あの日から、会社でもなんとなく避けられている気がし始めた。
私は痺れを切らして、敬一さんをデートへ誘った。
休日のショッピングモール。
夜景の見えるレストラン。
映画館。
どれも敬一さんは断らなかった。
荷物も持ってくれるし、車道側も歩いてくれる。
優しい。ちゃんと恋人みたいだ。
でも──触れてくれない。
帰り道も、少し距離を感じて。
駅前の人混みの中、勇気を出して手伸ばす。
一瞬だけ触れそうになって、敬一さんの指先が止まった。
そして、そのまま引っ込められる。
胸が、ちくりと痛んだ。
「おかしい……」
不安が大きくなっていく。
そんなある日。
私は研究室に資料を届けにきたついでに、詠海さんへ打ち明けてしまった。
「なんで手を出してこないの……!?」
「でも稀ちゃんって、無理やり番の契約させられたんでしょ?」
詠海さんが、椅子に座ったまま、くるくるとペンを回しながら言った。
番って……。思わず苦笑してしまう。
そうか、たしか敬一さんもそう言ってたもんね。本来は番にするための契約の印だって。
あの時は、たしかに一方的だったけれど──
「それ、僕なら〝解除〟してあげられるよ?」
「……え?」
ぱちり、と瞬きをする。
詠海さんは、軽い調子のまま続けた。
「だってさぁ、無理やりだなんてひどいよね。稀ちゃんの承諾もなかったんでしょ?」
「それは、そうだけど……」
そういえば、初めて会ったあの日、気づいたら契約させられていた。
……ということは、私が気を失っている間にしてしまったのか。
以前は『横暴!』なんて思っていたけど、今は全然嫌じゃない。
恋するって、不思議だ。
「それに、今、岩鬼くん悩んでてさぁ」
やれやれ、という風に肩をすくめる。
「専務が?」
「自分の気持ちは、あくまで契約の印の力のせいであって、偽物なんじゃないかって」
「そんな……」
胸が、きゅっと苦しくなる。
「契約の印を解除したら、その気持ちが本物かどうかわかるじゃない? だからさ」
詠海さんが立ち上がって、一歩近づいてきた。
顔が近くて、思わずたじろぐ。
「一度、ためしてみたらいいんじゃないかな?」
にこっ、と笑う詠海さん。
でも私は、すぐには答えられなかった。
専務の気持ちが本物か偽物か。
私の気持ちも、契約の印のせいかもしれないって、思ったことがある。
でも、私はそれでもいいと思っていた。
彼を繋ぎ止められるなら、それでもいいって。
それに、たしか……。
契約の印がある限り、他の吸血鬼は私の血を吸えないって、それは聞こえてた。
つまり私は、敬一さんに守られているということで。
そっと首元へ触れる。
「それは、やめときます」
「えーっ、なんで!? 岩鬼くん、悩んでるんだよ!?」
「いいんです。悩ませておけば」
「えぇ?」
詠海さんが、本気で不思議そうな顔をする。
私は少しだけ笑った。
「私は、契約の印があってもなくても、どっちでもいいんです。でも──」
指先で、印のある場所をなぞる。
「この印のおかげで、彼を繋ぎ止めておけるんだったら、解除はしたくないんです」
敬一さんの顔を思い浮かべて、ふっと頬が緩む。
その一瞬。
詠海さんの笑みが止まった気がした。
「……僕が先につけておけば……」
「え?」
うつむいて小声で何か言われたけれど、よく聞き取れなかった。
けれど、詠海さんはパッと顔を上げて、わざとらしく頬を膨らませる。
「あーあ、ずるいなぁ、岩鬼くん。稀ちゃんを独り占めなんて」
「す、すみません……?」
いや、謝る必要あるのかな、これ。
と、その時。
「いたっ」
資料を机の上に置こうとしたら、急に痛みが走った。
紙で指を切ってしまったようだ。
小さく血がにじむ。
「稀ちゃん、不器用さんだね」
詠海さんが苦笑しながら、私の手を取った。
「これくらい平気で──」
言い終わる前に、ぞくり、とするほど空気が変わった。
詠海さんの瞳が、紅く染まる。吸血鬼の目だ。
「……っ」
嫌な予感がして手を引っ込めようとしたけれど、強く掴まれて動けない。
──まずい。
「詠海さ……」
ペロリ、と指先を舐められる。
「ひゃ……っ」
熱い舌が、傷口をなぞる。
そのまま、人差し指をちゅう、と吸われた。
「んんっ……!」
びくり、と肩が跳ねる。
な、なんで……? 敬一さん以外の吸血鬼は吸えないんじゃ……!?
