廊下に出た瞬間、ようやく息ができた気がした。
とにかく部屋に戻ろう。
鍵をかけて、ベッドに飛びこんで、ひとりで落ち着こう。
そう思って早足になった、そのときだった。
「おい」
「ひゃっ!?」
また後ろから声。
今日だけで何回びくつけばいいの。
振り向くまでもなく、声の主はわかった。
「玲央……」
「逃げんなよ」
「逃げてないし!」
「じゃあなんでそんな早足なんだよ」
「べ、別に……」
別に、じゃない。
完全に逃げてた。主に玲央から。
でもそんなこと言えるわけもなくて、わたしは目をそらしたまま歩き出す。
すると、玲央も当たり前みたいに隣を歩き始めた。
「……なんでついてくるの」
「おまえが危なっかしいから」
「子どもじゃないんだけど」
「知ってる」
だったら放っておいてよ。
そう言いたいのに、玲央の横顔を見ると変にどきっとして言えなくなる。
廊下の角を曲がったところで、わたしは急に足を止めた。
「じゃ、じゃあわたし――」
しまった。
また言った。
気づいた瞬間にはもう遅くて、玲央の視線がぴたりと止まる。
「……今」
「ち、違っ」
あわててごまかそうとして、一歩下がる。
でも、焦ったせいで足元がもつれた。
「きゃっ……!」
ぐらっと身体が傾く。
次の瞬間、強い力で腕を引かれた。
気づけば、わたしは玲央の胸にぶつかるようにして抱きとめられていた。
「……っ」
近い。
近すぎる。
息が止まりそうなくらい、玲央の顔が近くにあった。
「なにしてんだよ、おまえ」
「ご、ごめ……」
うまく言葉が出ない。
玲央の手がとっさにわたしの肩と背中を支えていて、その体勢のまま動けなくなる。
そのときだった。
玲央の表情が、ふっと変わった。
さっきまでのからかうみたいな色が消えて、真顔になる。
視線が、わたしの顔から、胸元のあたりへ落ちた。
「……え」
低く落ちた声。
その一文字だけで、血の気が引いた。
しまった。
もしかして今、なにかおかしかった?
玲央の手に、わたしの身体の細さとか、胸元を押さえている感覚とか、変な違和感が伝わったのかもしれない。
逃げなきゃ。
そう思ったのに、足がすくんで動かない。
玲央はわたしの腕をつかんだまま、ゆっくりとまばたきをした。
「おまえ……」
「ち、違うの!」
反射で叫んでしまってから、はっとする。
違うってなにが。
その言い方じゃ、認めてるようなものじゃん!
玲央の目が細くなる。
「なにが違うんだよ」
「それは……」
声が震える。
どうしよう。
どうしようどうしようどうしよう。
ここでバレたら終わりだ。
お兄ちゃんのために来たのに、初日で全部だめになる。
「……女、だろ」
そのひとことが落ちた瞬間、世界が止まった気がした。
心臓が、嫌なくらい大きく跳ねる。
「っ……」
否定しなきゃ。
でも、うまく息ができない。
玲央の目はもう、ごまかしなんて通じないって言っていた。
「なんで……」
やっとそれだけ絞り出すと、玲央は小さく息を吐いた。
「気づかないほうが無理」
「うそ……」
「うそじゃねーよ」
玲央はそう言って、わたしの腕をつかんだまま、人気のない壁際へ引き寄せた。
「ちょ、れ、玲央……!」
「静かにしろ」
低い声。
怒鳴ってるわけじゃないのに、それだけで身体がびくっとする。
背中が壁に当たる。
逃げ道をふさぐみたいに玲央が目の前に立って、わたしは完全に動けなくなった。
「説明しろ」
「……っ」
「なんで女のおまえが、男のふりしてここにいる」
その目は鋭いのに、どこか本気で心配してるみたいでもあって。
だから余計に、胸が苦しくなる。
「言えよ」
「……お兄ちゃん、なの」
気づいたら、言葉がこぼれていた。
「お兄ちゃんが骨折して……学園に来られなくなって……このままだと出席日数が足りなくなるかもしれなくて……」
