文化祭まで、あと三日。
私立星蘭学園は、朝から慌ただしい雰囲気に包まれていた。
廊下には装飾用の花飾りが並び、教室からは看板を作る音が聞こえる。体育館では舞台発表のリハーサルが行われ、校庭では模擬店の設営が進んでいた。
生徒たちは、それぞれの役割を果たそうと懸命に動いている。
そんな中、生徒会室では一ノ瀬冷花が資料を確認していた。
「二年三組の展示ですが、通路の幅が予定より狭くなっています。机を二つ移動してください」
「は、はい!」
「それから、体育館の発表順についてですが、転換時間が不足しています。各団体の持ち時間を再調整する必要があります」
「わ、わかりました!」
報告に来た生徒たちは、冷花の言葉に何度も頷いた。
彼女の指摘は正しい。
展示の通路が狭ければ来場者が滞留するし、舞台の転換時間が不足すれば進行に遅れが生じる。
どちらも、文化祭を成功させるためには見過ごせない問題だった。
しかし、報告を終えた生徒たちの表情は、どこか暗かった。
「……やっぱり、私たちでは駄目なのかな」
「一ノ瀬先輩に言われると、全部失敗している気がするよね……」
廊下から、そんな声が聞こえてくる。
冷花は顔を上げた。
「……何か、問題があったのでしょうか」
問いかけても、返事はない。
生徒たちは気まずそうに頭を下げ、そのまま立ち去ってしまった。
冷花は資料に視線を戻した。
指摘した内容に間違いはない。
改善すべき点を伝えたのだから、仕事は前に進むはずだ。
それなのに、どうして彼らはあんな表情をするのだろう。
「……難しいですね」
小さく呟いたときだった。
「一ノ瀬、いるか?」
生徒会室の扉から、神崎颯真が顔を出した。
「神崎くん。どうしましたか?」
「実行委員の打ち合わせで、ちょっと相談があってさ……って、どうした?」
「何がですか?」
「いや、お前、なんか元気ないように見えるぞ」
冷花は瞬きをした。
「そうでしょうか。体調に問題はありません」
「体調の話じゃなくて……」
颯真は言いかけて、口を閉じた。
冷花はいつもどおりの表情をしている。
けれど、以前より少しだけわかるようになった。
彼女が困っているとき、必ずしも表情に出るわけではない。
むしろ、困っているほど、いつも以上に冷静に振る舞おうとすることがある。
「……何かあったのか?」
颯真が尋ねると、冷花は少し考えてから答えた。
「文化祭の準備について、改善が必要な点を伝えたのですが、皆さんの反応がよくありませんでした」
「なるほどな」
「指摘した内容に間違いはないと思います。ですが、皆さんが不快に感じる理由がわかりません」
冷花は手元の資料を見つめた。
「私は、文化祭を成功させたいだけなのですが……」
その声は、いつもより小さかった。
颯真は椅子を引き、彼女の向かいに座った。
「……そっか。じゃあ、一緒に考えようぜ」
「ありがとうございます」
冷花は、少しだけ表情を和らげた。
しかし、その日の午後。
二人は、予想していなかった問題に直面することになる。
*
午後の実行委員会。
各クラスの代表者が集まり、文化祭当日の最終確認を行っていた。
進行役は颯真。
冷花は、生徒会長として必要な資料を用意していた。
「では、各企画の最終確認を始めます。変更点がある場合は、この場で共有してください」
颯真がそう告げると、何人かの生徒が手を挙げた。
「三年一組の展示なんですが、来場者に配るカードを増やしたいです」
「いいな。それなら、追加分の印刷を誰が担当するか決めよう」
颯真が話を進めようとしたとき、冷花が資料を確認した。
「追加印刷は、現在の予算では難しいと思います。予定枚数でも不足は生じないはずです」
手を挙げた生徒が、戸惑ったように口を閉じた。
「……そう、ですよね」
「配布方法を変更すれば、追加印刷をせずに対応できる可能性があります。必要であれば、代替案を検討します」
冷花の説明は正確だった。
けれど、その場の空気は少しずつ重くなっていった。
別の生徒が、おそるおそる手を挙げる。
「体育館の発表なんですけど、予定より準備に時間がかかりそうで……」
「その場合は、各団体の準備手順を見直す必要があります。前回の資料に手順をまとめていますので、確認してください」
「……はい」
