翌朝。
神崎颯真は、教室に入るなり佐伯に捕まった。
「おはよう、恋する神崎くん」
「朝から殴られたいのか、お前」
「おお、怖い怖い。さすが学園の女王に恋する男」
「誰が恋してるんだ!」
颯真が声を荒らげると、周囲の生徒たちが一斉にこちらを向いた。
「えっ、神崎くん、一ノ瀬さんのこと好きなの?」
「昨日、二人きりで何か話していたらしいよ」
「やっぱり相合い傘がきっかけなのかな……」
「だから違うって!」
否定すればするほど、周囲の疑いは深まっていく。
颯真は頭を抱えた。
昨日、冷花にあんな質問をしてしまったことを、少しだけ後悔していた。
彼女の答えは「わかりません」だった。
それ自体は、仕方がないと思っている。
むしろ、彼女が自分の気持ちを真剣に考えてくれたことは嬉しかった。
ただ、そのせいで自分自身の気持ちまで、ますますわからなくなってしまったのだ。
「……はあ」
「おやおや。ため息までついちゃって」
「お前、今日一日、俺に話しかけるな」
「それは困るな。恋愛相談の続きを聞きたいのに」
「相談してねえ!」
そんな騒ぎの中、教室の扉が開いた。
「おはようございます、皆さん」
一ノ瀬冷花だった。
教室の空気が、一瞬で静まり返る。
いつもどおりの挨拶。
いつもどおりの落ち着いた表情。
それなのに、何人もの生徒が姿勢を正した。
冷花は不思議そうに周囲を見渡したあと、颯真の席へ歩いてきた。
「神崎くん。少し、お話があります」
「お、おう。何だ?」
「今日の放課後、生徒会室に来ていただけますか?」
「別にいいけど……」
「ありがとうございます。それでは、よろしくお願いします」
冷花は丁寧に頭を下げると、自分の席へ戻っていった。
その背中を見送り、颯真は固まった。
そして、隣の佐伯がゆっくりと口を開いた。
「……放課後、生徒会室に来てください、だって」
「聞こえてたよ」
「二人きりで?」
「そうだろうな」
「お前、ついに……」
「だから違うって言ってるだろ!」
教室に、再び歓声と笑い声が広がった。
*
放課後。
颯真が生徒会室を訪れると、冷花は机の上に一枚の紙を置いていた。
「お待ちしていました、神崎くん」
「それで、話って何だ?」
「今日は、私の弱点を探していただきたいのです」
「……は?」
颯真は、思わず聞き返した。
「今、何て言った?」
「私の弱点を探していただきたい、と申し上げました」
「いや、聞こえてたけど……なんで?」
冷花は少し考えたあと、真剣な表情で答えた。
「昨日、神崎くんに尋ねられたことが気になっているからです」
「昨日?」
「私が神崎くんをどう思っているか、という質問です」
「っ……!」
颯真の顔が一気に熱くなる。
まさか、彼女のほうから昨日の話を持ち出すとは思わなかった。
「そ、それで、なんで弱点の話になるんだよ!」
「自分をよく知ることが、感情を理解する手がかりになるのではないかと考えました」
「いや、ちょっと待て。自分の弱点を知ったら、恋愛感情がわかるのか?」
「必ずしもそうとは限りません。しかし、試してみる価値はあると思います」
冷花は机の上の紙を差し出した。
そこには、几帳面な文字でこう書かれていた。
『一ノ瀬冷花の弱点調査計画』
「……お前、これ、わざわざ作ったのか?」
「はい。調査項目を整理しました」
「調査項目って……」
颯真は紙を受け取り、目を通した。
そこには、次のような項目が並んでいた。
一、苦手な教科。
二、苦手な運動。
三、苦手な家事。
四、精神的に動揺する状況。
五、予測できない事態への対応。
「最後の二つ、妙に本格的だな……」
「自分では気づいていない弱点がある可能性もありますから」
「なるほどな……」
颯真は腕を組んだ。
確かに、冷花は何でもできる。
勉強も運動も料理も裁縫も、ほとんど隙がない。
しかし、これまで一緒に過ごしてきたからこそ、颯真には思い当たることがあった。
「……よし。やってみるか」
「ありがとうございます」
「ただし、俺が勝手に弱点を決めつけるのはなしだ。お前がどう感じたかも、ちゃんと教えてくれよ」
「わかりました。よろしくお願いします」
こうして、前代未聞の調査が始まった。
*
最初の調査は、苦手な教科だった。
