の途中。
颯真は、ふと思い出したように言った。
「そうだ、一ノ瀬。最後に一つ、頼みがあるんだけど」
「何でしょうか?」
「これからも、俺と勝負してくれないか?」
冷花は、目を丸くした。
「……それは、今までどおりということですか?」
「ああ。でも、前とは少し違う」
颯真は、まっすぐに彼女を見た。
「俺は、これからもお前に勝ちたい。勉強でも、運動でも、将棋でもな」
「はい」
「でも、勝負が終わったら、それで終わりっていうのは嫌なんだ」
彼は、照れくさそうに笑った。
「勝っても負けても、そのあとにお前と話したい。お前がどんなことを考えてるのか知りたいし、俺のことも知ってほしい」
冷花は、しばらく彼を見つめていた。
そして、ゆっくりと頷いた。
「……わかりました」
「本当か?」
「はい。私も、神崎くんとの勝負を続けたいと思っています」
冷花は、少しだけいたずらっぽく微笑んだ。
「ただし、これまでどおり、手加減はしません」
「望むところだ!」
「次の数学の試験では、満点を取ります。神崎くんも、当然満点を目指してください」
「お前、いきなり勉強の話かよ!」
「勝負の約束ですから」
「だったら、俺が勝ったら何かご褒美をくれよ」
「ご褒美、ですか?」
「ああ。そうだな……」
颯真は少し考えた。
「今度、一緒に本屋に行かないか? お前が好きそうな本も知りたいし、俺のおすすめも教えたい」
冷花は、嬉しそうに微笑んだ。
「いいですね。では、私が勝った場合は?」
「えっ?」
「私が勝った場合にも、何かお願いをしてよいのでしょうか?」
「もちろんだ!」
冷花は、少し考えたあと、答えた。
「では、私が勝ったら……また、一緒に帰ってください」
颯真は、驚いて彼女を見た。
「……それ、勝負に関係なくてもいいだろ」
「ですが、勝負に勝ったときの特別なお願いにしたいのです」
「……そっか」
颯真は、思わず笑ってしまった。
「わかった。じゃあ、俺も絶対に負けられないな」
「私も、負けるつもりはありません」
二人は顔を見合わせた。
そして、同時に笑った。
それは、勝負を始めたばかりの頃には想像もできなかった光景だった。
以前の二人は、勝ち負けだけを見ていた。
けれど、今は違う。
勝負の先に、相手と過ごす時間がある。
勝ちたいという気持ちも、負けたくないという意地も、すべてが二人をつなぐ大切なものになっていた。
*
駅に到着すると、二人は改札の前で立ち止まった。
「今日は、ありがとうございました」
冷花が丁寧に頭を下げた。
「いや、こっちこそ。付き合ってくれてありがとう」
「……神崎くん」
「ん?」
「また、明日もお話ししてくださいますか?」
颯真は、驚いた。
そして、すぐに笑った。
「当たり前だろ。明日も、その次の日もな」
「……はい」
冷花の頬が、ほんのり赤くなった。
颯真は、それに気づいたけれど、何も言わなかった。
からかったら、きっと彼女は真剣に理由を分析し始めるだろう。
それも面白いけれど、今はこの笑顔を大切にしたかった。
「じゃあ、また明日な。一ノ瀬」
「はい。また明日、神崎くん」
二人は、それぞれの改札へ向かった。
けれど、別れる直前。
「神崎くん!」
冷花が振り返った。
「どうした?」
彼女は、少しだけ迷ってから、言った。
「……私にとって、神崎くんは特別な人です」
颯真は、立ち止まった。
「……え?」
「まだ、その理由をすべて説明することはできません。ですが、ほかの人とは違います。これからも、そばにいてほしいと思っています」
冷花は、まっすぐに彼を見つめていた。
「ですから……これからも、よろしくお願いします」
颯真は、しばらく何も言えなかった。
胸の奥が、熱くなった。
自分が彼女にとって特別な存在になりたいと願っていた。
その願いが、今、彼女自身の言葉になって返ってきたのだ。
恋人になったわけではない。
好きだと、はっきり伝え合ったわけでもない。
それでも、今の颯真には十分だった。
彼は、満面の笑みを浮かべた。
「……ああ。こちらこそ、よろしくな!」
冷花も、嬉しそうに笑った。
その笑顔を見て、颯真は思った。
いつか、彼女にきちんと気持ちを伝えよう。
そして、彼女が自分の気持ちに答えを見つけたときには、隣で一緒に喜びたい。
その日が来るまで、何度でも勝負を挑もう。
何度でも話しかけよう。
彼女が笑ってくれる、その瞬間を大切にしながら。
*
翌朝。
颯真が教室に入ると、冷花が一冊のノートを持って近づいてきた。
「神崎くん。昨日の数学の問題について、確認したいことがあります」
「……おい。朝から勝負か?」
「はい。次の試験に向けて、準備を始めようと思いまして」
「まだ試験まで時間があるだろ!」
「準備は早いほうがよいと、神崎くんも言っていました」
「俺、そんなこと言ったっけ……?」
「言っていませんでしたか?」
「いや、言ったかもしれないけど!」
冷花は、楽しそうに微笑んだ。
「では、放課後に勉強会をしましょう」
「……わかった。絶対に負けないからな!」
「私も、負けません」
いつものように、二人は勝負を始める。
けれど、その関係は、もう以前とは違う。
学園の女王と呼ばれた少女は、一人で何でもできる完璧な存在であり続ける必要はないと知った。
彼女に勝ちたいと願った少年は、勝つことだけが大切なのではないと知った。
二人は、互いに足りないものを教え合いながら、少しずつ前へ進んでいく。
これからも、きっと勝負は続く。
数学の試験、運動会、将棋、料理。
どんな勝負でも、冷花は簡単には負けないだろう。
颯真も、決して諦めない。
そして勝負が終わるたびに、二人はきっと、また笑い合う。
いつか、その関係に新しい名前がつく日が来るかもしれない。
けれど、今はまだ、このままでいい。
勝ちたい相手がいる。
一緒に笑いたい相手がいる。
明日も会いたいと、心から思える相手がいる。
それだけで、二人の世界は以前よりずっと鮮やかになったのだから。
――学園の女王に、勝てない。
そんな日々は、これからも続いていく。
ただし、ひとつだけ変わったことがある。
神崎颯真にとって、一ノ瀬冷花は、もう倒すべきライバルだけではない。
いつか本当の意味で隣に立ちたい、世界でたった一人の特別な人だった。



