文化祭前日。
私立星蘭学園は、いつもとは違う熱気に包まれていた。
廊下には色とりどりの装飾が飾られ、教室の扉には各クラスの看板が取り付けられている。体育館では最後のリハーサルが行われ、校庭には模擬店のテントが並んでいた。
生徒たちは忙しそうに動き回っているが、その表情は明るい。
これまで積み重ねてきた準備が、いよいよ形になろうとしていた。
「神崎くん、こちらの確認をお願いします」
「おう。……よし、問題なし!」
実行委員長の神崎颯真は、書類を確認して冷花に返した。
「これで、二年生の展示も準備完了だな」
「はい。皆さんが協力してくださったおかげです」
冷花は、廊下の向こうで飾りつけをしている生徒たちを見つめた。
以前なら、準備のほとんどを自分で確認し、問題があればその場で指示を出していた。
けれど、今は違う。
困ったことがあれば、まず担当者が相談し、できるだけ自分たちで解決しようとしている。
冷花も、すぐに答えを出すのではなく、彼らの話を聞くようになった。
その変化を、颯真は嬉しく思っていた。
「……何か?」
冷花が視線に気づいて尋ねる。
「いや。お前、変わったなと思ってさ」
「変わりましたか?」
「ああ。前より、みんなと楽しそうに話してる」
「……そうでしょうか」
冷花は少し考えたあと、微笑んだ。
「神崎くんのおかげかもしれません」
「えっ?」
「神崎くんが、私の話を聞いてくれたからです。自分では気づかなかったことを、たくさん教えてくれました」
「……いや、俺は大したことしてないって」
「そんなことはありません」
冷花は、きっぱりと言った。
「私にとっては、とても大切なことでした」
「…………」
颯真は、返す言葉を失った。
最近、彼女はこういう言葉を、以前より自然に口にするようになった。
そして、そのたびに颯真は調子を狂わされる。
何しろ、彼女はまったく悪気がないのだ。
「……お前、ほんとにそういうところあるよな」
「そういうところ、とは?」
「だから……何でもない!」
颯真は、慌てて書類をまとめた。
冷花は首を傾げたが、それ以上は追及しなかった。
そのとき、廊下の向こうから佐伯が駆け寄ってきた。
「神崎! 一ノ瀬! ちょっといいか?」
「どうした?」
「体育館の準備が終わったから、確認してほしいってさ。それと……」
佐伯は二人を交互に見て、にやりと笑った。
「明日の文化祭が終わったら、お前たち、何か予定あるの?」
「何だよ、急に」
「いやあ、文化祭が終わったら二人で打ち上げでもするのかなって」
「しねえよ!」
颯真が即座に否定すると、佐伯は大げさに肩をすくめた。
「はいはい。まだ何もないんですね」
「まだって何だ!」
冷花は、二人のやり取りを不思議そうに眺めていた。
「打ち上げでしたら、実行委員の皆さんで行うのがよいと思います」
「……一ノ瀬、お前はもう少し空気を読め」
「空気、ですか?」
「いや、今のは忘れてくれ!」
佐伯は腹を抱えて笑った。
冷花は納得できない様子だったが、颯真の顔が赤くなっていることには気づいていた。
そして、少しだけ嬉しくなった。
神崎くんは、どうして自分と話すとき、こんなにも表情が変わるのだろう。
その理由を知りたいと思う自分がいる。
けれど、今はまだ、それを尋ねる勇気がなかった。
*
午後四時。
文化祭の準備は、ほぼすべて終了した。
最後の確認を終えた生徒たちは、満足そうな顔で帰っていく。
「神崎くん」
生徒会室で資料を片づけていた冷花が、颯真に声をかけた。
「今日の約束ですが、覚えていますか?」
「……約束?」
「将棋です」
「ああ!」
颯真は、思わず拳を握った。
そうだった。
以前から、二人で将棋を指す約束をしていたのだ。
