それからさらに季節が過ぎて、春。
若葉が眩しくなり始めた頃、琴吹製薬の社内は慌ただしい雰囲気に包まれていた。
来週に控えた新商品発表レセプション。
営業部は招待客への対応に追われ、広報は最終資料の確認に大忙し。
研究室も、いつもよりそわそわしている。
そんな中でも、専務秘書である私は、いつも通り……のはずだったのだけれど。
「来週のパーティーの準備はできているか?」
専務室にて。
デスク越しにそう訊かれて、私は顔を上げた。
「はい。専務のスーツの準備、会場までのタクシーの予約、できています。他に何かあれば……」
「違う」
「はい?」
敬一さんは書類から目を離し、呆れたように眉を寄せる。
「おまえの準備は、できているのかと訊いているんだ」
「わ、私、ですか……?」
思わず目を瞬かせる。
てっきり私は、いつものように敬一さんのサポートをするだけだと思っていた。
まさか自分まで出席するなんて考えてもいなかったのだ。
「何を寝ぼけたことを言っている。おまえは誰なんだ」
「琴吹、稀です……」
答えると、敬一さんは深いため息をついた。
「そうだ、おまえは琴吹稀! この琴吹製薬の社長の娘だろう! 出席しないわけがあるか!」
びしっと人差し指でおでこを突かれ、思わず目を閉じる。
ひえぇ、そんなこと言われても……!
私は今まで、そういう華やかな場にはなるべく関わらないようにしてきたのに。
社長令嬢として扱われるのは、どうにも苦手だ。
周囲の視線が変わるし、勝手に期待されるし、気を抜けばすぐ「お嬢様」と距離を置かれてしまう。
けれど専務は、有無を言わせない顔をしていた。
ついこの間まで、この世の終わりみたいな雰囲気を醸し出していたとは思えない。
*
そんなわけで、その日の帰り、私は慌ててドレスショップへ駆け込むことになった。
「これなんてどうですか?」
試着室のカーテンを開けて、敬一さんの前でくるりと回ってみせる。
ネイビーブルーのドレスは、自分で言うのもなんだけど結構かわいい。
店員さんも「とてもお似合いです〜!」と笑顔だ。
「……ダメだ、肩が開きすぎている」
「ええっ? 素敵なのに……」
敬一さんは真顔のまま、ドレスをじっと見つめる。
すると、カードをサッと出して店員さんに声をかけた。
「首元が隠れるスカーフのようなものを。あとこれに合わせてネックレスとピアス、バッグと靴ももらおう」
敬一さんの険しい顔の前でも、店員さんは終始笑顔だ。
「えぇっ、ちょ、ちょっと! ゆっくり選ばせてくださいよ」
「そんな時間はない」
ドレス一式を購入して、さっさと店を出てしまう。
早歩きで追いついて、敬一さんの車に乗り込む。
「どうせ参加するつもりはないからと、招待客のリストもほとんど見てないだろう」
なんでわかるんですか……!
「さ、最低限の確認はしました」
主な取引先の方は、頭に入っている。
けれど敬一さんは、ふっとため息をついた。
「それではダメだ。当日は社長の補佐に回ってもらうから──」
そう言って、後部座席に置いてあったファイル一式を、ドンと持たされる。
「当日までに、全部覚えてもらう」
「ちょ、分厚くないですか……?」
名前と社名だけで、なんでこんな分厚く……?
「個人的な趣味や企業理念などもまとめてある。ちなみに──」
敬一さんが、意地悪そうに少し唇の端を上げる。
「これを作ったのは、営業部に行った三園くんだがな?」
「ぐっ……」
三園さん、あれから接点がないけれど、営業部ではきちんと仕事をしているようだ。
うーん、まさか三園さんに助けられる日が来るとは……。
負けたくない、がんばろう。
手渡された分厚いファイルを、ぐっと握りしめた。
*
レセプションパーティー当日。
敬一さんに買ってもらったネイビーブルーのドレスに身を包む。
そして……なぜか首元を隠すスカーフまで。
ここまですることないのに、と思ったけれど、こうして鏡の前に立つと、なんとなく全体が上品にまとまって見えた。
敬一さんは、ダークグレーのスーツを完璧に着こなしている。社内とはまた違ったスーツ姿に、思わず見惚れてしまう。
私は、ちゃんと専務秘書として、敬一さんの婚約者として立っていられるだろうか?