「数学、英語、理科、社会。どれも得意だろ?」
「はい。特に苦手意識はありません」
「だよな……」
颯真は机に突っ伏した。
予想どおりすぎて、調査が進まない。
「じゃあ、苦手な問題は?」
「初めて見る問題には時間がかかる場合があります。ただし、解法を分析すれば対応できます」
「弱点っていうか、普通のことじゃないか?」
「そうでしょうか?」
「そうだよ!」
次は運動。
颯真は体育館で、バスケットボールのフリースローを提案した。
「普段やらない競技なら、少しは苦手なんじゃないか?」
「なるほど。試してみましょう」
冷花はボールを受け取った。
一度、ゴールを見上げる。
そして、軽くボールを放った。
――スパッ。
きれいな弧を描いたボールが、リングの中央を通り抜けた。
「……うそだろ」
「入りましたね」
「いや、今のは初めてじゃないのか?」
「授業で何度か経験しています。距離と角度を考えれば、ある程度は予測できます」
「それ、何でもできる人の言い訳だろ!」
颯真も挑戦したが、最初の一投はリングに弾かれた。
冷花は真剣に考え込んだ。
「神崎くんは、ボールを放つ瞬間に力が入りすぎているのかもしれません」
「今は俺の弱点を調べてるんじゃない!」
「……そうでした。失礼しました」
冷花が小さく頭を下げる。
その姿に、颯真は思わず笑ってしまった。
「ははっ。お前、そういうところあるよな」
「そういうところ、とは?」
「すぐに分析して、改善しようとするところ。別に、全部に答えを出さなくてもいいんだよ」
冷花は目を瞬かせた。
「……すべてに答えを出さなくても、よいのですか?」
「ああ。わからないことがあっても、別に困らないだろ」
そう言いながら、颯真は自分にも言い聞かせていることに気づいた。
自分だって、彼女への気持ちがわからない。
けれど、それを今すぐ答えにしなくてもいいのかもしれない。
冷花は少し考えたあと、静かに頷いた。
「そうですね。神崎くんの言うとおりかもしれません」
「お、おう……」
まっすぐに肯定されると、なぜか照れくさい。
颯真は咳払いをして、次の調査に移った。
*
最後の項目は、精神的に動揺する状況。
「これ、どうやって調べるんだ?」
「予測できない質問を受けたときの反応を確認してみてはどうでしょう」
「なるほど。じゃあ、俺が質問するぞ」
「どうぞ」
颯真は少し考えた。
そして、ふと思いついた質問を口にする。
「一ノ瀬。お前、最近、俺と話すのを楽しみにしてるだろ?」
「はい」
「……即答かよ!」
「事実ですから」
冷花は不思議そうに首を傾げた。
「神崎くんと話すと、予想外の意見を聞けます。それに、一緒にいると楽しいので」
「……そ、そうか」
「はい」
颯真は顔をそらした。
だめだ。
この調査は、彼女の弱点を探すためのものだったはずなのに。
どうして自分のほうが、こんなにも落ち着かないのだろう。
「では、私からも質問してよろしいですか?」
「え? ああ、いいけど」
冷花は少しだけ身を乗り出した。
「神崎くんは、どうして私に勝ちたいのですか?」
「そ、それは……」
以前にも聞かれた質問だった。
そのときは、迷わず答えられた。
――お前が相手だからだよ。
けれど、今はそれだけでは足りない気がした。
「……最初は、負けたくなかったからだ」
「はい」
「お前が何でもできるのが悔しかったし、いつか絶対に勝ってやるって思ってた」
「そうですね。神崎くんは、いつも真剣でした」
「でも、今は……」
颯真は言葉を探した。
冷花は急かさず、じっと待っている。
「……勝負してるときのお前は、すごく楽しそうなんだよ」
「私が?」
「ああ。普段は何でも落ち着いてて、何を考えてるのかわかりにくいのに、勝負のときは本気になるだろ。負けそうになると、少し悔しそうな顔もするし」
「……それは、そうかもしれません」
「だから、もっと見たくなるんだ。お前が本気になってるところも、笑ってるところも」
言ってから、颯真は口を閉じた。
今のは、少し踏み込みすぎたかもしれない。
しかし冷花は、驚いたように彼を見つめていた。
「……私の、笑っているところ?」
「……ああ」
「神崎くんは、私が笑うと嬉しいのですか?」
「っ……!」
今度こそ、颯真の顔が真っ赤になった。
