学園の女王とイケメン王子様

 文化祭まで、あと三日。

 私立星蘭学園は、朝から慌ただしい雰囲気に包まれていた。

 廊下には装飾用の花飾りが並び、教室からは看板を作る音が聞こえる。体育館では舞台発表のリハーサルが行われ、校庭では模擬店の設営が進んでいた。

 生徒たちは、それぞれの役割を果たそうと懸命に動いている。

 そんな中、生徒会室では一ノ瀬冷花が資料を確認していた。

「二年三組の展示ですが、通路の幅が予定より狭くなっています。机を二つ移動してください」

「は、はい!」

「それから、体育館の発表順についてですが、転換時間が不足しています。各団体の持ち時間を再調整する必要があります」

「わ、わかりました!」

 報告に来た生徒たちは、冷花の言葉に何度も頷いた。

 彼女の指摘は正しい。

 展示の通路が狭ければ来場者が滞留するし、舞台の転換時間が不足すれば進行に遅れが生じる。

 どちらも、文化祭を成功させるためには見過ごせない問題だった。

 しかし、報告を終えた生徒たちの表情は、どこか暗かった。

「……やっぱり、私たちでは駄目なのかな」

「一ノ瀬先輩に言われると、全部失敗している気がするよね……」

 廊下から、そんな声が聞こえてくる。

 冷花は顔を上げた。

「……何か、問題があったのでしょうか」

 問いかけても、返事はない。

 生徒たちは気まずそうに頭を下げ、そのまま立ち去ってしまった。

 冷花は資料に視線を戻した。

 指摘した内容に間違いはない。

 改善すべき点を伝えたのだから、仕事は前に進むはずだ。

 それなのに、どうして彼らはあんな表情をするのだろう。

「……難しいですね」

 小さく呟いたときだった。

「一ノ瀬、いるか?」

 生徒会室の扉から、神崎颯真が顔を出した。

「神崎くん。どうしましたか?」

「実行委員の打ち合わせで、ちょっと相談があってさ……って、どうした?」

「何がですか?」

「いや、お前、なんか元気ないように見えるぞ」

 冷花は瞬きをした。

「そうでしょうか。体調に問題はありません」

「体調の話じゃなくて……」

 颯真は言いかけて、口を閉じた。

 冷花はいつもどおりの表情をしている。

 けれど、以前より少しだけわかるようになった。

 彼女が困っているとき、必ずしも表情に出るわけではない。

 むしろ、困っているほど、いつも以上に冷静に振る舞おうとすることがある。

「……何かあったのか?」

 颯真が尋ねると、冷花は少し考えてから答えた。

「文化祭の準備について、改善が必要な点を伝えたのですが、皆さんの反応がよくありませんでした」

「なるほどな」

「指摘した内容に間違いはないと思います。ですが、皆さんが不快に感じる理由がわかりません」

 冷花は手元の資料を見つめた。

「私は、文化祭を成功させたいだけなのですが……」

 その声は、いつもより小さかった。

 颯真は椅子を引き、彼女の向かいに座った。

「……そっか。じゃあ、一緒に考えようぜ」

「ありがとうございます」

 冷花は、少しだけ表情を和らげた。

 しかし、その日の午後。

 二人は、予想していなかった問題に直面することになる。

     *

 午後の実行委員会。

 各クラスの代表者が集まり、文化祭当日の最終確認を行っていた。

 進行役は颯真。

 冷花は、生徒会長として必要な資料を用意していた。

「では、各企画の最終確認を始めます。変更点がある場合は、この場で共有してください」

 颯真がそう告げると、何人かの生徒が手を挙げた。

「三年一組の展示なんですが、来場者に配るカードを増やしたいです」

「いいな。それなら、追加分の印刷を誰が担当するか決めよう」

 颯真が話を進めようとしたとき、冷花が資料を確認した。

