学園の女王とイケメン王子様

 翌週の月曜日。

 神崎颯真は、朝から妙な違和感を覚えていた。

「……遅いな」

 いつもなら、朝のホームルームが始まる前には教室にいる一ノ瀬冷花の姿が、まだ見当たらない。

 彼女は時間に正確だ。

 授業の準備も、提出物も、生徒会の仕事も、ほとんど遅れたことがない。

 そんな彼女が、始業時間ぎりぎりになっても現れない。

 颯真は何度も教室の扉を見た。

「おい、神崎。さっきから何をそわそわしてるんだ?」

 隣の佐伯が、呆れたように声をかけてくる。

「そわそわなんかしてねえよ」

「じゃあ、なんで五回も時計を見てるんだ?」

「……時間を確認してただけだ」

「一ノ瀬が来ないから?」

「違う!」

 即答したものの、颯真は再び扉を見てしまった。

 佐伯はにやりと笑った。

「はいはい。気になるんだな」

「だから、違うって……」

 言いかけたところで、担任の先生が教室に入ってきた。

「みんな、席についてくれ。連絡がある」

 教室が静かになる。

「一ノ瀬さんだが、今日は体調不良で欠席するそうだ。生徒会の仕事については、こちらで調整するから、心配しなくていいぞ」

 その言葉を聞いた瞬間、颯真の表情が変わった。

「……休み?」

 思わず呟く。

 冷花が学校を休む。

 ただ、それだけのことだ。

 体調が悪ければ休むのは当然だし、誰にだってそういう日はある。

 頭ではわかっている。

 それなのに。

 胸の中に、小さな不安が広がっていた。

 昨日、冷花は元気そうだった。

 帰り際には、次の勝負を楽しみにしているとも言っていた。

 もしかして、無理をしていたのだろうか。

 あの人は、いつも自分のことを後回しにするところがある。

 生徒会の仕事だって、一人で抱え込んでしまうくらいなのだから。

「……大丈夫かな」

 気づけば、颯真はそんな言葉を口にしていた。

「へえ」

 佐伯の声が、すぐ横から聞こえる。

「今のは、ずいぶん心配そうだったな」

「……うるさい」

「もう否定しないんだ?」

「別に、心配するくらい普通だろ」

「そうだな。好きな相手が休んだら心配するのは普通だもんな」

「佐伯!」

 教室に笑い声が広がった。

 颯真は反論しようとしたが、うまい言葉が見つからなかった。

 なぜなら。

 自分が本当に、冷花のことを心配していると気づいてしまったからだ。

     *

 昼休み。

 颯真はいつもなら冷花と確認するはずだった文化祭の資料を、一人で整理していた。

 文化祭まで、あと数日。

 各企画の進行状況を確認し、問題があれば担当者に相談する。

 これまでは冷花が中心になって進めてきた仕事だが、最近は他の生徒たちも積極的に動くようになっている。

 冷花が少しずつ、周囲に仕事を任せるようになったからだ。

「……一ノ瀬がいなくても、ちゃんと回るようになったんだな」

 颯真は資料を見つめた。

 以前なら、彼女が休めば仕事が滞ることもあっただろう。

 しかし今は違う。

 担当者たちが自分で判断し、困ったときには互いに相談している。

 冷花が築いてきたものは、彼女がいない日にも、きちんと動いていた。

 それは、彼女が頑張ってきた証拠だ。

 同時に、颯真はあることに気づいた。

 自分は今日、冷花がいないことを何度も気にしている。

 資料を見ていても、教室で友人と話していても、ふとした瞬間に彼女のことを考えてしまう。

 勝負ができないからだろうか。

 いや、それだけではない。

 もし今日、冷花が学校に来ていたとしても。

 きっと自分は、彼女と話したかっただろう。

 勝負の約束がなくても。

 文化祭の仕事がなくても。

 ただ、顔を見て、いつもどおり話したかった。

「……そっか」

 颯真は、手元のペンを置いた。

 今まで、自分が冷花に勝ちたい理由は単純だった。

