学園の女王とイケメン王子様

 文化祭まで、あと六日。

 星蘭学園では、準備がいよいよ大詰めを迎えていた。

 放課後になっても、教室には生徒たちが残り、看板を作ったり、飾りつけをしたりと忙しく動き回っている。

 文化祭実行委員長の神崎颯真も、最後の確認に追われていた。

「よし、これで各クラスの進行表は全部そろったな」

 資料を確認し終えた颯真は、ほっと息をついた。

 隣では、生徒会長の一ノ瀬冷花が、確認済みの書類をきれいにまとめている。

「お疲れさまでした、神崎くん。予定より早く終わりましたね」

「まあな。これも、優秀な実行委員長のおかげってやつだ」

「自分で優秀と言うのですね」

「たまにはいいだろ!」

 冷花は、ふっと口元を緩めた。

「そうですね。頑張っていると思います」

「……だから、そういうのを真顔で言うなって」

「褒めてはいけないのでしょうか?」

「褒めるのはいいけど、心の準備ってものが……」

「では、次回からは事前にお知らせします」

「そういう意味じゃない!」

 いつものやり取りに、二人は顔を見合わせた。

 そして、冷花が小さく笑う。

 颯真は、その笑顔を見て、少しだけ頬を緩めた。

 最近、彼女が笑うことは珍しくなくなってきた。

 けれど、何度見ても嬉しい。

 それだけは、どうにも変わらなかった。

     *

 午後五時。

 ようやく作業を終えた二人は、校門へ向かって歩いていた。

「今日は疲れたな……」

「神崎くんは、各クラスを何度も往復していましたから」

「お前だって、ずっと資料を確認してただろ」

「私は慣れていますので」

「そういう問題じゃないんだけどな」

 颯真が苦笑した、そのときだった。

 ぽつり。

 頬に冷たいものが触れた。

「……ん?」

 空を見上げると、灰色の雲が広がっていた。

 次の瞬間、雨粒が一つ、また一つと落ちてくる。

「あ、雨か!」

 みるみるうちに雨脚が強くなり、校庭には大きな水たまりができ始めた。

 颯真は慌てて鞄を開けた。

「やばい。傘、持ってきてない……」

「天気予報では、夕方から雨になる可能性があると言っていました」

「朝は晴れてたじゃないか!」

「折りたたみ傘を持ってくるべきでしたね」

「正論だけど、今それを言われても!」

 颯真が困っていると、冷花は自分の鞄から紺色の折りたたみ傘を取り出した。

「神崎くん、こちらに入ってください」

「……え?」

「駅まで同じ方向ですよね?」

「そ、そうだけど……」

「では、一緒に帰りましょう」

 冷花は、ごく自然に傘を開いた。

 颯真は、その場で固まった。

 ――待て。

 今、一緒に帰ろうと言ったのか?

 しかも、相合い傘で?