「追加印刷は、現在の予算では難しいと思います。予定枚数でも不足は生じないはずです」

 手を挙げた生徒が、戸惑ったように口を閉じた。

「……そう、ですよね」

「配布方法を変更すれば、追加印刷をせずに対応できる可能性があります。必要であれば、代替案を検討します」

 冷花の説明は正確だった。

 けれど、その場の空気は少しずつ重くなっていった。

 別の生徒が、おそるおそる手を挙げる。

「体育館の発表なんですけど、予定より準備に時間がかかりそうで……」

「その場合は、各団体の準備手順を見直す必要があります。前回の資料に手順をまとめていますので、確認してください」

「……はい」

「確認しても解決しない場合は、具体的な問題点を報告してください。こちらで対応を検討します」

 また、生徒が黙り込む。

 颯真は周囲を見渡した。

 誰もが、何か言いたそうにしている。

 しかし、誰も口を開こうとしない。

 会議の前には、もっと活発に意見を出していたはずだ。

「……ちょっと待ってくれ」

 颯真は、冷花のほうを向いた。

「一ノ瀬。今の話、もう少し詳しく聞いてみてもいいんじゃないか?」

「詳しく、ですか?」

「ああ。どうしてカードを増やしたいのかとか、なんで準備に時間がかかってるのかとかさ」

「ですが、必要な情報が不足している状態では、適切な判断ができません」

「それはそうだけど……」

 颯真は、言葉を選んだ。

「みんな、何か理由があって相談してるんだと思うんだ。その理由を聞いてから、一緒に考えてもいいんじゃないか?」

 冷花は少し考えた。

「……わかりました」

 そして、提案した生徒たちに向き直る。

「では、詳しい事情を教えていただけますか?」

 声の調子は、いつもどおりだった。

 生徒たちは顔を見合わせた。

「……いえ、大丈夫です。こちらで何とかします」

「私たちも、もう少し考えてみます」

「お時間を取らせて、すみませんでした」

 次々に、相談が引っ込められていく。

 颯真は焦った。

 これでは、何も変わっていない。

「いや、待ってくれ。せっかくの相談なんだから、もう少し――」

「神崎くん」

 冷花が静かに声をかけた。

「時間も限られています。必要な事項の確認を優先しましょう」

「……っ」

 颯真は、思わず口を閉じた。

 彼女の言うことは正しい。

 文化祭まで時間がない以上、すべての相談に長い時間をかけることはできない。

 しかし、今ここで話を打ち切れば、彼らはもう相談してくれないかもしれない。

 会議はそのまま進んだ。

 予定された項目は、すべて確認できた。

 議事録も完成した。

 数字の上では、問題なく終わった会議だった。

 それなのに、颯真には、何一つ解決していないように感じられた。

     *

 会議が終わったあと。

 颯真は、廊下で実行委員の生徒たちに声をかけた。

「なあ、さっきの話なんだけどさ」

 振り返った生徒たちは、少し困った顔をした。

「神崎くん。もう大丈夫だから」

「でも、何か言いたいことがあったんだろ?」

「……ううん。私たちがちゃんと考えていなかっただけだから」

「そんなことないだろ」

 颯真が言うと、別の生徒が小さく首を振った。

「一ノ瀬先輩の言っていることは正しいんだよ。私たちが思いつきで話しても、結局、できないことが多いし……」

「でも、だからって、相談しなくていいわけじゃないだろ?」

「……そうなんだけど」

 生徒は、少しだけ視線を落とした。

「一ノ瀬先輩って、いつも完璧じゃない? 間違ったことは言わないし、何でもすぐに答えを出してくれる。だから、私たちが何かを言うと、できていないところばかり見つかる気がするんだ」