 負けるのが悔しい。

 追いつきたい。

 いつか、あの完璧な女王に勝ってみたい。

 その気持ちは、今も変わらない。

 けれど、最近は少し違う。

 勝負をしているときの冷花が好きだ。

 真剣な顔も、悔しそうな顔も、勝ったときに見せる小さな笑顔も。

 もっと見たいと思う。

 そして、勝負が終わったあとも、一緒にいたいと思ってしまう。

「……俺、何やってんだろ」

 颯真は片手で顔を覆った。

 認めるのは、まだ少し悔しい。

 けれど、もうごまかせそうになかった。

 自分は冷花に勝ちたい。

 それと同じくらい、冷花の隣にいたいのだ。

     *

 その頃、冷花は自宅のベッドで静かに休んでいた。

 朝から熱があり、保護者に勧められて学校を休んだのだ。

 本人は、少し休めば回復するだろうと考えていた。

 しかし、いざ休んでみると、思っていた以上に時間を持て余してしまった。

 机の上には、読みかけの本。

 隣には、学校から持ち帰ったノート。

 いつもなら、空いた時間に勉強や生徒会の仕事を進めている。

 だが今日は、体を休めることが最優先だ。

「……何もしないというのも、難しいものですね」

 冷花は枕元のスマートフォンを手に取った。

 生徒会の連絡は、担当者たちが問題なく進めていると報告してくれていた。

 文化祭の準備も、特に大きな問題はないらしい。

 安心した。

 本当に、安心したのだ。

 それなのに。

「……神崎くん」

 気づけば、彼の名前を口にしていた。

 先週の放課後。

 二人で自分の弱点を探したときのことを思い出す。

 神崎くんは、自分に無理に答えを出さなくてもいいと言ってくれた。

 わからないことがあっても、焦らなくていい。

 そう言ってくれた。

 その言葉が、思っていた以上に嬉しかった。

 冷花はスマートフォンの画面を見つめた。

 神崎くんは、今頃どうしているだろう。

 文化祭の準備は順調だろうか。

 次の勝負のことを考えているだろうか。

 そして――。

「……私がいないことを、気にしているでしょうか」

 口にした瞬間、冷花は自分で驚いた。

 どうして、そんなことを考えたのだろう。

 他の生徒たちが自分の欠席を気にしているかどうかは、あまり考えたことがない。

 必要な連絡さえ届いていれば、それで十分だと思っていた。

 けれど、神崎くんは違う。

 彼には、自分が休んだことを知っていてほしい。

 少しくらい心配してくれたら、嬉しいと思ってしまう。

「……これは」

 冷花は布団を胸元まで引き上げた。

 頬が、ほんの少し熱い。

 もちろん、体調のせいかもしれない。

 そう考えてみたものの、なぜか納得できなかった。

 冷花は枕元のノートを引き寄せた。

 そして、新しいページを開く。

『神崎くんが学校にいない日』

 そこまで書いて、手が止まった。

 違う。

 今日は、自分が学校にいない日だ。

 それなのに、考えているのは自分のことではなく、神崎くんのことばかりだった。

 冷花は少し考えたあと、書き直した。

『神崎くんに会えない日』

 文字を見つめる。

 その言葉は、不思議なくらいしっくりきた。

「……会いたい、のでしょうか」

 小さく呟く。

 答えは、まだ出ない。

 けれど、明日になれば学校に行けるかもしれない。

 そう思うと、少しだけ気持ちが明るくなった。

     *

 放課後。

 颯真は生徒会室に顔を出した。

 冷花がいないからといって、文化祭の準備を止めるわけにはいかない。

 担当者たちと確認を済ませ、必要な資料を整理していると、机の端に一冊のノートが置かれているのが目に入った。

 表紙には、見慣れた文字で名前が書かれている。

 一ノ瀬冷花。

 どうやら、以前の打ち合わせのときに置き忘れたものらしい。