「確認しても解決しない場合は、具体的な問題点を報告してください。こちらで対応を検討します」
また、生徒が黙り込む。
颯真は周囲を見渡した。
誰もが、何か言いたそうにしている。
しかし、誰も口を開こうとしない。
会議の前には、もっと活発に意見を出していたはずだ。
「……ちょっと待ってくれ」
颯真は、冷花のほうを向いた。
「一ノ瀬。今の話、もう少し詳しく聞いてみてもいいんじゃないか?」
「詳しく、ですか?」
「ああ。どうしてカードを増やしたいのかとか、なんで準備に時間がかかってるのかとかさ」
「ですが、必要な情報が不足している状態では、適切な判断ができません」
「それはそうだけど……」
颯真は、言葉を選んだ。
「みんな、何か理由があって相談してるんだと思うんだ。その理由を聞いてから、一緒に考えてもいいんじゃないか?」
冷花は少し考えた。
「……わかりました」
そして、提案した生徒たちに向き直る。
「では、詳しい事情を教えていただけますか?」
声の調子は、いつもどおりだった。
生徒たちは顔を見合わせた。
「……いえ、大丈夫です。こちらで何とかします」
「私たちも、もう少し考えてみます」
「お時間を取らせて、すみませんでした」
次々に、相談が引っ込められていく。
颯真は焦った。
これでは、何も変わっていない。
「いや、待ってくれ。せっかくの相談なんだから、もう少し――」
「神崎くん」
冷花が静かに声をかけた。
「時間も限られています。必要な事項の確認を優先しましょう」
「……っ」
颯真は、思わず口を閉じた。
彼女の言うことは正しい。
文化祭まで時間がない以上、すべての相談に長い時間をかけることはできない。
しかし、今ここで話を打ち切れば、彼らはもう相談してくれないかもしれない。
会議はそのまま進んだ。
予定された項目は、すべて確認できた。
議事録も完成した。
数字の上では、問題なく終わった会議だった。
それなのに、颯真には、何一つ解決していないように感じられた。
*
会議が終わったあと。
颯真は、廊下で実行委員の生徒たちに声をかけた。
「なあ、さっきの話なんだけどさ」
振り返った生徒たちは、少し困った顔をした。
「神崎くん。もう大丈夫だから」
「でも、何か言いたいことがあったんだろ?」
「……ううん。私たちがちゃんと考えていなかっただけだから」
「そんなことないだろ」
颯真が言うと、別の生徒が小さく首を振った。
「一ノ瀬先輩の言っていることは正しいんだよ。私たちが思いつきで話しても、結局、できないことが多いし……」
「でも、だからって、相談しなくていいわけじゃないだろ?」
「……そうなんだけど」
生徒は、少しだけ視線を落とした。
「一ノ瀬先輩って、いつも完璧じゃない? 間違ったことは言わないし、何でもすぐに答えを出してくれる。だから、私たちが何かを言うと、できていないところばかり見つかる気がするんだ」
「……」
「先輩は、私たちのために言ってくれているんだと思う。でも、話しているうちに、自分たちが何もできない人間みたいに思えてきて……」
颯真は、何も言えなかった。
彼らは冷花を嫌っているわけではない。
むしろ、尊敬している。
だからこそ、失敗を指摘されることが怖いのだ。
「……教えてくれて、ありがとう」
颯真は、そう答えることしかできなかった。
生徒たちが立ち去ったあと、彼は生徒会室へ戻った。
冷花は、すでに次の資料を確認していた。
「一ノ瀬」
「はい?」
「少し、話がある」
「わかりました」
冷花はペンを置き、颯真に向き直った。
「さっきの会議のことなんだけど」
「はい」
「みんな、お前のことを尊敬してるんだと思う」
冷花は、静かに頷いた。
「それは、ありがたいことです」
「でも、同時に怖がってもいるんだ」
彼女の指が、わずかに止まった。
「……怖がっている?」
「ああ。お前が正しいことを言ってるのは、みんなわかってる。でも、いつも正しい答えが返ってくると、自分の考えを言うのが怖くなるんだよ」
「……私の指摘が、問題だったのでしょうか」
「指摘そのものが悪いわけじゃない。ただ、正しいことを伝えるだけじゃ、相手が安心して話せるとは限らないんだ」
冷花は、黙って聞いていた。
「みんな、最初から完璧な案を持ってるわけじゃない。考えがまとまってなくても、まず話してみたいんだと思う」