「……」

「先輩は、私たちのために言ってくれているんだと思う。でも、話しているうちに、自分たちが何もできない人間みたいに思えてきて……」

 颯真は、何も言えなかった。

 彼らは冷花を嫌っているわけではない。

 むしろ、尊敬している。

 だからこそ、失敗を指摘されることが怖いのだ。

「……教えてくれて、ありがとう」

 颯真は、そう答えることしかできなかった。

 生徒たちが立ち去ったあと、彼は生徒会室へ戻った。

 冷花は、すでに次の資料を確認していた。

「一ノ瀬」

「はい?」

「少し、話がある」

「わかりました」

 冷花はペンを置き、颯真に向き直った。

「さっきの会議のことなんだけど」

「はい」

「みんな、お前のことを尊敬してるんだと思う」

 冷花は、静かに頷いた。

「それは、ありがたいことです」

「でも、同時に怖がってもいるんだ」

 彼女の指が、わずかに止まった。

「……怖がっている?」

「ああ。お前が正しいことを言ってるのは、みんなわかってる。でも、いつも正しい答えが返ってくると、自分の考えを言うのが怖くなるんだよ」

「……私の指摘が、問題だったのでしょうか」

「指摘そのものが悪いわけじゃない。ただ、正しいことを伝えるだけじゃ、相手が安心して話せるとは限らないんだ」

 冷花は、黙って聞いていた。

「みんな、最初から完璧な案を持ってるわけじゃない。考えがまとまってなくても、まず話してみたいんだと思う」

「……」

「一緒に考えてほしいんだよ。正しいかどうかを判断する前に、まず聞いてほしいんだ」

 冷花は、しばらく考え込んだ。

「私は……」

 言いかけて、口を閉じる。

 何を言えばいいのか、わからなかった。

 自分は、ずっと正しい判断をすることが大切だと思ってきた。

 失敗を防ぐために、問題点を見つける。

 無駄をなくすために、最善の方法を選ぶ。

 それが、生徒会長としての責任だと思っていた。

 けれど、それだけでは足りないのだろうか。

「……私は、皆さんの役に立ちたいと思っていました」

 冷花は、小さな声で言った。

「失敗しないように。困らないように。できるだけ、よい結果になるように……」

「ああ。わかってるよ」

「ですが、私は……」

 冷花は、視線を落とした。

「どうすれば、皆さんが安心して話せるのか、わからないのです」

 颯真は、胸が締めつけられるような気がした。

 彼女は、決して人を遠ざけたいわけではない。

 むしろ、誰よりも役に立とうとしている。

 ただ、その方法がわからないのだ。

 そして、自分が正しいと思っている方法で努力しても、うまくいかないことがある。

 それは、冷花にとって、きっと苦しいことだった。

「……一ノ瀬」

「はい」

「お前、一人で全部解決しようとしなくていいんだぞ」

 冷花は、顔を上げた。

「神崎くん……」

「俺だって、うまくできないことはあるし、間違えることもある。だから、一緒に考えればいいんだよ」

「ですが、私は生徒会長です。皆さんを導く立場なのに……」

「生徒会長だって、何でも一人でできるわけじゃないだろ」

 颯真は、まっすぐに彼女を見つめた。

「それに、お前が全部できるようになったら、俺の出番がなくなるだろ?」

「……それは、困りますね」

 冷花が、ほんの少しだけ笑った。

「神崎くんには、まだ私に勝っていただいていませんから」

「そうそう。わかってるじゃないか」

 二人は顔を見合わせた。

 いつものように、勝負の話で笑い合う。

 けれど、すぐに冷花の表情が少しだけ曇った。

「……神崎くん」

「ん?」

「もし私が、間違えたら」

 その声は、いつもより小さかった。

「それでも、私のそばにいてくれますか?」

 颯真は、息をのんだ。

 冷花がそんなことを尋ねるとは、思っていなかった。

 彼女は、誰よりも自信に満ちているように見える。

 失敗を恐れず、いつも正しい答えを選ぶ人。

 けれど、本当は。

 間違えたときに、どうすればいいのかがわからなかったのかもしれない。

 間違えた自分を、誰かに見せることが怖かったのかもしれない。

「……当たり前だろ」

 颯真は、迷わず答えた。

「お前が間違えたら、一緒に考える。お前が困ってたら、できることを手伝う。だから、何でも一人で抱え込むなよ」

 冷花は、目を見開いた。

「……ありがとうございます」

 その声は、少しだけ震えていた。

 颯真は気づかないふりをした。

 彼女が安心できるなら、それでよかった。

     *

 翌日。

 文化祭の準備が始まる前に、冷花は実行委員たちを集めた。

「皆さん。少し、お時間をいただけますか?」

 集まった生徒たちは、緊張した様子で彼女を見つめた。

 冷花は、一度だけ深呼吸をした。

 昨日、颯真に言われたことを思い出す。

 正しい答えを出す前に、まず話を聞く。

 完璧な案でなくてもいい。

 わからないことがあれば、一緒に考えればいい。

「昨日の会議では、皆さんの話を十分に聞くことができませんでした。申し訳ありません」

 生徒たちが、驚いたように顔を上げた。

「私は、問題点を見つけて改善することばかり考えていました。ですが、それでは皆さんが意見を出しにくくなってしまうことに、気づけていませんでした」