「そ、そういう話じゃなくて!」
「ですが、今、そうおっしゃいました」
「いや、だから……!」
冷花はしばらく颯真を見つめていたが、やがてふっと微笑んだ。
「……そうですか」
「な、何だよ」
「いえ。嬉しいと思いました」
「…………」
今度は颯真が、完全に言葉を失った。
冷花はそんな彼を見て、小さく首を傾げる。
「神崎くん。顔が赤いですが、体調が悪いのですか?」
「お前のせいだよ!」
「私が?」
「そうだよ!」
「……なるほど」
冷花は真剣に頷いた。
「では、神崎くんにとって、私は弱点になり得るのでしょうか?」
「――は?」
颯真は目を見開いた。
冷花は、先ほどまでの調査用紙を見下ろしている。
「私と話していると、神崎くんは普段と違う反応をします。これは、私が神崎くんの弱点である可能性を示しているのではないでしょうか」
「ちょ、ちょっと待て!」
「何でしょう?」
「なんでそうなるんだよ!」
「調査結果からの推測です」
「そんな推測、しなくていい!」
冷花は首を傾げたままだった。
そして、少し考えてから言った。
「……ですが、神崎くんが私を特別に見てくれているのなら、少し嬉しいです」
「…………っ!」
颯真は机に突っ伏した。
もうだめだ。
この調査は失敗だ。
いや、そもそも最初から失敗だったのかもしれない。
彼女の弱点を探すつもりが、自分の弱点を再確認することになってしまった。
――一ノ瀬冷花。
こいつは、本当にずるい。
本人にそのつもりがないから、なおさらだ。
*
調査の結果。
冷花には、勉強や運動、家事といった分野で、明確な弱点は見つからなかった。
しかし、颯真には一つだけ、気づいたことがあった。
彼女は、自分の気持ちを言葉にするのが苦手なのだ。
正確に言えば、気持ちがないのではない。
嬉しい、楽しい、寂しい。
そうした感情を感じていても、それが自分にとって何を意味するのか、まだわからないのだろう。
だからこそ、彼女は何でも分析し、答えを出そうとする。
けれど、感情は問題集のように、必ず正解が一つあるわけではない。
「……一ノ瀬」
「はい?」
「無理に答えを出さなくてもいいんじゃないか」
帰り支度をしていた冷花が、手を止めた。
「昨日の質問のことですか?」
「ああ。俺も、自分の気持ちがはっきりわかってるわけじゃないからさ」
「……そうなのですね」
「だから、ゆっくり考えればいいと思う。俺だって、急かすつもりはない」
冷花はしばらく黙っていた。
やがて、静かに微笑んだ。
「ありがとうございます、神崎くん」
「……おう」
「神崎くんは、私がわからないことを、わからないままにしておくことも許してくれるのですね」
「許すとか、そういう大げさな話じゃないって」
「ですが、私は嬉しいです」
その言葉を聞いて、颯真は胸の奥が温かくなるのを感じた。
彼女の気持ちが、今すぐわからなくてもいい。
ただ、これからも彼女と話していきたい。
一緒に笑ったり、勝負をしたり。
そうしているうちに、いつか答えが見つかるのかもしれない。
「……じゃあ、また明日な」
「はい。また明日」
生徒会室を出ようとした颯真の背中に、冷花が声をかけた。
「神崎くん」
「ん?」
「次の勝負ですが、何にしますか?」
颯真は振り返った。
冷花はいつもの落ち着いた表情で、しかし、どこか楽しそうに彼を見つめていた。
「……そうだな。今度は、将棋でもやるか?」
「わかりました。楽しみにしています」
「今度こそ勝つからな!」
「期待しています」
その言葉に、颯真は笑った。
いつもの勝負の約束。
けれど今は、その約束が続いていくこと自体が嬉しかった。
冷花もまた、颯真が帰ったあと、机の上の調査用紙を見つめていた。
弱点は見つからなかった。
それでも、一つだけ確かなことがある。
神崎颯真と一緒にいると、自分の知らない感情が次々に生まれてくる。
それを知ることは、少し怖い。
けれど、それ以上に楽しみだった。
冷花はノートを開き、新しい一文を書き加えた。
『神崎くんと一緒にいると、自分の知らない自分に出会える』
書き終えた彼女は、その文字を見つめて微笑んだ。
学園の女王が抱き始めた、小さな変化。
それは、本人が思っている以上に大きなものになりつつあった。
