学園の女王とイケメン王子様

 文化祭まで、あと五日。

 私立星蘭学園では、文化祭の準備と同じくらい、ある話題が盛り上がっていた。

「聞いたか? 生徒会長と神崎が相合い傘で帰ったらしいぞ!」

「しかも、二人とも顔を赤くしていたって!」

「ついに学園の女王にも春が来たのか……!」

 朝の教室。

 そんな会話を耳にした神崎颯真は、机に突っ伏した。

「……誰だよ。そんな話を広めたのは」

「お前だろ、神崎」

 隣の席で佐伯がにやにやと笑う。

「昨日、帰り道のことを聞かれたとき、顔を真っ赤にして否定してただろ。あれで余計に怪しまれたんだよ」

「うるさい! 雨が降ってたから傘に入れてもらっただけだ!」

「へえ。傘に入れてもらっただけで、そんなに嬉しそうな顔をするんだ?」

「してねえ!」

「じゃあ、なんで朝から一ノ瀬のほうをちらちら見てるんだ?」

「見てねえよ!」

 颯真は反射的に教室の前方を見た。

 そこには、いつもどおり背筋を伸ばして本を読んでいる一ノ瀬冷花の姿があった。

 長い黒髪。整った横顔。静かな眼差し。

 彼女は周囲の騒ぎなど気にしていないように見える。

 いや、実際に気づいていない可能性もある。

 何しろ、あの一ノ瀬冷花だ。

 周囲がどれだけ騒ごうと、本人は平然としていることが多い。

 ……なのに。

 昨日、傘の下で見せた、ほんの少し照れたような表情。

 そして、別れ際の言葉。

『私も、神崎くんと一緒に帰れてよかったです』

 思い出しただけで、颯真の胸が妙に落ち着かなくなる。

「なあ、神崎」

「今度はなんだよ」

「お前、一ノ瀬のこと好きなのか?」

「――っ!」

 颯真は勢いよく顔を上げた。

「な、何を言ってるんだ、お前は!」

「その反応、もう答えじゃん」

「違う! 俺はただ、あいつに勝ちたいだけだ!」

「はいはい。じゃあ、勝つために相合い傘をしたんだな?」

「そういうことじゃねえ!」

「じゃあ、どういうこと?」

「それは……!」

 言葉に詰まる。

 颯真自身にも、うまく説明できなかった。

 最初は、ただ勝ちたかった。

 勉強でも、運動でも、何をやっても自分より少しだけ先を行く冷花に、一度でいいから勝ちたかった。

 けれど、今はどうだろう。

 彼女が笑うと嬉しい。

 自分の作った料理を褒められると、妙に誇らしい。

 彼女が誰かと楽しそうに話していると、なぜか自分もその輪の中に入りたくなる。

 そして、昨日の帰り道。

 雨が止まなければいいのに、と少しだけ思ってしまった。

「……わかんねえよ」

 颯真が小さく呟くと、佐伯は目を丸くした。

「えっ。お前、そこまで来て自分の気持ちがわからないの?」

「うるさい!」

「だったら本人に聞いてみれば?」

「誰にだよ!」

「一ノ瀬に」

「聞けるわけないだろ!」

「なんで?」

「なんでって……!」

 颯真は再び言葉を失った。

 相手は一ノ瀬冷花だ。

 彼女に何かを尋ねること自体は、別に難しくない。

 勝負を申し込むことも、意見をぶつけることも、今まで何度だってしてきた。

 けれど。

 自分の気持ちを確かめるために質問するなんて、今まで考えたこともなかった。

「まあ、頑張れよ。学園一のイケメンさん」

「お前、絶対に楽しんでるだろ!」

 佐伯の笑い声が教室に響いた。

     *

 昼休み。

 颯真は生徒会室を訪れていた。

 文化祭の準備について、冷花と確認する約束をしていたからだ。

「神崎くん、こちらの資料をお願いします」

「ああ、わかった」

 冷花は机の上に資料を並べた。

 文化祭の各企画の進行状況、備品の確認、当日の人員配置。

 どれも細かく整理されている。

 ただ、以前と違うことが一つあった。

「この部分は、担当の人たちに確認してあります。問題がなければ、そのまま進める予定です」

「おっ。ちゃんと自分以外の人に任せてるんだな」

「はい。神崎くんに教えていただいたので」

 冷花は淡々と答えた。

「以前の私は、自分で処理することが最も確実だと考えていました。しかし、他の人に任せたほうが、よりよい結果になる場合もあるとわかりました」

「そりゃよかった」

「ありがとうございます」

 そう言って、冷花は微かに微笑んだ。

 颯真は思わず手を止めた。

 最近、彼女が笑うことには慣れてきたつもりだった。

 けれど、不意打ちのように見せられると、どうしても調子が狂う。

「……何か?」

「いや、なんでもない!」

「そうですか」

 冷花は首を傾げ、それ以上追及しなかった。

 その反応に、颯真は少しだけ助けられた気がした。

 しかし、佐伯の言葉が頭から離れない。

 ――本人に聞いてみれば?

 そんなこと、できるわけがない。

 そう思っていたのに。

「なあ、一ノ瀬」

「はい?」

「お前さ……」

 冷花が顔を上げる。

 真っ直ぐな瞳が、颯真を見つめた。

 逃げ道がなくなったような気がした。

「……俺のこと、どう思ってる?」

「どう、とは?」

「いや、だから……」

 颯真は頭をかいた。

 どうしてこんな簡単な質問ができないのだろう。

 勝負なら、負けても次がある。

 けれど、もし彼女の答えが自分の望んでいないものだったら。

 今までのように、何も気にせず話しかけられるだろうか。

 それでも、聞きたかった。

 昨日の帰り道に感じた、あの不思議な気持ちの正体を。

「……お前、俺のこと好きなのか?」

 言った瞬間、颯真は固まった。

 ――何を聞いてるんだ、俺は!

 もっと別の聞き方があったはずだ。

 せめて、もう少し自然な流れで。

 いや、そもそも今、聞く必要があったのか?