冷花は勉強も運動も得意だが、将棋でも驚くほど強い。
颯真は何度も挑戦しているものの、まだ一度も勝てていなかった。
「よし、やろうぜ! 今度こそ勝つ!」
「期待しています」
「その余裕、今日こそ崩してやるからな!」
冷花は小さく笑った。
「楽しみにしています」
その笑顔を見て、颯真はふと思った。
この時間が、ずっと続けばいいのに。
文化祭が終わっても。
実行委員の仕事がなくなっても。
こうして、二人で話したり、勝負したりできたらいい。
以前は、勝つことだけを考えていた。
しかし今は、勝負そのものが楽しみになっている。
冷花と向き合い、互いに本気で考え、勝ったり負けたりする。
その時間が、自分にとって特別なものになっていた。
「……一ノ瀬」
「はい?」
「今日は、手加減するなよ」
冷花は、真剣な表情で頷いた。
「もちろんです。神崎くんが相手なら、私も本気で臨みます」
「よし!」
二人は向かい合って座った。
盤上に駒が並べられる。
颯真は、深く息を吸った。
今日は勝ちたい。
今まで以上に、強くそう思っていた。
*
対局が始まった。
颯真は、これまでの対局を思い出しながら、一手ずつ慎重に駒を進めていく。
冷花の指し手は、相変わらず正確だった。
無駄がなく、先を読み、こちらの狙いを見抜いてくる。
しかし、颯真も以前とは違っていた。
何度も負けた経験をもとに、自分の弱点を分析してきた。
焦って攻めすぎないこと。
相手の狙いを考えること。
目の前の一手だけでなく、その先を読むこと。
そして何より、冷花の強さを恐れないこと。
「……ここだ!」
颯真が駒を進めた。
冷花の手が、ぴたりと止まる。
「……なるほど」
彼女は盤面を見つめた。
「以前の神崎くんなら、この手は選ばなかったでしょうね」
「だろ? 俺だって成長してるんだ」
「はい。よい手だと思います」
「……っ」
素直に褒められると、やはり嬉しい。
だが、今日の颯真は浮かれなかった。
ここで気を抜けば、また負ける。
冷花が次の駒を動かす。
颯真も、すぐに応じた。
互いに譲らない展開が続いた。
十分。
二十分。
やがて、盤面は終盤へと進んでいった。
颯真の額に汗がにじむ。
冷花もまた、いつも以上に真剣な表情を浮かべていた。
この人は、本気だ。
自分に勝たせるつもりなど、少しもない。
それが嬉しかった。
冷花は、自分を対等な勝負相手として見てくれている。
だからこそ、負けたくなかった。
「……神崎くん」
冷花が静かに言った。
「はい?」
「以前より、ずっと強くなりましたね」
「……当たり前だろ。お前に勝つために、練習してきたんだから」
言ってから、颯真は少しだけ言葉を足した。
「……お前と、もっといい勝負がしたかったんだ」
冷花は、ゆっくりと顔を上げた。
「もっと、いい勝負を?」
「ああ。お前が本気で考えて、俺も本気で考えて。それで、どっちが勝つかわからないような勝負がしたかった」
颯真は盤面を見つめた。
「俺は、お前に勝ちたい。でも……」
言葉が、自然と続いた。
「お前と勝負できなくなるのは、嫌なんだ」
冷花の瞳が揺れた。
「……神崎くん」
「だから、これからも勝負してくれよ。文化祭が終わっても、その先も」
颯真は顔を上げた。
「お前に勝つまでは、絶対に諦めないからな」
冷花は、しばらく黙っていた。
そして、ゆっくりと微笑んだ。
「……はい。喜んで」
その笑顔を見た瞬間、颯真の胸が熱くなった。
自分は、何を求めているのだろう。
勝つことだけではない。
冷花に認められることだけでもない。
彼女と一緒にいたい。
彼女の笑顔を見たい。
自分の言葉で、彼女が嬉しそうにしてくれると、それだけで幸せな気持ちになる。