神崎颯真は、教室に入るなり佐伯に捕まった。
「おはよう、恋する神崎くん」
「朝から殴られたいのか、お前」
「おお、怖い怖い。さすが学園の女王に恋する男」
「誰が恋してるんだ!」
颯真が声を荒らげると、周囲の生徒たちが一斉にこちらを向いた。
「えっ、神崎くん、一ノ瀬さんのこと好きなの?」
「昨日、二人きりで何か話していたらしいよ」
「やっぱり相合い傘がきっかけなのかな……」
「だから違うって!」
否定すればするほど、周囲の疑いは深まっていく。
颯真は頭を抱えた。
昨日、冷花にあんな質問をしてしまったことを、少しだけ後悔していた。
彼女の答えは「わかりません」だった。
それ自体は、仕方がないと思っている。
むしろ、彼女が自分の気持ちを真剣に考えてくれたことは嬉しかった。
ただ、そのせいで自分自身の気持ちまで、ますますわからなくなってしまったのだ。
「……はあ」
「おやおや。ため息までついちゃって」
「お前、今日一日、俺に話しかけるな」
「それは困るな。恋愛相談の続きを聞きたいのに」
「相談してねえ!」
そんな騒ぎの中、教室の扉が開いた。
「おはようございます、皆さん」
一ノ瀬冷花だった。
教室の空気が、一瞬で静まり返る。
いつもどおりの挨拶。
いつもどおりの落ち着いた表情。
それなのに、何人もの生徒が姿勢を正した。
冷花は不思議そうに周囲を見渡したあと、颯真の席へ歩いてきた。
「神崎くん。少し、お話があります」
「お、おう。何だ?」
「今日の放課後、生徒会室に来ていただけますか?」
「別にいいけど……」
「ありがとうございます。それでは、よろしくお願いします」
冷花は丁寧に頭を下げると、自分の席へ戻っていった。
その背中を見送り、颯真は固まった。
そして、隣の佐伯がゆっくりと口を開いた。
「……放課後、生徒会室に来てください、だって」
「聞こえてたよ」
「二人きりで?」
「そうだろうな」
「お前、ついに……」
「だから違うって言ってるだろ!」
教室に、再び歓声と笑い声が広がった。
*
放課後。
颯真が生徒会室を訪れると、冷花は机の上に一枚の紙を置いていた。
「お待ちしていました、神崎くん」
「それで、話って何だ?」
「今日は、私の弱点を探していただきたいのです」
「……は?」
颯真は、思わず聞き返した。
「今、何て言った?」
「私の弱点を探していただきたい、と申し上げました」
「いや、聞こえてたけど……なんで?」
冷花は少し考えたあと、真剣な表情で答えた。
「昨日、神崎くんに尋ねられたことが気になっているからです」
「昨日?」
「私が神崎くんをどう思っているか、という質問です」
「っ……!」
颯真の顔が一気に熱くなる。
まさか、彼女のほうから昨日の話を持ち出すとは思わなかった。
「そ、それで、なんで弱点の話になるんだよ!」
「自分をよく知ることが、感情を理解する手がかりになるのではないかと考えました」
「いや、ちょっと待て。自分の弱点を知ったら、恋愛感情がわかるのか?」
「必ずしもそうとは限りません。しかし、試してみる価値はあると思います」
冷花は机の上の紙を差し出した。
そこには、几帳面な文字でこう書かれていた。
『一ノ瀬冷花の弱点調査計画』
「……お前、これ、わざわざ作ったのか?」
「はい。調査項目を整理しました」
「調査項目って……」
颯真は紙を受け取り、目を通した。
そこには、次のような項目が並んでいた。
一、苦手な教科。
二、苦手な運動。
三、苦手な家事。
四、精神的に動揺する状況。
五、予測できない事態への対応。
「最後の二つ、妙に本格的だな……」
「自分では気づいていない弱点がある可能性もありますから」
「なるほどな……」
颯真は腕を組んだ。
確かに、冷花は何でもできる。
勉強も運動も料理も裁縫も、ほとんど隙がない。
しかし、これまで一緒に過ごしてきたからこそ、颯真には思い当たることがあった。
「……よし。やってみるか」
「ありがとうございます」
「ただし、俺が勝手に弱点を決めつけるのはなしだ。お前がどう感じたかも、ちゃんと教えてくれよ」
「わかりました。よろしくお願いします」
こうして、前代未聞の調査が始まった。
*
最初の調査は、苦手な教科だった。
「数学、英語、理科、社会。どれも得意だろ?」
