吸血鬼専務は私を逃さない〜契約から始まる極甘婚約〜



 会場中の視線が、一斉にこちらへ向いた。
 き、聞いてないんですけど!?
 
「ほら、稀ちゃん」
 
 詠海さんに促され、半ば押し出されるように壇上へ上がる。
 敬一さんを見ると、彼はグラスを片手に、こめかみを押さえていた。
 ……なんか怖い。
 
「え、えっと……琴吹稀です……」
 
 緊張で声が震える。
 しっかりしなきゃ。取引先の人も見てる、父も見てる。
 
「実際に生活改善と合わせて試していただいた結果、非常に良いデータが得られました」

 詠海さんがさらりと言うけれど、頭の中は真っ白だ。
 ああ、どうしよう。

「稀さん、新製品のサプリメントを使ってみて、いかがでしたか?」

 三園さんに、マイクを手渡される。
 ちゃ、ちゃんと答えなきゃ。そう思うほど、手足が震える。
 
 ── それでも緊張するなら……俺だけを見ていろ。
 
 ふいに、敬一さんの言葉を思い出す。
 少し離れたところで、彼が見守ってくれている。
 この数ヶ月間、ずっと敬一さんと生活改善してきた。
 血液だって、もう不味いって言われなくなった。
 それくらいの自信は──ある。
 マイクを、両手でぎゅっと握る。
 
「サプリメントと共に、食生活などの生活面も整えてきました。肌の調子も良くなったみたいです。この調子で、健康診断も引っかからないといいんですが」

 苦笑を交えて答えると、会場からどっと笑いが起こった。
 
「なるほど、説得力がありますね」
「さすが琴吹社長のお嬢さんだ」

 あちこちから聞こえてくる声に、ますます緊張してしまう。
 その後もいくつか質問されて、なんとか答えることができた。
 
 壇上から降りると、私は足早に敬一さんのそばへ向かった。
 敬一さんは、そんな私を見て穏やかに目を細める。
 
「よくやったな」
 
 そう言って、ふわりと頭を撫でられる。
 ひ、人前なんですけど……!
 周囲の視線が気になって、思わず肩をすくめる。
 けれど、大きな手に優しく撫でられると、張り詰めていた緊張がふっとほどけていった。

 その後もパーティーは続き、挨拶や名刺交換で目が回りそうになる。
 父がやっと解放してくれたので、私はひと気の少ないテラスへ避難した。
 
「はぁ……緊張した……」
 
 涼しい風が、火照った頬に気持ちいい。
 ひとつ、深呼吸したその時──

「離して!」
 
 聞き覚えのある甲高い声に、思わず振り返る。
 三園さんだった。
 彼女の向かいには、派手なスーツ姿の若い男性……あれは、もしかして……。
 
「だから、もう稀とは別れたんだって」
「別れた? フラれたの間違いじゃないの?」

 東奥薬品の社長の息子さん……東奥広文さんだ。
 私が大学の時に、婚約の話が持ち上がって断ったことがある……。
 三園さんは、鼻で笑った。
 え、どういうこと? 彼と三園さん、知り合いなの?
 
「ち、ちがう! あんな女、俺がフってやったんだよ!」

 …………は?
 すごく傲慢な態度な上に私を社長令嬢扱いしてきたから、お付き合いをお断りしただけなんですけど……?

 離れた場所から様子をうかがっていると、彼が三園さんの腕を掴む。
 
「やっ……!」
 
 三園さんの顔がひきつった。
 
「ちょっと……!」
 
 思わず、私は二人の間に割って入っていた。
 ……しまった。
 勢いで出てきてしまったけれど、ここは会社のレセプション会場だ。
 琴吹製薬の社員として、社長の娘として、下手な対応はできない。