ぽつり、ぽつりと話しながら、涙が出そうになる。
だめだ。ここで泣いたらもっと終わりなのに。
「だから、一か月だけ……代わりに来ることになって……」
「はあ?」
玲央の眉が思いきり寄る。
「なにそれ。めちゃくちゃだろ」
「わかってるよ!」
思わず声が大きくなって、すぐに自分で口を押さえる。
「わかってるもん……そんなの、わたしだって無茶だって思ってる……」
熱くなった目を伏せる。
こんなの、ほんとは最初から無理だったんだ。
「でも、お兄ちゃんの夢がかかってたから……放っておけなかったの……」
言い終わったあと、廊下にしんと沈黙が落ちる。
終わった。
絶対怒られる。
呆れられる。
みんなに言われて、わたしはすぐここを追い出される。
そう思ってぎゅっと目を閉じた、そのとき。
「……ばか」
「え?」
おそるおそる目を開けると、玲央がものすごく苦い顔でこっちを見ていた。
「そんな無茶、一人でするなよ」
「……っ」
思っていた言葉と全然違って、一瞬理解が追いつかない。
「え……」
「初日でバレかけてるくせに、よく来たな」
「それは、ほんとにごめんなさい……」
「褒めてねーよ」
そう言いながらも、玲央の声はさっきより少しやわらかかった。
わたしは唇をかみしめる。
こわかった。
バレたことも、問いつめられたことも、全部。
でもそれ以上に、今すぐみんなに知られるんじゃないかって、それがいちばんこわい。
「……言うの?」
「なにを」
「みんなに……」
声がかすれる。
玲央はしばらく黙って、それからわたしの顔をのぞきこんだ。
「言われたくないのか」
「当たり前でしょ……!」
涙がにじみそうになるのを、必死でこらえる。
そんなの、言われたくないに決まってる。
ここで終わりたくない。お兄ちゃんのためにも、まだ。
玲央はそんなわたしを見たあと、ふっと息をついた。
とにかく部屋に戻ろう。
鍵をかけて、ベッドに飛びこんで、ひとりで落ち着こう。
そう思って早足になった、そのときだった。
「おい」
「ひゃっ!?」
また後ろから声。
今日だけで何回びくつけばいいの。
振り向くまでもなく、声の主はわかった。
「玲央……」
「逃げんなよ」
「逃げてないし!」
「じゃあなんでそんな早足なんだよ」
「べ、別に……」
別に、じゃない。
完全に逃げてた。主に玲央から。
でもそんなこと言えるわけもなくて、わたしは目をそらしたまま歩き出す。
すると、玲央も当たり前みたいに隣を歩き始めた。
「……なんでついてくるの」
「おまえが危なっかしいから」
「子どもじゃないんだけど」
「知ってる」
だったら放っておいてよ。
そう言いたいのに、玲央の横顔を見ると変にどきっとして言えなくなる。
廊下の角を曲がったところで、わたしは急に足を止めた。
「じゃ、じゃあわたし――」
しまった。
また言った。
気づいた瞬間にはもう遅くて、玲央の視線がぴたりと止まる。
「……今」
「ち、違っ」
あわててごまかそうとして、一歩下がる。
でも、焦ったせいで足元がもつれた。
「きゃっ……!」
ぐらっと身体が傾く。
次の瞬間、強い力で腕を引かれた。
気づけば、わたしは玲央の胸にぶつかるようにして抱きとめられていた。
「……っ」
近い。
近すぎる。
息が止まりそうなくらい、玲央の顔が近くにあった。
「なにしてんだよ、おまえ」
「ご、ごめ……」
うまく言葉が出ない。
玲央の手がとっさにわたしの肩と背中を支えていて、その体勢のまま動けなくなる。
そのときだった。
玲央の表情が、ふっと変わった。
さっきまでのからかうみたいな色が消えて、真顔になる。
視線が、わたしの顔から、胸元のあたりへ落ちた。
「……え」
低く落ちた声。
その一文字だけで、血の気が引いた。
しまった。
もしかして今、なにかおかしかった?
