『そうだよ、きっと勘違いだよ。大丈夫、誰にでもあることだからさ』
『早く稀ちゃんを解放してあげなよ』
化野の声が頭の中でリフレインする。
仕事で机に向かっているというのに、まったく落ち着かない。
岩鬼は、ぐしゃりと前髪を掴んだ。
(違う、俺は……!)
稀を、愛していると思っていた。
今でも思っている。
あれは契約のせいなんかじゃない。
稀を見れば心臓がざわつく。
名前を呼ばれるだけで満たされる。
他の男へ笑いかけるだけで、腹の底が焼けるように苛立つ。
あれが全部、吸血鬼の本能だというのか。
自分を信じきれない。
この気持ちをたしかめるには、契約の印を解くしかない。
しかしそれでは──
稀は、死んでしまう。
一体、どこまで聞いていたのか。
あの時の医務室での稀は「化野が吸血鬼だった」ということしか言わなかった。
本当のことを言った方がいいのか。
稀を死なせずに契約を解く方法は、一つしかない。
『他の吸血鬼に、契約を上書きしてもらう』ことだ。
だが……それだけは絶対にやりたくない。
俺の気持ちが本物で、他の吸血鬼のものになったとしたら……。
耐えられない。
だったら。
たとえ偽物でも。
契約による執着でも。
この感情を失うくらいなら、醜いままでいい。
稀が他の男のものになるくらいなら。
そこまで考えた瞬間、机の上の書類を握り潰しかけ、岩鬼ははっと息を呑んだ。
「……俺は」
いつから、こんな男になった。
だが、化野の言うとおり、稀の身体に負担がかかっているのも事実だ。
そろそろ吸血の期間を……見直す時期なのかもしれない。
***
いつもの専務室。
私は出来上がった会議資料のデータを、敬一さんのパソコンへ送った。
「専務、今日の会議資料できましたので、確認お願いします」
「ああ、わかった」
返事はいつも通りなのに、なんだか元気がないような。
パソコンへ視線を落としたままの横顔を、こっそり盗み見る。
……詠海さんと会ってから、ずっとこんな感じかも。
あんまり仲が良さそうじゃなかったし、何かあったのかな。
「うーん……?」
じっと見ていると、やっぱり少し顔色が悪い気がする。
「専務、ちょっと失礼します」
「ん?」
私はデスクを回り込み、敬一さんのすぐ隣へ立った。
かがんで、すっと前髪を上げる。
こつん。
敬一さんのおでこと、自分のおでこをくっつけた。
「な、なにを!?」
ガタンッ!
椅子ごとのけぞる敬一さん。
「いえ、元気なさそうだったので。熱でもあるのかと……」
敬一さんが、珍しく動揺している。
顔も真っ赤になって、なんだか可愛い。
「吸血鬼は元々体温が高いんだ……」
ごまかすように、わざとらしく咳払いする。
「そうなんですね。あ、だから」
今度は、敬一さんの手をそっと取った。
「いつも専務の手、あったかいんですね」
「……っ!」
敬一さんの肩がびくっと揺れ、慌てたように手を振り払われた。
「き、勤務中だ。ここでは慎むように」
「は、はい……すみません……」
怒られた……。
しゅんとしていると、敬一さんが小さくため息をつく。
それから、ぽんぽん、と私の頭を撫でた。
「……ちょっと出てくる」
そう言ってノートパソコンを持ち上げると、そのまま逃げるように専務室を出ていってしまう。
閉まったドアを見つめながら、私は首を傾げた。
……やりすぎちゃったかなぁ。
でも、やっぱり今日の敬一さんは、いつもと違う気がした。
*
今日は、三週間に一度の〝血液検査〟の日だ。
敬一さんの家で、いつものように夕食を楽しむ。
キッチンに並んで料理をして、向かい合って食べて、後片付けをする。
それはもう、恋人というより、新婚夫婦みたいな時間だった。
以前の私なら、こんな穏やかな時間が幸せだなんて、きっと知らなかった。
「それ、取ってください」
「ああ」
敬一さんからお皿を受け取る。
長い指。大きな手。
いつもなら、その手に触れられるだけで胸が熱くなるのに。
今日は、なんだか遠い気がする。
後片付けもそこそこに、私たちは並んでソファへ座った。
映画を流しながら、のんびりとした時間を過ごす。
でも……いつもなら、映画の途中で求めてくるのに。
隣にいるのに、触れてこない。
時々こちらを向いて、でもすぐ目を逸らされる。
今日は、もうエンドロールが流れてしまっていた。
「……稀」
「はい」
「すまない。今日は、帰ってくれないか」
「え……?」
敬一さんは、申し訳なさそうにうつむく。
「だって、三週間に一度の……」
いつもと違う態度に、戸惑ってしまう。
「そのために食事改善してるのに」
しゅんとしていると、敬一さんは眉を寄せて柔らかく微笑みながら、私をまっすぐに見た。
「稀」
名前を呼ばれるだけでドキドキするのに。
その先の言葉は、私の望んでいないものだった。
「食事改善は、もう吸血のためじゃない。おまえの健康のためだ」
「でも」
「……すまない。ちょっと体調がすぐれなくてな」
また、さっと視線を落とした。
会社で元気がなさそうに見えたのは、本当に体調が悪かったのかもしれない。
けれど──。
「それなら、尚更……」
首筋を差し出そうと、ぐいっと、襟元を開く。
しかし、敬一さんはその手を素早く掴む。
乱れた襟を、丁寧に戻された。
視線を合わせてくれない。メガネも、かけたままだ。
「……帰りなさい」
本当に、体調が悪いだけ……?
拒絶されたわけじゃないって、信じていいの?
けれど、ここまで言われたらその通りにするしかなかった。
「はい……」
胸の痛みを抱えながら、マンションの廊下をとぼとぼ歩く。
同じマンションなのに。たった数メートルが、遠い。
エレベーターの鏡に映る自分の顔は、とてもしょんぼりしていた。