「うぅ……」
鏡の前で頭を抱えていると、後ろから低い声が降ってきた。
「おまえは社長令嬢なんだ。もっと堂々としろ」
「……いやなんです」
ぽつりと本音が漏れる。
「なにが」
「社長令嬢って見られるのが」
鏡越しに視線が合う。
敬一さんが、わずかに目を細めた。
「言っておくが」
「はい」
「今日は嫌でもおまえは社長令嬢として見られる」
「うっ……」
ぐさり、と刺さる。
わかっている。
わかっているけれど、だから参加したくなかったのだ。
「俺は専務という立場だが……同時に、おまえの婚約者でもある」
「はい……」
「おまえが、俺の婚約者なのではない。俺が、琴吹製薬の跡取りの婚約者なんだ」
つまり、立場としては私の方が上。
そう思いたくなくても、それが現実で。
今日ここに来る招待客たちも、きっとそう見る。
……だから苦手なのに。
堂々としろと言われても、どうすればいいんだろう。
とりあえず胸を張ればいいのかな。鏡の前で背筋を伸ばしてみる。
けれど慣れないドレス姿のせいか、なんだか作り物のお嬢様みたいだった。
すると、そんな私を見ていた敬一さんが、ふっと小さく笑った。
「じゃあこうしよう」
くい、と顎を持ち上げられた。
「俺が惚れた女なんだから、自信を持て」
「っ!?」
至近距離で真っ直ぐ見つめられて、息が止まる。
な、なにその台詞……!
一瞬で顔が熱くなった。心臓がうるさい。
けれど敬一さんは、そんな私の動揺なんて気づいていないみたいに平然としている。
「それでも緊張するなら……俺だけを見ていろ」
ふぁっ!? と声を上げそうになった。
「そ、そういうわけには……!」
むしろ意識してしまう。
こんなの、緊張が増すだけなんですけど!?
もう私は、どれだけゆでだこ状態にさせられれば気が済むのだろうか。
レセプション会場のシャンデリアが、きらきらと眩しい。
ホテルのホールには、取引先や関係者たちが集まり、談笑の声が満ちていた。
私たちが会場に入ると、自然と視線が集まる。
──おい、あれ琴吹社長の娘さんだろ? 珍しい。
──隣にいるのは、例の婚約者か?
──なかなか、お似合いの二人じゃないか。
そんな声が聞こえてきた。
挨拶をしながら会場の奥へ進んでいくと、父である社長がいた。
父は、私たちを一瞥する。
「……フン、少しは見られるようになったか」
実の娘に対する第一声がそれ!?
カチンときたけれど、ここは公の場だ。
私はぐっと笑顔を貼りつける。
「社長、本日はよろしくお願いします」
私は今日、社長の後ろに立って補佐をする。
「粗相をせんようにな」
「……善処します」
にっこりと、営業スマイルで返した。ああ、もう! 敬一さんの眷属になってから丸くなったって聞いたのに、全然変わってない!
社長の周りには、たくさんの取引先の人間が集まる。
私は、それが誰かをこっそりと教える役だ。
「……あれは誰だったかな?」
「白峰メディカル流通の、山口常務です」
父の斜め後ろから一歩寄り、小声で耳打ちする。
「ああ、そうだったな」
「もし、プライベートなお話をされるのでしたら、釣りがご趣味だと」
「ほう」
釣りの話題に興味を持ったのか、父が山口常務の方へ行こうとすると、横から声をかけられた。
「琴吹社長」
「これはこれは、東奥社長」
思わず背筋が固まる。
東奥社長の顔を見るのは、あの婚約話以来かもしれない。
「稀さん、ご無沙汰ですな」
「……その節は、お騒がせしてしまって申し訳ありません」
ドレスの前で手を重ね、小さく頭を下げる。
「いやいや、もう数年も前のことですから」
東奥社長はおおらかに笑った。
「それよりも、ご婚約されたそうじゃないですか。おめでとうございます」
そう言って視線を向けたのは、私ではなく父だ。
「そうなんですよ。娘にはもったいないくらいの男でしてなぁ。いやいや、東奥社長のご子息には敵いませんが」
父が機嫌よく笑い、スパークリングワインのグラスが軽く触れ合った。
二人が談笑し始めたので、少し緊張を解いて辺りを見回す。
離れたところで、敬一さんが他の招待客に囲まれていた。
こちらに気づくと、優しい笑みを向けて、小さく手を振ってくる。
とくんと心臓が跳ねる。
恥ずかしくて、思わず視線を逸らしてしまった。
なっ……なにあれ!
いつもは公の場であんな笑顔見せないのに……!
営業スマイルにも程があるわ!
「それでは皆さま、本日は琴吹製薬新商品発表レセプションへお越しいただき、誠にありがとうございます」
聞き覚えのある声が、会場に広がった。
司会進行役をしているのは、三園さんだ。
壇上でマイクを握る彼女は、いつも以上に華やかだった。
淡いピンクのドレスを着て、営業スマイルを完璧に浮かべている。
「本日発表するサプリメントは、美容と健康維持をテーマとした新シリーズの第一弾です」
スクリーンに商品画像が映し出される。
その横には、白衣姿の詠海さんが立っていた。
研究室に引きこもっているイメージだったのに、こういう場でもサマになっている。
……というか、普通に参加してたんだ。
「なお、今回はこちらの方にもモニター協力をしていただきました」
詠海さんが、マイクを通して言うと、こちらを向いた。
えっ? モニターって?
きょとんとしていると、いきなりスポットライトが私に当てられた。
ええっ!?
「琴吹稀さん、どうぞ壇上へ」
「えっ!?」