 頭の中で後悔が一気に押し寄せる。

 一方、冷花は。

「……好き、ですか?」

 不思議そうに呟いた。

 そして、数秒間、真剣に考え込んだ。

 颯真は息を止めた。

 やがて冷花は、まっすぐに彼を見つめて答えた。

「わかりません」

「……え?」

「神崎くんのことは、他の人とは違うと感じています」

「……!」

「一緒にいると楽しいですし、話をしていると時間が早く過ぎます。勝負をすると、次はどんな方法で私を驚かせてくれるのだろうと考えます」

 冷花は一つずつ、確かめるように言葉を重ねた。

「神崎くんが来てくれると嬉しいです。来ない日は、少し物足りないとも感じます」

「…………」

「ですが、それが恋愛感情なのかどうか、私にはまだ判断できません」

 颯真は何も言えなかった。

 嫌われてはいない。

 むしろ、特別だと言われたようなものだ。

 それなのに、胸の奥が落ち着かない。

「……そっか」

 ようやく、それだけを口にした。

「すみません。期待に沿う答えではなかったでしょうか」

「いや! 別に、そういうつもりで聞いたわけじゃ……!」

 颯真は慌てて否定した。

 しかし、冷花はじっと彼を見ている。

「では、なぜ尋ねたのですか?」

「それは……」

 また、言葉に詰まった。

 自分の気持ちさえわからないのに、彼女の気持ちだけを知ろうとした。

 それが少し、恥ずかしかった。

「……俺にも、よくわからない」

 颯真が正直に答えると、冷花は目を瞬かせた。

「神崎くんにも、わからないことがあるのですね」

「お前、俺を何だと思ってるんだよ!」

「何でも自信を持って答えられる人だと思っていました」

「そんなわけあるか!」

 いつもの調子で言い返すと、冷花は小さく笑った。

「そうですね。私も、まだ知らないことがたくさんあるようです」

 その笑顔を見て、颯真は思った。

 ああ。

 やっぱり、自分はこの顔が好きなのかもしれない。

 けれど、それを口にする勇気はまだなかった。

     *

 放課後。

 颯真が帰宅したあとも、冷花は生徒会室に残っていた。

 机の上には、文化祭の資料が整然と並んでいる。

 いつもなら、残りの仕事を確認してから帰るところだった。

 しかし今日は、どうしても気になることがあった。

 ――神崎くんのことは、他の人とは違う。

 自分で口にした言葉を、何度も思い返す。

 神崎颯真は、確かに特別な存在だった。

 最初は、自分に何度も勝負を挑んでくる、珍しい人だった。

 次に、一緒に仕事をするのが楽しい人になった。

 そして今では、勝負をしていないときでも、つい目で追ってしまう人になっている。

「……どうしてでしょう」

 冷花は胸元に手を当てた。

 颯真が自分に勝とうと努力している姿を見ると、応援したくなる。

 彼が自分のことを褒めると、普段より嬉しく感じる。

 彼が別の誰かと楽しそうに話していると、なぜか少しだけ気になってしまう。

 それは、これまで他の人に対して抱いたことのない感情だった。