「……」
「一緒に考えてほしいんだよ。正しいかどうかを判断する前に、まず聞いてほしいんだ」
冷花は、しばらく考え込んだ。
「私は……」
言いかけて、口を閉じる。
何を言えばいいのか、わからなかった。
自分は、ずっと正しい判断をすることが大切だと思ってきた。
失敗を防ぐために、問題点を見つける。
無駄をなくすために、最善の方法を選ぶ。
それが、生徒会長としての責任だと思っていた。
けれど、それだけでは足りないのだろうか。
「……私は、皆さんの役に立ちたいと思っていました」
冷花は、小さな声で言った。
「失敗しないように。困らないように。できるだけ、よい結果になるように……」
「ああ。わかってるよ」
「ですが、私は……」
冷花は、視線を落とした。
「どうすれば、皆さんが安心して話せるのか、わからないのです」
颯真は、胸が締めつけられるような気がした。
彼女は、決して人を遠ざけたいわけではない。
むしろ、誰よりも役に立とうとしている。
ただ、その方法がわからないのだ。
そして、自分が正しいと思っている方法で努力しても、うまくいかないことがある。
それは、冷花にとって、きっと苦しいことだった。
「……一ノ瀬」
「はい」
「お前、一人で全部解決しようとしなくていいんだぞ」
冷花は、顔を上げた。
「神崎くん……」
「俺だって、うまくできないことはあるし、間違えることもある。だから、一緒に考えればいいんだよ」
「ですが、私は生徒会長です。皆さんを導く立場なのに……」
「生徒会長だって、何でも一人でできるわけじゃないだろ」
颯真は、まっすぐに彼女を見つめた。
「それに、お前が全部できるようになったら、俺の出番がなくなるだろ?」
「……それは、困りますね」
冷花が、ほんの少しだけ笑った。
「神崎くんには、まだ私に勝っていただいていませんから」
「そうそう。わかってるじゃないか」
二人は顔を見合わせた。
いつものように、勝負の話で笑い合う。
けれど、すぐに冷花の表情が少しだけ曇った。
「……神崎くん」
「ん?」
「もし私が、間違えたら」
その声は、いつもより小さかった。
「それでも、私のそばにいてくれますか?」
颯真は、息をのんだ。
冷花がそんなことを尋ねるとは、思っていなかった。
彼女は、誰よりも自信に満ちているように見える。
失敗を恐れず、いつも正しい答えを選ぶ人。
けれど、本当は。
間違えたときに、どうすればいいのかがわからなかったのかもしれない。
間違えた自分を、誰かに見せることが怖かったのかもしれない。
「……当たり前だろ」
颯真は、迷わず答えた。
「お前が間違えたら、一緒に考える。お前が困ってたら、できることを手伝う。だから、何でも一人で抱え込むなよ」
冷花は、目を見開いた。
「……ありがとうございます」
その声は、少しだけ震えていた。
颯真は気づかないふりをした。
彼女が安心できるなら、それでよかった。
*
翌日。
文化祭の準備が始まる前に、冷花は実行委員たちを集めた。
「皆さん。少し、お時間をいただけますか?」
集まった生徒たちは、緊張した様子で彼女を見つめた。
冷花は、一度だけ深呼吸をした。
昨日、颯真に言われたことを思い出す。
正しい答えを出す前に、まず話を聞く。
完璧な案でなくてもいい。
わからないことがあれば、一緒に考えればいい。
「昨日の会議では、皆さんの話を十分に聞くことができませんでした。申し訳ありません」
生徒たちが、驚いたように顔を上げた。
「私は、問題点を見つけて改善することばかり考えていました。ですが、それでは皆さんが意見を出しにくくなってしまうことに、気づけていませんでした」
冷花は、丁寧に頭を下げた。
「これからは、皆さんの考えを、まず聞かせていただきたいと思っています。うまくまとまっていなくても構いません。できるかどうかは、そのあとで一緒に考えましょう」
静寂が広がった。
やがて、一人の生徒がおそるおそる手を挙げた。
「……本当に、どんな意見でもいいんですか?」
「はい。もちろんです」
「じゃあ、模擬店の飾りつけなんですけど……」
生徒は、手元の紙を見ながら話し始めた。
最初はぎこちなかったが、少しずつ言葉が増えていく。
別の生徒も意見を出した。
「それなら、こっちの材料を使えば予算内でできるかもしれません!」