そして。
彼女が自分以外の誰かに、同じような笑顔を向けているところを想像すると、少しだけ胸がざわつく。
「……ああ、そうか」
颯真は、心の中で呟いた。
ようやく、わかった気がした。
自分は、一ノ瀬冷花のことが好きなのだ。
ただの勝負相手としてではなく。
ただの友人としてでもなく。
もっと特別な存在として。
そう認めた瞬間、盤面の景色まで変わったような気がした。
けれど、今はまだ、伝えるつもりはなかった。
この気持ちを、どう言葉にすればいいのかわからない。
それに、冷花自身も、まだ自分の気持ちを探している最中なのだ。
急かしたくはなかった。
だから、今は。
目の前の勝負に集中する。
「……よし!」
颯真は、最後の一手を考えた。
そして、駒を動かした。
冷花は盤面を見つめたまま、しばらく動かなかった。
やがて、静かに息を吐いた。
「……負けました」
「……え?」
颯真は目を丸くした。
「今、何て?」
「私の負けです。神崎くんの勝ちですね」
「う、嘘だろ……?」
盤面を見直す。
確かに、冷花の王には逃げ道がない。
颯真は、ついに初めて彼女を追い詰めていた。
「……やった!」
思わず、椅子から立ち上がる。
「やっと勝った! 一ノ瀬に勝ったぞ!」
子どものように喜ぶ颯真を見て、冷花は声を立てて笑った。
「ふふっ……。おめでとうございます、神崎くん」
「……っ!」
その笑顔に、颯真は再び固まった。
勝った。
ずっと目標にしていた相手に、ついに勝ったのだ。
なのに。
今、一番嬉しいのは、勝利そのものではなかった。
冷花が笑ってくれたこと。
自分の成長を、心から喜んでくれたこと。
そして、これからも一緒に勝負をすると約束してくれたこと。
それが、何よりも嬉しかった。
「……ありがとう、一ノ瀬」
颯真は、静かに言った。
「本気で勝負してくれて」
冷花は、優しく頷いた。
「こちらこそ。神崎くんと勝負できて、とても楽しかったです」
二人は、盤面を挟んで笑い合った。
勝負は終わった。
けれど、二人の関係は、ここから新しい一歩を踏み出そうとしていた。
*
帰り道。
校門を出たところで、冷花が足を止めた。
「神崎くん」
「ん?」
「今日は、本当に嬉しかったです」
「……勝負に負けたのに?」
「はい」
冷花は、少しだけ考えてから続けた。
「神崎くんが、私に勝つために努力してきたことを知っています。だから、今日の勝利は、神崎くんが積み重ねてきた努力の結果だと思います」
「……お前」
「それに……」
冷花は、頬をわずかに赤くした。
「神崎くんと、こんなふうに本気で向き合えることが、私は好きなのだと思います」
颯真の足が止まった。
「……好き?」
「はい。勝負をすることも、話をすることも。一緒に考えることも。神崎くんと過ごす時間は、私にとって大切です」
冷花は、まっすぐに彼を見つめた。
「まだ、それが恋愛感情なのかはわかりません。でも、神崎くんとこれからも一緒にいたいと思っています」
颯真は、胸の奥がいっぱいになった。
彼女はまだ、答えを出していない。
それでも、自分との時間を大切に思ってくれている。
そのことが、何よりも嬉しかった。
「……そっか」
颯真は、照れくさそうに笑った。
「じゃあ、これからも一緒にいようぜ」
「はい」
「勝負も続けるからな。今日勝ったくらいで、満足するつもりはないぞ」
「もちろんです。次は私が勝ちます」
「望むところだ!」
二人は、いつものように笑い合った。
夕暮れの道を、並んで歩いていく。
颯真は、もう迷っていなかった。
冷花に勝ちたい。
彼女の笑顔を見たい。
そして、これからも隣にいたい。
そのすべてが、自分の本当の気持ちなのだ。