玲央の手に、わたしの身体の細さとか、胸元を押さえている感覚とか、変な違和感が伝わったのかもしれない。
逃げなきゃ。
そう思ったのに、足がすくんで動かない。
玲央はわたしの腕をつかんだまま、ゆっくりとまばたきをした。
「おまえ……」
「ち、違うの!」
反射で叫んでしまってから、はっとする。
違うってなにが。
その言い方じゃ、認めてるようなものじゃん!
玲央の目が細くなる。
「なにが違うんだよ」
「それは……」
声が震える。
どうしよう。
どうしようどうしようどうしよう。
ここでバレたら終わりだ。
お兄ちゃんのために来たのに、初日で全部だめになる。
「……女、だろ」
そのひとことが落ちた瞬間、世界が止まった気がした。
心臓が、嫌なくらい大きく跳ねる。
「っ……」
否定しなきゃ。
でも、うまく息ができない。
玲央の目はもう、ごまかしなんて通じないって言っていた。
「なんで……」
やっとそれだけ絞り出すと、玲央は小さく息を吐いた。
「気づかないほうが無理」
「うそ……」
「うそじゃねーよ」
玲央はそう言って、わたしの腕をつかんだまま、人気のない壁際へ引き寄せた。
「ちょ、れ、玲央……!」
「静かにしろ」
低い声。
怒鳴ってるわけじゃないのに、それだけで身体がびくっとする。
背中が壁に当たる。
逃げ道をふさぐみたいに玲央が目の前に立って、わたしは完全に動けなくなった。
「説明しろ」
「……っ」
「なんで女のおまえが、男のふりしてここにいる」
その目は鋭いのに、どこか本気で心配してるみたいでもあって。
だから余計に、胸が苦しくなる。
「言えよ」
「……お兄ちゃん、なの」
気づいたら、言葉がこぼれていた。
「お兄ちゃんが骨折して……学園に来られなくなって……このままだと出席日数が足りなくなるかもしれなくて……」
ぽつり、ぽつりと話しながら、涙が出そうになる。
だめだ。ここで泣いたらもっと終わりなのに。
「だから、一か月だけ……代わりに来ることになって……」
「はあ?」
玲央の眉が思いきり寄る。
「なにそれ。めちゃくちゃだろ」
「わかってるよ!」
思わず声が大きくなって、すぐに自分で口を押さえる。
「わかってるもん……そんなの、わたしだって無茶だって思ってる……」
熱くなった目を伏せる。
こんなの、ほんとは最初から無理だったんだ。
「でも、お兄ちゃんの夢がかかってたから……放っておけなかったの……」
言い終わったあと、廊下にしんと沈黙が落ちる。
終わった。
絶対怒られる。
呆れられる。
みんなに言われて、わたしはすぐここを追い出される。
そう思ってぎゅっと目を閉じた、そのとき。
「……ばか」
「え?」
おそるおそる目を開けると、玲央がものすごく苦い顔でこっちを見ていた。
「そんな無茶、一人でするなよ」
「……っ」
思っていた言葉と全然違って、一瞬理解が追いつかない。
「え……」
「初日でバレかけてるくせに、よく来たな」
「それは、ほんとにごめんなさい……」
「褒めてねーよ」
そう言いながらも、玲央の声はさっきより少しやわらかかった。
わたしは唇をかみしめる。
こわかった。
バレたことも、問いつめられたことも、全部。
でもそれ以上に、今すぐみんなに知られるんじゃないかって、それがいちばんこわい。
「……言うの?」
「なにを」
「みんなに……」
声がかすれる。
玲央はしばらく黙って、それからわたしの顔をのぞきこんだ。
「言われたくないのか」
「当たり前でしょ……!」
涙がにじみそうになるのを、必死でこらえる。
そんなの、言われたくないに決まってる。
ここで終わりたくない。お兄ちゃんのためにも、まだ。
玲央はそんなわたしを見たあと、ふっと息をついた。