「僕たち、設営を手伝えます!」
次々に声が上がった。
冷花は、一つひとつの意見を聞いた。
すぐに正解を示すのではなく、まず相手が何を考えているのかを理解しようとした。
もちろん、すべての案が実現できるわけではない。
予算の問題もあるし、安全面で見直さなければならないこともある。
それでも、以前とは違った。
生徒たちは、自分の意見を伝えることを恐れていなかった。
会議が終わる頃には、いくつもの新しい案が生まれていた。
「一ノ瀬先輩、ありがとうございました!」
「相談してよかったです!」
生徒たちが笑顔で去っていく。
冷花は、その背中を見つめた。
「……これで、よかったのでしょうか」
隣にいた颯真が笑った。
「よかったに決まってるだろ」
「そうでしょうか」
「みんな、楽しそうだったじゃないか」
冷花は、もう一度、生徒たちの姿を見た。
確かに、みんな笑っていた。
自分の意見が採用されたことを喜ぶ人。
仲間と相談しながら、新しい方法を考える人。
誰かの案を聞いて、楽しそうに頷く人。
そこには、以前の会議では見られなかった光景があった。
「……そうですね」
冷花は、ゆっくりと微笑んだ。
「皆さんが楽しそうで、私も嬉しいです」
「……っ」
颯真は、思わず顔をそらした。
「神崎くん?」
「いや、何でもない!」
「顔が赤いようですが」
「気のせいだ!」
「そうですか?」
冷花は不思議そうに首を傾げた。
そして、少しだけ悪戯っぽく笑った。
「では、神崎くんも、私のことを心配してくださったのでしょうか?」
「なっ……!」
颯真は固まった。
昨日の自分の言葉を、覚えていたのだ。
「……そりゃ、心配くらいするだろ」
なんとか答えると、冷花は嬉しそうに頷いた。
「ありがとうございます。神崎くんがいてくれて、よかったです」
「…………」
颯真は、もう何も言えなかった。
この人は、本当にずるい。
こちらの気持ちなど知らないような顔で、こんな言葉を口にする。
けれど、彼女が誰かに頼ろうとしていることが、何よりも嬉しかった。
自分を頼ってくれたことが。
そして、自分の存在を必要としてくれたことが。
颯真は、静かに笑った。
「……これからも、困ったら言えよ」
「はい。そうさせていただきます」
冷花は、まっすぐに彼を見つめた。
「その代わり、神崎くんが困ったときも、私に相談してくださいね」
「……おう」
それは、二人の間で交わされた、小さな約束だった。
完璧な女王と、彼女に勝ちたい挑戦者。
けれど今は、勝ち負けだけではない関係が、少しずつ形になり始めていた。
*
その日の帰り道。
校門を出たところで、冷花が足を止めた。
「神崎くん」
「ん?」
「明日も、一緒に文化祭の準備をしていただけますか?」
「もちろん。俺も実行委員長だからな」
「それだけではなく……」
冷花は少しだけ視線を落とした。
「神崎くんと一緒にいると、安心するのです」
颯真は、思わず息を止めた。
「……一ノ瀬」
「はい?」
「お前、そういうこと、簡単に言わないほうがいいぞ」
「どうしてですか?」
「どうしてって……」
颯真は空を仰いだ。
説明できるわけがない。
そんなことを言われたら、ますます好きになってしまうからだ。
冷花は少し考えたあと、静かに答えた。
「……では、神崎くんにだけ言うことにします」
「――っ!」
颯真は、その場で立ち止まった。
冷花は不思議そうに振り返る。
「神崎くん?」
「……お前、本当に……!」
「はい?」
「……いや、何でもない!」
颯真は、慌てて彼女の隣に並んだ。
夕暮れの道を、二人で歩く。
文化祭が終われば、今のように一緒に過ごす理由は減ってしまうかもしれない。
けれど、もう以前のようには戻れない。
勝負に勝つことだけを考えていた自分には。
冷花もまた、同じことを感じていた。
神崎くんがそばにいてくれると、安心する。
困ったときに、助けてほしいと思う。
そして、彼に笑っていてほしいと思う。
それが恋なのかどうかは、まだわからない。
けれど、わからないままでも、一緒にいたい。
その気持ちは、確かに自分の中にあった。
二人は、並んで歩きながら、同じ夕焼けを見上げた。
文化祭まで、あと二日。
そして、神崎颯真が一ノ瀬冷花に勝つための、最後の大きな勝負も、少しずつ近づいていた。