私立星蘭学園は、いつもとは違う熱気に包まれていた。
廊下には色とりどりの装飾が飾られ、教室の扉には各クラスの看板が取り付けられている。体育館では最後のリハーサルが行われ、校庭には模擬店のテントが並んでいた。
生徒たちは忙しそうに動き回っているが、その表情は明るい。
これまで積み重ねてきた準備が、いよいよ形になろうとしていた。
「神崎くん、こちらの確認をお願いします」
「おう。……よし、問題なし!」
実行委員長の神崎颯真は、書類を確認して冷花に返した。
「これで、二年生の展示も準備完了だな」
「はい。皆さんが協力してくださったおかげです」
冷花は、廊下の向こうで飾りつけをしている生徒たちを見つめた。
以前なら、準備のほとんどを自分で確認し、問題があればその場で指示を出していた。
けれど、今は違う。
困ったことがあれば、まず担当者が相談し、できるだけ自分たちで解決しようとしている。
冷花も、すぐに答えを出すのではなく、彼らの話を聞くようになった。
その変化を、颯真は嬉しく思っていた。
「……何か?」
冷花が視線に気づいて尋ねる。
「いや。お前、変わったなと思ってさ」
「変わりましたか?」
「ああ。前より、みんなと楽しそうに話してる」
「……そうでしょうか」
冷花は少し考えたあと、微笑んだ。
「神崎くんのおかげかもしれません」
「えっ?」
「神崎くんが、私の話を聞いてくれたからです。自分では気づかなかったことを、たくさん教えてくれました」
「……いや、俺は大したことしてないって」
「そんなことはありません」
冷花は、きっぱりと言った。
「私にとっては、とても大切なことでした」
「…………」
颯真は、返す言葉を失った。
最近、彼女はこういう言葉を、以前より自然に口にするようになった。
そして、そのたびに颯真は調子を狂わされる。
何しろ、彼女はまったく悪気がないのだ。
「……お前、ほんとにそういうところあるよな」
「そういうところ、とは?」
「だから……何でもない!」
颯真は、慌てて書類をまとめた。
冷花は首を傾げたが、それ以上は追及しなかった。
そのとき、廊下の向こうから佐伯が駆け寄ってきた。
「神崎! 一ノ瀬! ちょっといいか?」
「どうした?」
「体育館の準備が終わったから、確認してほしいってさ。それと……」
佐伯は二人を交互に見て、にやりと笑った。
「明日の文化祭が終わったら、お前たち、何か予定あるの?」
「何だよ、急に」
「いやあ、文化祭が終わったら二人で打ち上げでもするのかなって」
「しねえよ!」
颯真が即座に否定すると、佐伯は大げさに肩をすくめた。
「はいはい。まだ何もないんですね」
「まだって何だ!」
冷花は、二人のやり取りを不思議そうに眺めていた。
「打ち上げでしたら、実行委員の皆さんで行うのがよいと思います」
「……一ノ瀬、お前はもう少し空気を読め」
「空気、ですか?」
「いや、今のは忘れてくれ!」
佐伯は腹を抱えて笑った。
冷花は納得できない様子だったが、颯真の顔が赤くなっていることには気づいていた。
そして、少しだけ嬉しくなった。
神崎くんは、どうして自分と話すとき、こんなにも表情が変わるのだろう。
その理由を知りたいと思う自分がいる。
けれど、今はまだ、それを尋ねる勇気がなかった。
*
午後四時。
文化祭の準備は、ほぼすべて終了した。
最後の確認を終えた生徒たちは、満足そうな顔で帰っていく。
「神崎くん」
生徒会室で資料を片づけていた冷花が、颯真に声をかけた。
「今日の約束ですが、覚えていますか?」
「……約束?」
「将棋です」
「ああ!」
颯真は、思わず拳を握った。
そうだった。
以前から、二人で将棋を指す約束をしていたのだ。