「はい。特に苦手意識はありません」
「だよな……」
颯真は机に突っ伏した。
予想どおりすぎて、調査が進まない。
「じゃあ、苦手な問題は?」
「初めて見る問題には時間がかかる場合があります。ただし、解法を分析すれば対応できます」
「弱点っていうか、普通のことじゃないか?」
「そうでしょうか?」
「そうだよ!」
次は運動。
颯真は体育館で、バスケットボールのフリースローを提案した。
「普段やらない競技なら、少しは苦手なんじゃないか?」
「なるほど。試してみましょう」
冷花はボールを受け取った。
一度、ゴールを見上げる。
そして、軽くボールを放った。
――スパッ。
きれいな弧を描いたボールが、リングの中央を通り抜けた。
「……うそだろ」
「入りましたね」
「いや、今のは初めてじゃないのか?」
「授業で何度か経験しています。距離と角度を考えれば、ある程度は予測できます」
「それ、何でもできる人の言い訳だろ!」
颯真も挑戦したが、最初の一投はリングに弾かれた。
冷花は真剣に考え込んだ。
「神崎くんは、ボールを放つ瞬間に力が入りすぎているのかもしれません」
「今は俺の弱点を調べてるんじゃない!」
「……そうでした。失礼しました」
冷花が小さく頭を下げる。
その姿に、颯真は思わず笑ってしまった。
「ははっ。お前、そういうところあるよな」
「そういうところ、とは?」
「すぐに分析して、改善しようとするところ。別に、全部に答えを出さなくてもいいんだよ」
冷花は目を瞬かせた。
「……すべてに答えを出さなくても、よいのですか?」
「ああ。わからないことがあっても、別に困らないだろ」
そう言いながら、颯真は自分にも言い聞かせていることに気づいた。
自分だって、彼女への気持ちがわからない。
けれど、それを今すぐ答えにしなくてもいいのかもしれない。
冷花は少し考えたあと、静かに頷いた。
「そうですね。神崎くんの言うとおりかもしれません」
「お、おう……」
まっすぐに肯定されると、なぜか照れくさい。
颯真は咳払いをして、次の調査に移った。
*
最後の項目は、精神的に動揺する状況。
「これ、どうやって調べるんだ?」
「予測できない質問を受けたときの反応を確認してみてはどうでしょう」
「なるほど。じゃあ、俺が質問するぞ」
「どうぞ」
颯真は少し考えた。
そして、ふと思いついた質問を口にする。
「一ノ瀬。お前、最近、俺と話すのを楽しみにしてるだろ?」
「はい」
「……即答かよ!」
「事実ですから」
冷花は不思議そうに首を傾げた。
「神崎くんと話すと、予想外の意見を聞けます。それに、一緒にいると楽しいので」
「……そ、そうか」
「はい」
颯真は顔をそらした。
だめだ。
この調査は、彼女の弱点を探すためのものだったはずなのに。
どうして自分のほうが、こんなにも落ち着かないのだろう。
「では、私からも質問してよろしいですか?」
「え? ああ、いいけど」
冷花は少しだけ身を乗り出した。
「神崎くんは、どうして私に勝ちたいのですか?」
「そ、それは……」
以前にも聞かれた質問だった。
そのときは、迷わず答えられた。
――お前が相手だからだよ。
けれど、今はそれだけでは足りない気がした。
「……最初は、負けたくなかったからだ」
「はい」
「お前が何でもできるのが悔しかったし、いつか絶対に勝ってやるって思ってた」
「そうですね。神崎くんは、いつも真剣でした」
「でも、今は……」
颯真は言葉を探した。
冷花は急かさず、じっと待っている。
「……勝負してるときのお前は、すごく楽しそうなんだよ」
「私が?」
「ああ。普段は何でも落ち着いてて、何を考えてるのかわかりにくいのに、勝負のときは本気になるだろ。負けそうになると、少し悔しそうな顔もするし」
「……それは、そうかもしれません」
「だから、もっと見たくなるんだ。お前が本気になってるところも、笑ってるところも」
言ってから、颯真は口を閉じた。
今のは、少し踏み込みすぎたかもしれない。
しかし冷花は、驚いたように彼を見つめていた。
「……私の、笑っているところ?」
「……ああ」
「神崎くんは、私が笑うと嬉しいのですか?」
「っ……!」
今度こそ、颯真の顔が真っ赤になった。