私立星蘭学園は、朝から慌ただしい雰囲気に包まれていた。
廊下には装飾用の花飾りが並び、教室からは看板を作る音が聞こえる。体育館では舞台発表のリハーサルが行われ、校庭では模擬店の設営が進んでいた。
生徒たちは、それぞれの役割を果たそうと懸命に動いている。
そんな中、生徒会室では一ノ瀬冷花が資料を確認していた。
「二年三組の展示ですが、通路の幅が予定より狭くなっています。机を二つ移動してください」
「は、はい!」
「それから、体育館の発表順についてですが、転換時間が不足しています。各団体の持ち時間を再調整する必要があります」
「わ、わかりました!」
報告に来た生徒たちは、冷花の言葉に何度も頷いた。
彼女の指摘は正しい。
展示の通路が狭ければ来場者が滞留するし、舞台の転換時間が不足すれば進行に遅れが生じる。
どちらも、文化祭を成功させるためには見過ごせない問題だった。
しかし、報告を終えた生徒たちの表情は、どこか暗かった。
「……やっぱり、私たちでは駄目なのかな」
「一ノ瀬先輩に言われると、全部失敗している気がするよね……」
廊下から、そんな声が聞こえてくる。
冷花は顔を上げた。
「……何か、問題があったのでしょうか」
問いかけても、返事はない。
生徒たちは気まずそうに頭を下げ、そのまま立ち去ってしまった。
冷花は資料に視線を戻した。
指摘した内容に間違いはない。
改善すべき点を伝えたのだから、仕事は前に進むはずだ。
それなのに、どうして彼らはあんな表情をするのだろう。
「……難しいですね」
小さく呟いたときだった。
「一ノ瀬、いるか?」
生徒会室の扉から、神崎颯真が顔を出した。
「神崎くん。どうしましたか?」
「実行委員の打ち合わせで、ちょっと相談があってさ……って、どうした?」
「何がですか?」
「いや、お前、なんか元気ないように見えるぞ」
冷花は瞬きをした。
「そうでしょうか。体調に問題はありません」
「体調の話じゃなくて……」
颯真は言いかけて、口を閉じた。
冷花はいつもどおりの表情をしている。
けれど、以前より少しだけわかるようになった。
彼女が困っているとき、必ずしも表情に出るわけではない。
むしろ、困っているほど、いつも以上に冷静に振る舞おうとすることがある。
「……何かあったのか?」
颯真が尋ねると、冷花は少し考えてから答えた。
「文化祭の準備について、改善が必要な点を伝えたのですが、皆さんの反応がよくありませんでした」
「なるほどな」
「指摘した内容に間違いはないと思います。ですが、皆さんが不快に感じる理由がわかりません」
冷花は手元の資料を見つめた。
「私は、文化祭を成功させたいだけなのですが……」
その声は、いつもより小さかった。
颯真は椅子を引き、彼女の向かいに座った。
「……そっか。じゃあ、一緒に考えようぜ」
「ありがとうございます」
冷花は、少しだけ表情を和らげた。
しかし、その日の午後。
二人は、予想していなかった問題に直面することになる。
*
午後の実行委員会。
各クラスの代表者が集まり、文化祭当日の最終確認を行っていた。
進行役は颯真。
冷花は、生徒会長として必要な資料を用意していた。
「では、各企画の最終確認を始めます。変更点がある場合は、この場で共有してください」
颯真がそう告げると、何人かの生徒が手を挙げた。
「三年一組の展示なんですが、来場者に配るカードを増やしたいです」
「いいな。それなら、追加分の印刷を誰が担当するか決めよう」
颯真が話を進めようとしたとき、冷花が資料を確認した。
「追加印刷は、現在の予算では難しいと思います。予定枚数でも不足は生じないはずです」
手を挙げた生徒が、戸惑ったように口を閉じた。
「……そう、ですよね」
「配布方法を変更すれば、追加印刷をせずに対応できる可能性があります。必要であれば、代替案を検討します」
冷花の説明は正確だった。
けれど、その場の空気は少しずつ重くなっていった。
別の生徒が、おそるおそる手を挙げる。
「体育館の発表なんですけど、予定より準備に時間がかかりそうで……」
「その場合は、各団体の準備手順を見直す必要があります。前回の資料に手順をまとめていますので、確認してください」
「……はい」
「確認しても解決しない場合は、具体的な問題点を報告してください。こちらで対応を検討します」