冷花は勉強も運動も得意だが、将棋でも驚くほど強い。
颯真は何度も挑戦しているものの、まだ一度も勝てていなかった。
「よし、やろうぜ! 今度こそ勝つ!」
「期待しています」
「その余裕、今日こそ崩してやるからな!」
冷花は小さく笑った。
「楽しみにしています」
その笑顔を見て、颯真はふと思った。
この時間が、ずっと続けばいいのに。
文化祭が終わっても。
実行委員の仕事がなくなっても。
こうして、二人で話したり、勝負したりできたらいい。
以前は、勝つことだけを考えていた。
しかし今は、勝負そのものが楽しみになっている。
冷花と向き合い、互いに本気で考え、勝ったり負けたりする。
その時間が、自分にとって特別なものになっていた。
「……一ノ瀬」
「はい?」
「今日は、手加減するなよ」
冷花は、真剣な表情で頷いた。
「もちろんです。神崎くんが相手なら、私も本気で臨みます」
「よし!」
二人は向かい合って座った。
盤上に駒が並べられる。
颯真は、深く息を吸った。
今日は勝ちたい。
今まで以上に、強くそう思っていた。
*
対局が始まった。
颯真は、これまでの対局を思い出しながら、一手ずつ慎重に駒を進めていく。
冷花の指し手は、相変わらず正確だった。
無駄がなく、先を読み、こちらの狙いを見抜いてくる。
しかし、颯真も以前とは違っていた。
何度も負けた経験をもとに、自分の弱点を分析してきた。
焦って攻めすぎないこと。
相手の狙いを考えること。
目の前の一手だけでなく、その先を読むこと。
そして何より、冷花の強さを恐れないこと。
「……ここだ!」
颯真が駒を進めた。
冷花の手が、ぴたりと止まる。
「……なるほど」
彼女は盤面を見つめた。
「以前の神崎くんなら、この手は選ばなかったでしょうね」
「だろ? 俺だって成長してるんだ」
「はい。よい手だと思います」
「……っ」
素直に褒められると、やはり嬉しい。
だが、今日の颯真は浮かれなかった。
ここで気を抜けば、また負ける。
冷花が次の駒を動かす。
颯真も、すぐに応じた。
互いに譲らない展開が続いた。
十分。
二十分。
やがて、盤面は終盤へと進んでいった。
颯真の額に汗がにじむ。
冷花もまた、いつも以上に真剣な表情を浮かべていた。
この人は、本気だ。
自分に勝たせるつもりなど、少しもない。
それが嬉しかった。
冷花は、自分を対等な勝負相手として見てくれている。
だからこそ、負けたくなかった。
「……神崎くん」
冷花が静かに言った。
「はい?」
「以前より、ずっと強くなりましたね」
「……当たり前だろ。お前に勝つために、練習してきたんだから」
言ってから、颯真は少しだけ言葉を足した。
「……お前と、もっといい勝負がしたかったんだ」
冷花は、ゆっくりと顔を上げた。
「もっと、いい勝負を?」
「ああ。お前が本気で考えて、俺も本気で考えて。それで、どっちが勝つかわからないような勝負がしたかった」
颯真は盤面を見つめた。
「俺は、お前に勝ちたい。でも……」
言葉が、自然と続いた。
「お前と勝負できなくなるのは、嫌なんだ」
冷花の瞳が揺れた。
「……神崎くん」
「だから、これからも勝負してくれよ。文化祭が終わっても、その先も」
颯真は顔を上げた。
「お前に勝つまでは、絶対に諦めないからな」
冷花は、しばらく黙っていた。
そして、ゆっくりと微笑んだ。
「……はい。喜んで」
その笑顔を見た瞬間、颯真の胸が熱くなった。
自分は、何を求めているのだろう。
勝つことだけではない。
冷花に認められることだけでもない。
彼女と一緒にいたい。
彼女の笑顔を見たい。
自分の言葉で、彼女が嬉しそうにしてくれると、それだけで幸せな気持ちになる。