「恋愛感情……」

 その言葉を、小さく口にしてみる。

 けれど、まだよくわからない。

 わからないからこそ、知りたくなった。

 自分が何を感じているのか。

 神崎颯真という少年が、自分にとってどんな存在なのか。

 冷花は机の引き出しから、いつも使っている小さなノートを取り出した。

 これまでは、勉強や仕事で気づいたことを書き留めてきたノートだ。

 彼女は新しいページを開き、ペンを手に取った。

『神崎くんについて』

 そう書いてから、しばらく考える。

 そして、その下に一つずつ書き始めた。

『一緒にいると楽しい』

『話をすると、時間が早く過ぎる』

『勝負に負けても、次が楽しみになる』

『来てくれると嬉しい』

 そこまで書いて、冷花はペンを止めた。

 さらに一行、付け加える。

『神崎くんに、嫌われたくない』

「…………」

 書いた文字を見つめ、冷花は目を見開いた。

 これは、今まで考えたこともなかった感情だった。

 自分は、誰かに嫌われることを恐れたことがあっただろうか。

 他人の評価を気にすることはあっても、それは生徒会長として必要なことだったからだ。

 けれど、神崎颯真に嫌われることは。

 想像しただけで、少し嫌だった。

「……不思議ですね」

 冷花はノートを閉じた。

 まだ答えは出ていない。

 それでも、一つだけわかったことがある。

 自分はもう、神崎颯真を単なる勝負相手だとは思っていない。

 明日、彼に会ったら。

 もう少しだけ、自分の気持ちについて話してみよう。

 そう決めた冷花の表情は、いつもより柔らかかった。

     *

 その頃、帰り道を歩いていた颯真は、佐伯からのメッセージを見ていた。

『一ノ瀬に告白した?』

「してねえよ!」

 思わず声に出してしまい、通りすがりの人に振り向かれる。

 颯真は慌ててスマートフォンを握り直した。

『ただ、好きなのかって聞いただけだ』

 送信してから、しまったと思った。

 すぐに既読がつく。

『それを聞いた時点で、かなり進展してるだろ』

『うるさい』

『で、返事は?』

 颯真は少しだけ迷い、文字を打った。

『わからない、だってさ』

 返事は、すぐに届いた。

『脈ありじゃん』

「……なんでそうなるんだよ」

 颯真は呆れたように呟いた。

 けれど、スマートフォンをしまう直前、口元が緩んでしまう。

 冷花は、自分のことを他の人とは違うと言ってくれた。

 それだけで、今日は十分なのかもしれない。

「……次は、ちゃんと勝負で勝ってやる」

 いつもの決意を口にする。

 けれど、今度の勝負には、以前とは違う気持ちが混ざっていた。

 彼女に勝ちたい。

 そして、彼女にもっと自分を見ていてほしい。

 そんな二つの願いが、颯真の胸の中で静かに重なっていた。

 翌日。

 冷花は颯真に、ある提案をすることになる。

 それは、学園の女王が自分の弱点を知ろうとする、思いがけない計画の始まりだった。