また、生徒が黙り込む。
颯真は周囲を見渡した。
誰もが、何か言いたそうにしている。
しかし、誰も口を開こうとしない。
会議の前には、もっと活発に意見を出していたはずだ。
「……ちょっと待ってくれ」
颯真は、冷花のほうを向いた。
「一ノ瀬。今の話、もう少し詳しく聞いてみてもいいんじゃないか?」
「詳しく、ですか?」
「ああ。どうしてカードを増やしたいのかとか、なんで準備に時間がかかってるのかとかさ」
「ですが、必要な情報が不足している状態では、適切な判断ができません」
「それはそうだけど……」
颯真は、言葉を選んだ。
「みんな、何か理由があって相談してるんだと思うんだ。その理由を聞いてから、一緒に考えてもいいんじゃないか?」
冷花は少し考えた。
「……わかりました」
そして、提案した生徒たちに向き直る。
「では、詳しい事情を教えていただけますか?」
声の調子は、いつもどおりだった。
生徒たちは顔を見合わせた。
「……いえ、大丈夫です。こちらで何とかします」
「私たちも、もう少し考えてみます」
「お時間を取らせて、すみませんでした」
次々に、相談が引っ込められていく。
颯真は焦った。
これでは、何も変わっていない。
「いや、待ってくれ。せっかくの相談なんだから、もう少し――」
「神崎くん」
冷花が静かに声をかけた。
「時間も限られています。必要な事項の確認を優先しましょう」
「……っ」
颯真は、思わず口を閉じた。
彼女の言うことは正しい。
文化祭まで時間がない以上、すべての相談に長い時間をかけることはできない。
しかし、今ここで話を打ち切れば、彼らはもう相談してくれないかもしれない。
会議はそのまま進んだ。
予定された項目は、すべて確認できた。
議事録も完成した。
数字の上では、問題なく終わった会議だった。
それなのに、颯真には、何一つ解決していないように感じられた。
*
会議が終わったあと。
颯真は、廊下で実行委員の生徒たちに声をかけた。
「なあ、さっきの話なんだけどさ」
振り返った生徒たちは、少し困った顔をした。
「神崎くん。もう大丈夫だから」
「でも、何か言いたいことがあったんだろ?」
「……ううん。私たちがちゃんと考えていなかっただけだから」
「そんなことないだろ」
颯真が言うと、別の生徒が小さく首を振った。
「一ノ瀬先輩の言っていることは正しいんだよ。私たちが思いつきで話しても、結局、できないことが多いし……」
「でも、だからって、相談しなくていいわけじゃないだろ?」
「……そうなんだけど」
生徒は、少しだけ視線を落とした。
「一ノ瀬先輩って、いつも完璧じゃない? 間違ったことは言わないし、何でもすぐに答えを出してくれる。だから、私たちが何かを言うと、できていないところばかり見つかる気がするんだ」
「……」
「先輩は、私たちのために言ってくれているんだと思う。でも、話しているうちに、自分たちが何もできない人間みたいに思えてきて……」
颯真は、何も言えなかった。
彼らは冷花を嫌っているわけではない。
むしろ、尊敬している。
だからこそ、失敗を指摘されることが怖いのだ。
「……教えてくれて、ありがとう」
颯真は、そう答えることしかできなかった。
生徒たちが立ち去ったあと、彼は生徒会室へ戻った。
冷花は、すでに次の資料を確認していた。
「一ノ瀬」
「はい?」
「少し、話がある」
「わかりました」
冷花はペンを置き、颯真に向き直った。
「さっきの会議のことなんだけど」
「はい」
「みんな、お前のことを尊敬してるんだと思う」
冷花は、静かに頷いた。
「それは、ありがたいことです」
「でも、同時に怖がってもいるんだ」
彼女の指が、わずかに止まった。
「……怖がっている?」
「ああ。お前が正しいことを言ってるのは、みんなわかってる。でも、いつも正しい答えが返ってくると、自分の考えを言うのが怖くなるんだよ」
「……私の指摘が、問題だったのでしょうか」
「指摘そのものが悪いわけじゃない。ただ、正しいことを伝えるだけじゃ、相手が安心して話せるとは限らないんだ」
冷花は、黙って聞いていた。
「みんな、最初から完璧な案を持ってるわけじゃない。考えがまとまってなくても、まず話してみたいんだと思う」
「……」