 冷花は、丁寧に頭を下げた。

「これからは、皆さんの考えを、まず聞かせていただきたいと思っています。うまくまとまっていなくても構いません。できるかどうかは、そのあとで一緒に考えましょう」

 静寂が広がった。

 やがて、一人の生徒がおそるおそる手を挙げた。

「……本当に、どんな意見でもいいんですか?」

「はい。もちろんです」

「じゃあ、模擬店の飾りつけなんですけど……」

 生徒は、手元の紙を見ながら話し始めた。

 最初はぎこちなかったが、少しずつ言葉が増えていく。

 別の生徒も意見を出した。

「それなら、こっちの材料を使えば予算内でできるかもしれません!」

「僕たち、設営を手伝えます!」

 次々に声が上がった。

 冷花は、一つひとつの意見を聞いた。

 すぐに正解を示すのではなく、まず相手が何を考えているのかを理解しようとした。

 もちろん、すべての案が実現できるわけではない。

 予算の問題もあるし、安全面で見直さなければならないこともある。

 それでも、以前とは違った。

 生徒たちは、自分の意見を伝えることを恐れていなかった。

 会議が終わる頃には、いくつもの新しい案が生まれていた。

「一ノ瀬先輩、ありがとうございました!」

「相談してよかったです!」

 生徒たちが笑顔で去っていく。

 冷花は、その背中を見つめた。

「……これで、よかったのでしょうか」

 隣にいた颯真が笑った。

「よかったに決まってるだろ」

「そうでしょうか」

「みんな、楽しそうだったじゃないか」

 冷花は、もう一度、生徒たちの姿を見た。

 確かに、みんな笑っていた。

 自分の意見が採用されたことを喜ぶ人。

 仲間と相談しながら、新しい方法を考える人。

 誰かの案を聞いて、楽しそうに頷く人。

 そこには、以前の会議では見られなかった光景があった。

「……そうですね」

 冷花は、ゆっくりと微笑んだ。

「皆さんが楽しそうで、私も嬉しいです」

「……っ」

 颯真は、思わず顔をそらした。

「神崎くん?」

「いや、何でもない!」

「顔が赤いようですが」

「気のせいだ!」

「そうですか?」

 冷花は不思議そうに首を傾げた。

 そして、少しだけ悪戯っぽく笑った。

「では、神崎くんも、私のことを心配してくださったのでしょうか?」

「なっ……!」

 颯真は固まった。

 昨日の自分の言葉を、覚えていたのだ。

「……そりゃ、心配くらいするだろ」

 なんとか答えると、冷花は嬉しそうに頷いた。

「ありがとうございます。神崎くんがいてくれて、よかったです」

「…………」

 颯真は、もう何も言えなかった。

 この人は、本当にずるい。

 こちらの気持ちなど知らないような顔で、こんな言葉を口にする。

 けれど、彼女が誰かに頼ろうとしていることが、何よりも嬉しかった。

 自分を頼ってくれたことが。

 そして、自分の存在を必要としてくれたことが。

 颯真は、静かに笑った。

「……これからも、困ったら言えよ」

「はい。そうさせていただきます」

 冷花は、まっすぐに彼を見つめた。

「その代わり、神崎くんが困ったときも、私に相談してくださいね」

「……おう」

 それは、二人の間で交わされた、小さな約束だった。

 完璧な女王と、彼女に勝ちたい挑戦者。

 けれど今は、勝ち負けだけではない関係が、少しずつ形になり始めていた。

     *

 その日の帰り道。

 校門を出たところで、冷花が足を止めた。

「神崎くん」

「ん?」

「明日も、一緒に文化祭の準備をしていただけますか?」

「もちろん。俺も実行委員長だからな」

「それだけではなく……」

 冷花は少しだけ視線を落とした。

「神崎くんと一緒にいると、安心するのです」

 颯真は、思わず息を止めた。

「……一ノ瀬」

「はい?」

「お前、そういうこと、簡単に言わないほうがいいぞ」

「どうしてですか?」

「どうしてって……」

 颯真は空を仰いだ。

 説明できるわけがない。

 そんなことを言われたら、ますます好きになってしまうからだ。

 冷花は少し考えたあと、静かに答えた。

「……では、神崎くんにだけ言うことにします」

「――っ!」

 颯真は、その場で立ち止まった。

 冷花は不思議そうに振り返る。

「神崎くん?」

「……お前、本当に……!」

「はい?」

「……いや、何でもない!」

 颯真は、慌てて彼女の隣に並んだ。

 夕暮れの道を、二人で歩く。

 文化祭が終われば、今のように一緒に過ごす理由は減ってしまうかもしれない。

 けれど、もう以前のようには戻れない。

 勝負に勝つことだけを考えていた自分には。

 冷花もまた、同じことを感じていた。

 神崎くんがそばにいてくれると、安心する。

 困ったときに、助けてほしいと思う。

 そして、彼に笑っていてほしいと思う。

 それが恋なのかどうかは、まだわからない。

 けれど、わからないままでも、一緒にいたい。

 その気持ちは、確かに自分の中にあった。

 二人は、並んで歩きながら、同じ夕焼けを見上げた。

 文化祭まで、あと二日。

 そして、神崎颯真が一ノ瀬冷花に勝つための、最後の大きな勝負も、少しずつ近づいていた。