 颯真は手に取ろうとして、すぐにやめた。

「……いや、人のノートを勝手に見るわけにはいかないよな」

 そのまま、机の上に戻す。

 代わりに、冷花のスマートフォンにメッセージを送った。

『今日は大丈夫か? 文化祭の準備はこっちで進めておくから、ちゃんと休めよ』

 送信してから、少し考える。

 それだけでは、何だか事務的すぎる気がした。

 だが、余計なことを書いて変に思われるのも困る。

 結局、もう一度画面を確認して、スマートフォンをしまった。

 数分後。

 ポケットの中で、通知音が鳴った。

『ありがとうございます。熱は少し下がりました。神崎くんも、無理をしないでくださいね』

 颯真は、思わず笑みを浮かべた。

 それから、もう一通メッセージが届く。

『それと、明日、学校でお会いできるのを楽しみにしています』

「…………」

 颯真は画面を見つめたまま、動かなくなった。

 明日、学校で会えるのを楽しみにしている。

 ただの挨拶かもしれない。

 冷花にとっては、何気ない言葉なのかもしれない。

 それでも。

「……ずるいだろ、そんなの」

 誰もいない生徒会室で、颯真は小さく呟いた。

 そして、すぐに返信を打つ。

『俺も、明日会えるのを楽しみにしてる。今日はゆっくり休めよ』

 送信ボタンを押したあと、颯真は窓の外を見た。

 夕暮れの校庭では、文化祭の準備を終えた生徒たちが帰っていく。

 いつもなら、冷花もその中にいたはずだ。

 明日になれば、また会える。

 それが、こんなにも待ち遠しいなんて。

 颯真は、もう笑ってごまかすことができなかった。

 自分は冷花に勝ちたい。

 けれど、勝つことだけが目的ではなくなっている。

 彼女が笑ってくれれば嬉しい。

 彼女が困っていたら、力になりたい。

 そして、彼女がいないと、寂しい。

「……次の勝負、絶対に勝ってやる」

 颯真はいつものように呟いた。

 だが、その言葉には、今までとは違う意味が込められていた。

 勝って、彼女を驚かせたい。

 そして、また笑ってほしい。

 その笑顔を、一番近くで見ていたい。

     *

 翌朝。

 冷花は、いつもより少し早く教室に入った。

 体調はすっかり回復していた。

 席に着く前に、自然と颯真の姿を探す。

 彼は友人と話していた。

 冷花の姿に気づくと、すぐにこちらへ顔を向けた。

「一ノ瀬!」

「おはようございます、神崎くん」

「もう大丈夫なのか?」

「はい。ご心配をおかけしました」

「いや、別に……心配くらいするだろ」

 颯真は照れくさそうに頬をかいた。

 冷花は、じっと彼を見つめた。

「……神崎くん」

「ん?」

「昨日、メッセージをいただいて、とても嬉しかったです」

「っ……!」

 颯真の顔が赤くなる。

「そ、そうか。なら、よかった」

「はい」

 冷花は微笑んだ。

 いつもより、ほんの少しだけ柔らかい笑顔だった。

 颯真は、その笑顔を見て思った。

 ああ。

 やっぱり、自分はこの人が好きなのかもしれない。

 まだ、はっきりと言葉にする勇気はない。

 それでも、もう否定する必要はなかった。

「……一ノ瀬」

「はい?」

「今日の放課後、勝負しようぜ」

「将棋ですね?」

「そう。今度こそ勝つからな」

 冷花は一瞬だけ目を丸くした。

 そして、楽しそうに笑った。

「期待しています。私も、簡単には負けませんから」

「望むところだ!」

 二人のやり取りを見ていた佐伯が、少し離れた席で呟いた。

「……あれ、もう付き合ってるのと変わらなくないか?」

 周囲の生徒たちが、こくこくと頷いた。

 もちろん、当の二人は聞こえていない。

 颯真は、冷花に勝つために。

 冷花は、颯真と過ごす時間を楽しむために。

 今日もまた、二人の新しい一日が始まった。