「琴吹先輩〜!」

 泣きついてくる三園さん。
 敬一さんなら、きっと動じない。
 そう自分に言い聞かせて、私は東奥さんへ向き直った。
 
「申し訳ありません。うちの社員が何か失礼を?」

 にっこりと、営業スマイルを出した。

「こ、琴吹、稀……!」

 彼の顔がひきつった。

「お久しぶりですね、東奥広文さん」
「は……ははっ、そうか、そうなんだな!」
「……はい?」
「結局おまえも、俺が恋しくて戻ってきたんだな」

 なにを言っているんだ、この人は。
 三園さんも、私と同じ気持ちのようだ。しらけた顔をしている。
 
「東奥さん」
 
 にこり、と笑顔を崩さないまま口を開く。
 
「私はあなたと、そのような関係になった覚えはありません」
「なっ……」

 東奥さんの顔がさらに歪んだ。
 三園さんが、目を見開いて一瞬こっちを見た気がする。

「以前、お話をいただいたことはあります。ですが、お断りしましたよね?」
「や、やめろ……」

 体裁を気にしているのか、彼は三園さんの方をチラチラと見ている。

「そのような誤解を招く発言をされるのは困ります」

 三園さんが「うわぁ……」みたいな顔をしている。
 ここで曖昧にしてはいけない。
 私は琴吹製薬の人間として、この場に立っているのだから。

「ここは琴吹製薬のレセプション会場です。お互い、節度ある振る舞いをお願いできますか?」

 ぴしゃりと言い切ると、東奥さんの頬がひくりと引きつった。

「……相変わらず、可愛くない女だな」
 
 吐き捨てるような声だった。
 
「え……」
「そういう澄ました態度が気に入らないんだよ」
 
 次の瞬間、ぐいっと腕を掴まれた。
 
「きゃっ……!」
 
 思ったより強い力に、身体がよろける。
 
「ちょ、ちょっと……!」
「いいから来いよ。昔のこと、ちゃんと話そうじゃないか」
 
 痛い。振り払おうとしても、力が強くて外れない。

「や、やめ……っ」
「東奥さんっ!」
 
 三園さんも慌てて止めようとするけれど、彼は聞く耳を持たない。
 怖い。
 周囲の視線が集まり始めているのに、東奥さんは興奮しすぎて周りが見えていないようだ。
 しかし──

「……うっ!」
「その手を離せ」

 空気が一瞬で変わる。
 いつの間にか、敬一さんが東奥さんの手首を掴んでいた。
 
「け……専務!」
 
 東奥さんが、痛みで顔を歪める。
 敬一さんは笑っていない。
 私と東奥さんを引き剥がし、背に庇ってくれた。
 
「うちの婚約者に、随分と乱暴な真似をしてくれるな」
「こ、これは誤解で……」
「誤解? 嫌がっているように見えたが」
 
 敬一さんが一歩近づく。
 それだけで、東奥さんの肩がびくりと跳ねる。
 けれど次の瞬間、人差し指をこちらへ向けて、苛立ったように声を荒げた。
 
「そ、そもそも! その女は、元々俺と婚約するはずだったんだ!」
 
 会場の空気がざわりと揺れる。
 三園さんも青ざめてる。
 
「それを突然断っておいて、今さら別の男と婚約だなんて……!」
 
 東奥さんの視線が、ぎらついたまま私に向く。
 
「本当は、最初から俺を馬鹿にしてたんだろ!」
 
 突然断ったわけでもない。馬鹿にもしていない。
 数年前に正式にお断りした話を、今更蒸し返されても困る。
 けれど、周りがざわざわし始めた。
 反論しないと、その通りだって思われてしまう。
 
「東──」

 言い返そうと口を開きかけたとき──
 敬一さんが、私の唇を塞いだ。彼の、唇で。
 まるで、東奥さんに見せつけるように。
 周りからどよめきや黄色い声が上がる。

 ほんの数秒だったに違いない。
 けれど、とても長い時間のように感じた。
 やがてゆっくりと唇を離すと、私を抱きしめたまま敬一さんは顔を東奥さんの方へ向ける。
 
「だからどうした」
 
 いつもよりも、低い声。怒りが伝わってくる。
 ひやり、と空気が凍った。
 専務は、紅い瞳で東奥さんを真っ直ぐ見据えていた。
 
「彼女には、君を選ばない自由がある」
「……っ」
「断られた腹いせに、公の場で腕を掴んで連れ回すつもりか?」
 
 専務が一歩近づく。
 東奥さんの肩がびくりと震えた。

「それ以上、俺の婚約者に触れてみろ。会社ごと潰されたいなら、止めはしない」

 ぞっとするほど冷たい声に、その場の空気が完全に凍りついた。
 しん……と静まり返る。
 
「何事だ」
 
 別の低い声に視線が集まり、周囲がさっと道を開ける。
 父だった。
 その隣には、青ざめた顔の東奥社長もいる。
 
「ひ、広文……おまえ、何をしている!?」
 
 東奥社長が息子を睨みつける。
 
「ち、違う、これは……!」
「言い訳は後にしろ! おまえは今日は招待されていないはずだ!」
 
 東奥社長の怒声が飛ぶ。
 さっきまで強気だった東奥さんも、今は言葉を失っていた。
 
「社長、稀さん。本当に申し訳ありません」

 東奥社長は深々と頭を下げると、息子の頭を無理やり押さえつける。

「父さん、やめ──」
「来い!」
 言い争いながら、二人は会場の外へ出て行った。
 会場内は、なんとも言えない気まずい空気が漂ってしまう。
 その間にも、敬一さんは冷静に関係者へ指示を出し、場を立て直していた。

 ふと気づくと、父がこちらへ歩いてきていた。
 背筋が伸びる。
 父は何も言わず、私の手首を見た。
 掴まれた痕が、まだうっすらと赤く残っている。

「……大丈夫か」
「……はい」

 短い言葉なのに。
 胸の奥が少しだけざわついた。
 まさか父が、私を心配してくれるなんて。
 父はわずかに眉を寄せる。
 
「おまえが正しかったというわけか……」
「えっ?」

 聞き返すと、父は小さく首を振った。
 
「いや、なんでもない」

 そして視線を逸らすように背を向ける。
 
「もうすぐパーティーも終わる。一杯だけ付き合え」

 父の背中を見つめる。
 私は黙ったまま、その後ろを歩き出す。
 一杯だけ付き合ったワインは、少しだけ苦くて。
 けれど、その苦さは嫌いじゃないと思った。