「一緒に考えてほしいんだよ。正しいかどうかを判断する前に、まず聞いてほしいんだ」
冷花は、しばらく考え込んだ。
「私は……」
言いかけて、口を閉じる。
何を言えばいいのか、わからなかった。
自分は、ずっと正しい判断をすることが大切だと思ってきた。
失敗を防ぐために、問題点を見つける。
無駄をなくすために、最善の方法を選ぶ。
それが、生徒会長としての責任だと思っていた。
けれど、それだけでは足りないのだろうか。
「……私は、皆さんの役に立ちたいと思っていました」
冷花は、小さな声で言った。
「失敗しないように。困らないように。できるだけ、よい結果になるように……」
「ああ。わかってるよ」
「ですが、私は……」
冷花は、視線を落とした。
「どうすれば、皆さんが安心して話せるのか、わからないのです」
颯真は、胸が締めつけられるような気がした。
彼女は、決して人を遠ざけたいわけではない。
むしろ、誰よりも役に立とうとしている。
ただ、その方法がわからないのだ。
そして、自分が正しいと思っている方法で努力しても、うまくいかないことがある。
それは、冷花にとって、きっと苦しいことだった。
「……一ノ瀬」
「はい」
「お前、一人で全部解決しようとしなくていいんだぞ」
冷花は、顔を上げた。
「神崎くん……」
「俺だって、うまくできないことはあるし、間違えることもある。だから、一緒に考えればいいんだよ」
「ですが、私は生徒会長です。皆さんを導く立場なのに……」
「生徒会長だって、何でも一人でできるわけじゃないだろ」
颯真は、まっすぐに彼女を見つめた。
「それに、お前が全部できるようになったら、俺の出番がなくなるだろ?」
「……それは、困りますね」
冷花が、ほんの少しだけ笑った。
「神崎くんには、まだ私に勝っていただいていませんから」
「そうそう。わかってるじゃないか」
二人は顔を見合わせた。
いつものように、勝負の話で笑い合う。
けれど、すぐに冷花の表情が少しだけ曇った。
「……神崎くん」
「ん?」
「もし私が、間違えたら」
その声は、いつもより小さかった。
「それでも、私のそばにいてくれますか?」
颯真は、息をのんだ。
冷花がそんなことを尋ねるとは、思っていなかった。
彼女は、誰よりも自信に満ちているように見える。
失敗を恐れず、いつも正しい答えを選ぶ人。
けれど、本当は。
間違えたときに、どうすればいいのかがわからなかったのかもしれない。
間違えた自分を、誰かに見せることが怖かったのかもしれない。
「……当たり前だろ」
颯真は、迷わず答えた。
「お前が間違えたら、一緒に考える。お前が困ってたら、できることを手伝う。だから、何でも一人で抱え込むなよ」
冷花は、目を見開いた。
「……ありがとうございます」
その声は、少しだけ震えていた。
颯真は気づかないふりをした。
彼女が安心できるなら、それでよかった。
*
翌日。
文化祭の準備が始まる前に、冷花は実行委員たちを集めた。
「皆さん。少し、お時間をいただけますか?」
集まった生徒たちは、緊張した様子で彼女を見つめた。
冷花は、一度だけ深呼吸をした。
昨日、颯真に言われたことを思い出す。
正しい答えを出す前に、まず話を聞く。
完璧な案でなくてもいい。
わからないことがあれば、一緒に考えればいい。
「昨日の会議では、皆さんの話を十分に聞くことができませんでした。申し訳ありません」
生徒たちが、驚いたように顔を上げた。
「私は、問題点を見つけて改善することばかり考えていました。ですが、それでは皆さんが意見を出しにくくなってしまうことに、気づけていませんでした」
冷花は、丁寧に頭を下げた。
「これからは、皆さんの考えを、まず聞かせていただきたいと思っています。うまくまとまっていなくても構いません。できるかどうかは、そのあとで一緒に考えましょう」
静寂が広がった。
やがて、一人の生徒がおそるおそる手を挙げた。
「……本当に、どんな意見でもいいんですか?」
「はい。もちろんです」
「じゃあ、模擬店の飾りつけなんですけど……」
生徒は、手元の紙を見ながら話し始めた。
最初はぎこちなかったが、少しずつ言葉が増えていく。
別の生徒も意見を出した。
「それなら、こっちの材料を使えば予算内でできるかもしれません!」