混乱している間にも、詠海さんは私の指を吸い続ける。
「や……だ……」
抵抗できない自分がもどかしい。
いつの間にか、涙がひとすじ流れていた。
その時。
ガシッ。
詠海さんの腕を、誰かが強く掴んだ。
「いだだだだだ!」
敬一さんが、詠海さんの手首を掴んだまま、冷たい目で睨みつけている。
「敬一、さん……」
いつの間に来たのか。
詠海さんも我に返ったように、私から離れる。
「化野、貴様……」
メガネの奥の瞳が紅い。
けれど、これはいつもの吸血鬼モードじゃなくて……怒りで紅くなっているようだ。
敬一さんは、詠海さんを睨みながら拳をバキボキ鳴らす。
「ひえぇ、ごめんって!」
*
研究室から逃げるように出てきた私は、そのまま、半ば強引に給湯室へ連れていかれた。
流水に指先をさらされる。
「いたた……」
地味に染みる。
しかも敬一さん、ちょっと乱暴だ。
「まったく、油断も隙もあったもんじゃない」
眉間にシワを寄せたまま、私の手を掴んでいる。
ハンドソープを泡立てて、これでもかというくらい洗ってくれる。
「痛いです」
「我慢しろ」
くすん、乱暴……。
「おまえも。不用意に他の吸血鬼に近づくんじゃない」
「契約の印があるから、大丈夫かと……」
すると、敬一さんは深いため息をついた。
「牙を向けることができないというだけで、勝手に血が出た場合は別だ……」
「そうだったんですね……」
知らなかった。
じゃあ、さっきのは本当に危なかったんだ。
少量だったとはいえ、あのまま敬一さんが来てくれなかったら……。
考えただけでゾッとする。
敬一さんは、私の手を睨むように見て、ずっと洗ってくれてる。
もう手がふやけそうだ。
「資料を置いてくるだけに、時間をかけすぎだ」
洗いながら、話しかけてきた。
「だって、専務が……敬一さんが、最近触れてくれないから」
言葉にした途端、胸がきゅっと苦しくなる。
「嫌われたのかなって、不安になって」
ぽつり、と零す。
「事情を知ってる詠海さんに、相談してたんです」
敬一さんは、ようやく手を離して水道の蛇口を閉めた。
ペーパータオルで、優しく優しく、壊れものみたいに手を拭いてくれる。
沈黙がいたい。なにか言ってほしい……。
さらに備え付けの消毒液を手に取った時、
「違う」
ようやく、口を開いてくれた。
「逆だ」
顔を上げると、敬一さんは苦しそうに眉を寄せていた。
「おまえが大切だから……負担をかけさせたくなくて」
掴まれていた手に、少しだけ力がこもる。
「それに、この気持ちは本物なのか……。俺自身もわからない」
敬一さんはうつむいたまま。
手に消毒液を擦り込むと、胸の前でそっと私の両手を包んでくれた。
彼の気持ちが伝わってきて、言葉が詰まる。
「敬一さん。大丈夫です」
そう言うと、うつむいていた敬一さんが、ゆっくり顔を上げた。
苦しそうで。迷っているみたいで。
見ているこっちまで、胸が締めつけられる。
「私も同じです」
彼が安心できるように、できるだけ笑顔で伝える。
「初めて敬一さんに抱かれた時──」
思い出して、自分でも少し頬が熱くなった。
でも、ここで誤魔化したくなかった。
「私が敬一さんに惹かれているのは、契約の印のせいじゃないかって、思っていました」
敬一さんの指先が、ぴくりと揺れる。
「でも、私はどっちでも、敬一さんが好きです」
「……っ」
敬一さんは、何かを堪えるみたいに目を伏せる。
本当は、少し怖い。
もし契約がなかったら。
もし私が稀血じゃなかったら。
敬一さんは、私を選ばなかったんじゃないかって。
考えたことがないわけじゃない。
でも──それを確かめてしまう方が、もっと怖かった。
だから私は、そっと自分の首元へ触れる。
ここにある印ごと。
この人を、好きになったのだから。



