昨日は夜遅くなってしまったけど、心なしか体が軽い気がする。
あの食事のおかげなのか、それとも……。
電車での通勤途中、吸血鬼に血を吸われた事を思い出す。
そっと首筋に触れてみると、傷はもうなくなっているようだった。
吸われたことでデトックス効果なんてのは……。
いや、ないない。と慌てて振り払う。
「おはようございます」
出勤すると、なんだかオフィスが騒がしかった。
他の社員とは、いつも軽く挨拶を交わすだけなのに、今日はやたらと視線を感じる。
「琴吹先輩! 何かやらかしたんですか!?」
フロアに響くほどの大声で、三園さんが訊ねてきた。
まったく話が見えない。
「三園さん、おはようございます。何かって……?」
「社内メール見てないんですか? もうみんなビックリしてますよ!」
社内で何か通達がある時は、社内メールが使われる。
部署全員に知れ渡るような事を、私はしてしまったのだろうか?
まったく身に覚えがないが、恐る恐る自分のデスクのPCメールを開く。
『辞令 琴吹稀 殿
本日XX年〇〇月〇〇日をもって 専務秘書としての勤務を命ずる』
辞令!? 専務秘書!?
聞いてないんですけど!?
「先輩〜。本当に何やったんですか? 専務といえば、すごく厳しいオジサンって噂の人ですよね? 先輩の仕事ぶりを見て指名したんじゃないですかぁ? すごい大出世ですよ〜、おめでとうございます」
三園さんは笑顔で手を叩いて喜んでくれるが、私にとっては大問題だった。昨日あの吸血鬼の男に職場改善しろって言われた矢先にこれである。これじゃあ、もっと仕事が忙しくなりそう……。
げんなりしていると、再びオフィスが騒がしくなった。
──ちょっと、あれ誰!?
──すっごいイケメン!
皆の視線を追うと、入口に黒髪をピシッと決めたスーツ姿でメガネの男性と私の父である社長が立っていた。
確かにイケメン……だけど、どこかで見たことがあるような?
「琴吹稀はいるか?」
とてもハリのある声で呼ばれた。
社長もいるためか、部屋の空気がいっそう緊張感に包まれた。
「はっ、はい! 私が琴吹です!」
一歩前に出ると、黒髪の男性が握手を求めてきたので、緊張しながら手を差し出した。
「急な人事異動で申し訳ない。私は人事担当専務の岩鬼敬一だ。説明する間もなかったのでこちらに直接迎えに来た」
人事担当専務……!?
ということは、私がこの人の秘書をするってこと!?
「え、えー!? 専務ってもっとオジサ……年配の方だと思っていましたけど!」
なぜか、三園さんが青ざめている。
「……ああ、もしかして部署を入れるのを忘れていたかな? 君が言っているのは、おそらく営業担当の加納専務だ」
専務が言った後、なんだか後ろで三園さんの視線が殺気立っているように感じた……。
「近頃、全体的に残業が目立っているから人事としてもテコ入れをしたいようでね。そこで、まずこの総務から彼女を引き抜きたいと岩鬼君から要望があり……」
社長が説明してくれた。
岩鬼専務からの要望だったのね。何故私が選ばれたのかはわからないけれど、社長命令じゃない事に安心する。
そうでなければ、またコネだの贔屓だの言われるところだった。
「それでは、案内しよう」
「あ、あぁあ、ハイ!」
私は、慌ててデスクの荷物をまとめ、持ちきれない分は専務が持ってくれた。
「そ、それでは皆さん、お世話になりました!」
総務部を出る前に、ぺこりと頭を下げて挨拶する。
皆、あまりの急さで呆気にとられていた。
そりゃそうよ、私が一番驚いているもの。
「多少の牽制にはなったか……」
廊下を歩いている時に、岩鬼専務が呟いた。
「……何の話ですか?」
「いや、こちらの話だ。さて、今日からここが君の職場だ」
人事部の方々に挨拶し、すぐ隣にある専務室へ案内された。
専務のデスクと、秘書用のデスクがある。
えっ? もしかして、人事部がすぐ隣にあるとはいえ、この個室で二人きり……!?
「いやぁ〜、岩鬼君が我が社に来てくれて本当に助かるよ。稀との婚約も早々に進めよう」
ひとまず一緒に来た社長が、聞き捨てならないことを言った。
…………婚約? 誰と誰が?
「ありがとうございます。必ずや成果を出しますので」
「君と稀が結婚してくれたら、我が琴吹製薬も安心だよ。ハッハッハッ」
「ちょ、ちょーーっと待ったーー!!」
私と岩鬼専務が結婚!?
なんでそんな話になってるの!?
「デキの悪い娘だが、よろしく頼むよ」
「そんなことはありません。稀さんの評判は聞いていますよ」
「人の話聞いて!? おと……社長! まさか、また勝手に決めたんじゃないでしょうね!?」
大学も仕事も住む場所も、今まで父に勝手に決められてきた。
だけど、将来のパートナーまで決められてしまうなんて!
「岩鬼君は優秀な人なんだぞ。おまえには勿体ないくらいだ」
「それは否定しないけど、私が言ってるのは――」
「まあまあ社長、それはお家の方で話し合ってください。私はそろそろ仕事の話がしたいので……」
「む……それもそうだな。では岩鬼君、よろしく頼むよ。稀、岩鬼君の指示に従うように」
そう言って社長は専務室を出ていった。
どうやら社長は岩鬼専務がお気に入りのようだ。言われなくても、仕事の話ならいくらでも指示に従うわよ。いつも私には公私混同はしないように言ってくるくせに、自分はどうなのよ! と、久々に腹を立ててしまう。
「さて、稀お嬢様」
「専務まで、やめてください」
「失礼、琴吹君」
と言いながらも、専務は笑っている。
まるで子供扱いだ。
しかし、すぐに真面目な表情になった。
「最近の君の勤怠状況を見せてもらった」
うわあ、早速私からか……。
なんと説明しようか、正直に言っていいものか……。
「なるほど、これでは血液があんな状態だったのも頷ける」
……うん?
なぜ専務がそれを……?
「なぜ、という顔をしているな。気づいていなかったのか」
専務はそう言うと、ピシッとセットされた黒髪を自身の手でぐしゃぐしゃにしてメガネを外す。
「あ……あーーーーっ!!」
どこかで見たことがあると思ったら。
その顔は、昨夜の吸血鬼のものだった。