「僕たち、設営を手伝えます!」
次々に声が上がった。
冷花は、一つひとつの意見を聞いた。
すぐに正解を示すのではなく、まず相手が何を考えているのかを理解しようとした。
もちろん、すべての案が実現できるわけではない。
予算の問題もあるし、安全面で見直さなければならないこともある。
それでも、以前とは違った。
生徒たちは、自分の意見を伝えることを恐れていなかった。
会議が終わる頃には、いくつもの新しい案が生まれていた。
「一ノ瀬先輩、ありがとうございました!」
「相談してよかったです!」
生徒たちが笑顔で去っていく。
冷花は、その背中を見つめた。
「……これで、よかったのでしょうか」
隣にいた颯真が笑った。
「よかったに決まってるだろ」
「そうでしょうか」
「みんな、楽しそうだったじゃないか」
冷花は、もう一度、生徒たちの姿を見た。
確かに、みんな笑っていた。
自分の意見が採用されたことを喜ぶ人。
仲間と相談しながら、新しい方法を考える人。
誰かの案を聞いて、楽しそうに頷く人。
そこには、以前の会議では見られなかった光景があった。
「……そうですね」
冷花は、ゆっくりと微笑んだ。
「皆さんが楽しそうで、私も嬉しいです」
「……っ」
颯真は、思わず顔をそらした。
「神崎くん?」
「いや、何でもない!」
「顔が赤いようですが」
「気のせいだ!」
「そうですか?」
冷花は不思議そうに首を傾げた。
そして、少しだけ悪戯っぽく笑った。
「では、神崎くんも、私のことを心配してくださったのでしょうか?」
「なっ……!」
颯真は固まった。
昨日の自分の言葉を、覚えていたのだ。
「……そりゃ、心配くらいするだろ」
なんとか答えると、冷花は嬉しそうに頷いた。
「ありがとうございます。神崎くんがいてくれて、よかったです」
「…………」
颯真は、もう何も言えなかった。
この人は、本当にずるい。
こちらの気持ちなど知らないような顔で、こんな言葉を口にする。
けれど、彼女が誰かに頼ろうとしていることが、何よりも嬉しかった。
自分を頼ってくれたことが。
そして、自分の存在を必要としてくれたことが。
颯真は、静かに笑った。
「……これからも、困ったら言えよ」
「はい。そうさせていただきます」
冷花は、まっすぐに彼を見つめた。
「その代わり、神崎くんが困ったときも、私に相談してくださいね」
「……おう」
それは、二人の間で交わされた、小さな約束だった。
完璧な女王と、彼女に勝ちたい挑戦者。
けれど今は、勝ち負けだけではない関係が、少しずつ形になり始めていた。
*
その日の帰り道。
校門を出たところで、冷花が足を止めた。
「神崎くん」
「ん?」
「明日も、一緒に文化祭の準備をしていただけますか?」
「もちろん。俺も実行委員長だからな」
「それだけではなく……」
冷花は少しだけ視線を落とした。
「神崎くんと一緒にいると、安心するのです」
颯真は、思わず息を止めた。
「……一ノ瀬」
「はい?」
「お前、そういうこと、簡単に言わないほうがいいぞ」
「どうしてですか?」
「どうしてって……」
颯真は空を仰いだ。
説明できるわけがない。
そんなことを言われたら、ますます好きになってしまうからだ。
冷花は少し考えたあと、静かに答えた。
「……では、神崎くんにだけ言うことにします」
「――っ!」
颯真は、その場で立ち止まった。
冷花は不思議そうに振り返る。
「神崎くん?」
「……お前、本当に……!」
「はい?」
「……いや、何でもない!」
颯真は、慌てて彼女の隣に並んだ。
夕暮れの道を、二人で歩く。
文化祭が終われば、今のように一緒に過ごす理由は減ってしまうかもしれない。
けれど、もう以前のようには戻れない。
勝負に勝つことだけを考えていた自分には。
冷花もまた、同じことを感じていた。
神崎くんがそばにいてくれると、安心する。
困ったときに、助けてほしいと思う。
そして、彼に笑っていてほしいと思う。
それが恋なのかどうかは、まだわからない。
けれど、わからないままでも、一緒にいたい。
その気持ちは、確かに自分の中にあった。
二人は、並んで歩きながら、同じ夕焼けを見上げた。
文化祭まで、あと二日。
そして、神崎颯真が一ノ瀬冷花に勝つための、最後の大きな勝負も、少しずつ近づいていた。