そして。
彼女が自分以外の誰かに、同じような笑顔を向けているところを想像すると、少しだけ胸がざわつく。
「……ああ、そうか」
颯真は、心の中で呟いた。
ようやく、わかった気がした。
自分は、一ノ瀬冷花のことが好きなのだ。
ただの勝負相手としてではなく。
ただの友人としてでもなく。
もっと特別な存在として。
そう認めた瞬間、盤面の景色まで変わったような気がした。
けれど、今はまだ、伝えるつもりはなかった。
この気持ちを、どう言葉にすればいいのかわからない。
それに、冷花自身も、まだ自分の気持ちを探している最中なのだ。
急かしたくはなかった。
だから、今は。
目の前の勝負に集中する。
「……よし!」
颯真は、最後の一手を考えた。
そして、駒を動かした。
冷花は盤面を見つめたまま、しばらく動かなかった。
やがて、静かに息を吐いた。
「……負けました」
「……え?」
颯真は目を丸くした。
「今、何て?」
「私の負けです。神崎くんの勝ちですね」
「う、嘘だろ……?」
盤面を見直す。
確かに、冷花の王には逃げ道がない。
颯真は、ついに初めて彼女を追い詰めていた。
「……やった!」
思わず、椅子から立ち上がる。
「やっと勝った! 一ノ瀬に勝ったぞ!」
子どものように喜ぶ颯真を見て、冷花は声を立てて笑った。
「ふふっ……。おめでとうございます、神崎くん」
「……っ!」
その笑顔に、颯真は再び固まった。
勝った。
ずっと目標にしていた相手に、ついに勝ったのだ。
なのに。
今、一番嬉しいのは、勝利そのものではなかった。
冷花が笑ってくれたこと。
自分の成長を、心から喜んでくれたこと。
そして、これからも一緒に勝負をすると約束してくれたこと。
それが、何よりも嬉しかった。
「……ありがとう、一ノ瀬」
颯真は、静かに言った。
「本気で勝負してくれて」
冷花は、優しく頷いた。
「こちらこそ。神崎くんと勝負できて、とても楽しかったです」
二人は、盤面を挟んで笑い合った。
勝負は終わった。
けれど、二人の関係は、ここから新しい一歩を踏み出そうとしていた。
*
帰り道。
校門を出たところで、冷花が足を止めた。
「神崎くん」
「ん?」
「今日は、本当に嬉しかったです」
「……勝負に負けたのに?」
「はい」
冷花は、少しだけ考えてから続けた。
「神崎くんが、私に勝つために努力してきたことを知っています。だから、今日の勝利は、神崎くんが積み重ねてきた努力の結果だと思います」
「……お前」
「それに……」
冷花は、頬をわずかに赤くした。
「神崎くんと、こんなふうに本気で向き合えることが、私は好きなのだと思います」
颯真の足が止まった。
「……好き?」
「はい。勝負をすることも、話をすることも。一緒に考えることも。神崎くんと過ごす時間は、私にとって大切です」
冷花は、まっすぐに彼を見つめた。
「まだ、それが恋愛感情なのかはわかりません。でも、神崎くんとこれからも一緒にいたいと思っています」
颯真は、胸の奥がいっぱいになった。
彼女はまだ、答えを出していない。
それでも、自分との時間を大切に思ってくれている。
そのことが、何よりも嬉しかった。
「……そっか」
颯真は、照れくさそうに笑った。
「じゃあ、これからも一緒にいようぜ」
「はい」
「勝負も続けるからな。今日勝ったくらいで、満足するつもりはないぞ」
「もちろんです。次は私が勝ちます」
「望むところだ!」
二人は、いつものように笑い合った。
夕暮れの道を、並んで歩いていく。
颯真は、もう迷っていなかった。
冷花に勝ちたい。
彼女の笑顔を見たい。
そして、これからも隣にいたい。
そのすべてが、自分の本当の気持ちなのだ。