「そ、そういう話じゃなくて!」
「ですが、今、そうおっしゃいました」
「いや、だから……!」
冷花はしばらく颯真を見つめていたが、やがてふっと微笑んだ。
「……そうですか」
「な、何だよ」
「いえ。嬉しいと思いました」
「…………」
今度は颯真が、完全に言葉を失った。
冷花はそんな彼を見て、小さく首を傾げる。
「神崎くん。顔が赤いですが、体調が悪いのですか?」
「お前のせいだよ!」
「私が?」
「そうだよ!」
「……なるほど」
冷花は真剣に頷いた。
「では、神崎くんにとって、私は弱点になり得るのでしょうか?」
「――は?」
颯真は目を見開いた。
冷花は、先ほどまでの調査用紙を見下ろしている。
「私と話していると、神崎くんは普段と違う反応をします。これは、私が神崎くんの弱点である可能性を示しているのではないでしょうか」
「ちょ、ちょっと待て!」
「何でしょう?」
「なんでそうなるんだよ!」
「調査結果からの推測です」
「そんな推測、しなくていい!」
冷花は首を傾げたままだった。
そして、少し考えてから言った。
「……ですが、神崎くんが私を特別に見てくれているのなら、少し嬉しいです」
「…………っ!」
颯真は机に突っ伏した。
もうだめだ。
この調査は失敗だ。
いや、そもそも最初から失敗だったのかもしれない。
彼女の弱点を探すつもりが、自分の弱点を再確認することになってしまった。
――一ノ瀬冷花。
こいつは、本当にずるい。
本人にそのつもりがないから、なおさらだ。
*
調査の結果。
冷花には、勉強や運動、家事といった分野で、明確な弱点は見つからなかった。
しかし、颯真には一つだけ、気づいたことがあった。
彼女は、自分の気持ちを言葉にするのが苦手なのだ。
正確に言えば、気持ちがないのではない。
嬉しい、楽しい、寂しい。
そうした感情を感じていても、それが自分にとって何を意味するのか、まだわからないのだろう。
だからこそ、彼女は何でも分析し、答えを出そうとする。
けれど、感情は問題集のように、必ず正解が一つあるわけではない。
「……一ノ瀬」
「はい?」
「無理に答えを出さなくてもいいんじゃないか」
帰り支度をしていた冷花が、手を止めた。
「昨日の質問のことですか?」
「ああ。俺も、自分の気持ちがはっきりわかってるわけじゃないからさ」
「……そうなのですね」
「だから、ゆっくり考えればいいと思う。俺だって、急かすつもりはない」
冷花はしばらく黙っていた。
やがて、静かに微笑んだ。
「ありがとうございます、神崎くん」
「……おう」
「神崎くんは、私がわからないことを、わからないままにしておくことも許してくれるのですね」
「許すとか、そういう大げさな話じゃないって」
「ですが、私は嬉しいです」
その言葉を聞いて、颯真は胸の奥が温かくなるのを感じた。
彼女の気持ちが、今すぐわからなくてもいい。
ただ、これからも彼女と話していきたい。
一緒に笑ったり、勝負をしたり。
そうしているうちに、いつか答えが見つかるのかもしれない。
「……じゃあ、また明日な」
「はい。また明日」
生徒会室を出ようとした颯真の背中に、冷花が声をかけた。
「神崎くん」
「ん?」
「次の勝負ですが、何にしますか?」
颯真は振り返った。
冷花はいつもの落ち着いた表情で、しかし、どこか楽しそうに彼を見つめていた。
「……そうだな。今度は、将棋でもやるか?」
「わかりました。楽しみにしています」
「今度こそ勝つからな!」
「期待しています」
その言葉に、颯真は笑った。
いつもの勝負の約束。
けれど今は、その約束が続いていくこと自体が嬉しかった。
冷花もまた、颯真が帰ったあと、机の上の調査用紙を見つめていた。
弱点は見つからなかった。
それでも、一つだけ確かなことがある。
神崎颯真と一緒にいると、自分の知らない感情が次々に生まれてくる。
それを知ることは、少し怖い。
けれど、それ以上に楽しみだった。
冷花はノートを開き、新しい一文を書き加えた。
『神崎くんと一緒にいると、自分の知らない自分に出会える』
書き終えた彼女は、その文字を見つめて微笑んだ。
学園の女王が抱き始めた、小さな変化。
それは、本人が思っている以上に大きなものになりつつあった。