「……神崎くん?」

「い、いや! 何でもない!」

 颯真は慌てて傘の下に入った。

 すると、思った以上に傘が小さいことに気づいた。

 二人が並ぶと、肩が触れそうなほど近い。

 少しでも動けば、腕が当たってしまう。

 颯真は、急に自分の歩き方が分からなくなった。

「……狭いな」

「そうですね。もう少し、こちらに寄ってください」

「えっ!?」

「神崎くんの肩が、傘から出ています。濡れてしまいますよ」

「わ、分かった!」

 颯真は慌てて冷花のほうへ寄った。

 肩が、軽く触れた。

 それだけで、心臓が跳ね上がる。

 冷花は気にした様子もなく、傘を持ち直した。

「これなら大丈夫ですね」

「……ああ」

 颯真は、前だけを見て歩き始めた。

 雨音が、二人の間を満たしていた。

     *

 しばらく歩いたところで、颯真は違和感に気づいた。

 自分の右肩が、少し濡れている。

 冷花のほうを見ると、彼女の肩は傘の内側に収まっていた。

 傘が、彼女のほうへ傾いているのだ。

「……おい、一ノ瀬」

「はい?」

「傘、そっちに傾いてないか?」

「そうでしょうか?」

「そうだよ。お前の肩は濡れてないけど、俺の肩は濡れてるぞ」

 冷花は、彼の肩を確認した。

「本当ですね」

「本当ですね、じゃないだろ。もっと真ん中に持てよ」

「ですが、神崎くんのほうに傘を傾けると、私が濡れてしまいます」

「それなら、俺が濡れないように持てばいいだろ」

「神崎くんが傘を持つのですか?」

「そうじゃなくて……!」

 颯真は言いかけて、ため息をついた。

「……もういい。俺が持つ」

「分かりました」

 冷花は素直に傘を渡した。

 颯真が持つと、傘は二人の真ん中に収まった。

「これでいいだろ」

「はい。ありがとうございます」

 冷花はうなずいた。

 ところが、しばらくすると、今度は颯真が傘を彼女のほうへ傾けていることに気づいた。

「神崎くん」

「何だ?」

「傘が、私のほうに傾いています」

「……そうか?」

「はい。神崎くんの左肩が濡れています」

「別に、これくらい平気だよ」

「風邪をひいたら、文化祭の準備に支障が出ます」

「それはお前も同じだろ」

「私は大丈夫です」

「そういう問題じゃないって」

 二人はしばらく、傘の位置をめぐって押し問答を続けた。

 やがて冷花が、ふと立ち止まった。

「……では、こうしましょう」

「何だ?」

「二人で傘の柄を持てば、どちらか一方に傾くこともありません」

「……え?」

 冷花は、颯真の手元にそっと自分の手を添えた。

「この位置なら、ちょうど真ん中になります」

 颯真は息を止めた。

 彼女の手が、自分の手に触れている。

 冷花は傘の角度を確認して、満足そうにうなずいた。

「これで解決ですね」

「……そ、そうだな」

 颯真の返事は、妙にぎこちなかった。

 冷花は不思議そうに彼を見上げた。

「神崎くん。顔が赤いようですが、熱があるのですか?」

「ない!」

「ですが……」

「ないったらない!」

「そうですか。雨で冷えているのかと思いました」

「……頼むから、今は何も聞かないでくれ」

「分かりました」

 冷花は素直にうなずいた。

 そして、また二人で歩き始める。

 傘を持つ手が触れたまま。

 颯真は、雨音がいつもより大きく聞こえる気がした。

     *

 駅へ向かう道の途中。

 商店街の軒先で、二人は少しだけ雨宿りをすることになった。

 雨は弱まるどころか、ますます激しくなっていた。

「……すごい雨だな」

「そうですね。もう少し待ったほうがよさそうです」

 二人は並んで、雨に濡れた道路を眺めた。

 しばらく沈黙が続いたあと、冷花が口を開いた。

「神崎くん」

「ん?」

「今日は、一緒に帰れてよかったです」

 颯真は、思わず彼女を見た。

「……何だよ、急に」

「最近、文化祭の準備で忙しく、ゆっくり話す時間がありませんでしたから」

「……まあ、そうだな」

「こうして二人で歩くのも、悪くないですね」

 冷花は、雨の向こうを見つめながら言った。

「仕事の話をしなくても、一緒にいられるのは……少し、不思議な感じがします」

 颯真は、胸の奥がざわつくのを感じた。

 彼女も、同じことを考えていたのだろうか。

 仕事がなくても、一緒にいたい。

 そんな気持ちが、彼女の中にも少しはあるのだろうか。

「……一ノ瀬」

「はい?」

「文化祭が終わってもさ……」

 そこまで言って、颯真は口を閉じた。

 何を言おうとしたのか、自分でも分かっていた。

 文化祭が終わっても、一緒に帰りたい。

 仕事がなくても、話をしたい。

 勝負をする理由がなくなっても、彼女の隣にいたい。

 けれど、それを口にするのは、まだ少し怖かった。

「……いや、何でもない」

 颯真が視線をそらすと、冷花は静かに彼を見つめた。

「文化祭が終わっても、何でしょう?」

「……別に、大したことじゃない」

「そうですか」

 冷花は、少しだけ考え込んだ。

 そして、ぽつりと言った。

「私は、文化祭が終わっても、神崎くんと勝負したいです」

「……え?」

「文化祭の準備がなくなっても、勉強や運動の勝負はできますから」

 冷花は、真剣な顔で続けた。

「それに、勝負以外でも、あなたと話す時間は楽しいです」

 颯真は、言葉を失った。

 彼女は、自分と同じことを考えていた。

 仕事がなくなっても、一緒にいたい。

 勝負だけが、二人をつなぐものではない。

 そのことを、彼女自身が口にしてくれた。

「……そっか」

 颯真は、照れくさそうに笑った。

「じゃあ、文化祭が終わっても、よろしくな」

「はい。こちらこそ」

 冷花は、穏やかに微笑んだ。

 雨音が、少しずつ小さくなっていく。

 そのとき、冷花がふと颯真の肩を見た。

「……神崎くん」

「ん?」

「やはり、肩が濡れています」

「え? ああ、さっきのか。大丈夫だって」

「大丈夫ではありません。帰ったら、すぐに着替えてください」

「分かった、分かった」

「約束ですよ」

「……はいはい」

 颯真が笑うと、冷花も小さく笑った。

 二人は再び傘を開き、駅へ向かって歩き出した。

 今度は、どちらも濡れないように。

 肩が触れ合う距離のまま。

     *

 駅に着くと、雨はすっかり弱まっていた。

「では、私はこちらなので」

 冷花が改札の前で立ち止まった。

「ああ。今日はありがとな、傘」

「どういたしまして」

「……あと、一緒に帰れてよかったよ」

 颯真は、思い切って言った。

 冷花は一瞬だけ目を見開いた。

 そして、頬をほんのり赤くしながら、微笑んだ。

「……私もです」

 その言葉を残して、彼女は改札を通っていった。

 颯真は、その後ろ姿が見えなくなるまで立ち尽くしていた。

「……やばいな」

 思わず、つぶやく。

 もう、彼女に勝つことだけを考えていた頃には戻れない。

 彼女の笑顔を見ると嬉しい。

 彼女と話すと楽しい。

 そして、彼女と離れると、もう少し一緒にいたかったと思う。

 それが何なのか。

 颯真には、もう分かりかけていた。

 けれど、認めてしまえば、今までとは違う何かが始まってしまう気がした。

 だから、彼はまだ、その気持ちに名前をつけないことにした。

 ただ一つだけ、決めたことがある。

 ――次に雨が降ったときも、彼女と一緒に帰れたらいい。

 そんな小さな願いが、いつの間にか胸の中に生まれていた。