稀が倒れてしまい、岩鬼は彼女を医務室へ運んだ。
なぜか化野もついてくる。
細い身体。……軽い。
……また、無理をさせてしまった、と岩鬼は心の中で舌打ちする。
今、彼女はカーテンの向こうのベッドで眠っている。
仕事に戻らなければ。しかし、化野が動こうとしない。
それどころか、白衣のポケットに手をつっこんだまま呆れた視線を向けてくる。
(ちょうどいい機会か……)
稀のことを話しておこうと、岩鬼は化野に向き合った。
先に口を開いたのは、化野だ。
「いったい、なにをやってるんですか、あなたは」
言いたいことは痛いほどわかっていた。
「よりにもよって、稀血の持ち主に契約の印を結ぶなんて。これじゃあ、他の吸血鬼が稀血を吸えないじゃないですか」
化野は呆れたふうに頭をかく。
契約の印──本来は〝番〟へ刻むもの。
一度結べば、他の吸血鬼は容易に手を出せなくなる。
「仕方ないだろう。そうしなければ彼女は死んでいた」
「どうせ空腹だったからって、多めに吸ったんでしょう? 稀血に関しては抜け駆け禁止なのに」
化野は大きくため息をついて、やれやれと肩をすくめた。
「あーあ、せっかく僕が血をきれいにしてからいただこうと思っていたのに」
岩鬼も、食事改善で同じことを考えていた。
何も言い返せない。
「普段、どうしてるんですか」
「普段……とは?」
「稀ちゃん以外の女性の血は受け付けないでしょう? 彼女に負担がかかりすぎる」
化野の目が鋭く光った。明らかな敵意を向けられている。
「いや、それは、その気になれば……」
もし稀の体調に悪影響ならば、他の女の血をいただくことはやぶさかではない。
しかし、三園の時を思い出す。
「まさか、知らなかったんですか? 契約の印を結ぶと、その人以外の異性の血は飲めなくなるんですよ」
「なに……?」
岩鬼は眉をひそめた。
「そんな馬鹿な……」
だがあの時、たしかに三園の血を受け付けなかった。
それどころか吐き気にも似た感情が押し寄せた。
稀以外の血を受け付けない。
それは稀を、愛しているからだと思っていた。
しかし、それが契約の印のせいとなると。
岩鬼の気持ちの問題ではなく、吸血鬼本来の、本能の話となってくる。
「……俺は……今まで勘違いを……?」
ふらり、と足がもつれた。思わず壁に手をつく。
化野が、密かに微笑んだような気がした。
「そうだよ、きっと勘違いだよ。大丈夫、誰にでもあることだからさ。だから──」
心配するように、岩鬼の身体を支える。
嫌な汗が背中を流れていく。
視線をチラリと向けると、化野の顔が近い。
耳元で、囁かれた。
「早く稀ちゃんを解放してあげなよ」
その時、
「きゃっ!?」
悲鳴と共に、どさっ!と何かが落ちる音が聞こえた。
***
(よく聞こえないな……)
カーテンの向こうの声を聞こうと、そっと身を乗り出した、その時。
──ずるっ。
「きゃっ!?」
がたんっ、と鈍い音を立てて、私はベッドから転げ落ちた。
「稀!?」
勢いよくカーテンが開かれる。
「だ、大丈夫か!?」
敬一さんと詠海さんが、ほとんど同時に駆け寄ってきた。
「い、いたた……」
起き上がろうとすると、敬一さんが珍しく焦った顔で私の肩を支える。
ベッドに座り直すと、肩に置かれた手の力が、ぐっと強くなった気がした。
「……どこから聞いていた?」
切羽詰まったような、低い声だった。
「え?」
「……聞いていたのか?」
その視線に、思わず目を瞬かせる。
「よ、よく聞こえなかったですけど……」
敬一さんが、わずかにホッとしたような顔をした。
あまり聞かれたくない話だったのかもしれない。
聞こえたのは、『契約の印』とか『稀血』とか、断片的な言葉ばかりだった。
でも、詠海さんが私を心配してくれていたことだけは、なんとなくわかった。
私は、詠海さんに視線を向ける。
「もしかして、詠海さんも吸血鬼なんですか……?」
そう言うと、敬一さんも詠海さんも、目を丸くした。
「そこ?」
詠海さんが吹き出した。
「そうだよ。僕は吸血鬼だ」
前髪の向こうから覗いた詠海さんの目が、一瞬だけ紅くなった。
「サプリメントを渡していたのも、稀ちゃんの血を綺麗にするためだよ」
「そう、だったんですか……」
まさか、うちの会社に吸血鬼が二人もいるなんて。
「あれ? あんまりショックじゃない?」
「ショック?」
「僕は吸血鬼で、善意でサプリメントを渡していたわけじゃないんだよ?」
驚いてはいるけれど、怖くはなかった。
「ああ、それは、たぶん……」
ちらりと、敬一さんを見る。
「け……岩鬼専務が、いるから……」
あれ、私なに言ってるんだろ? 詠海さんに、こんなこと。
なんだか、惚気ているみたいで恥ずかしい。
でも、詠海さんには言わなきゃいけない気がする。
「同じですよね? 食事もサプリメントも」
頬を緩めて言うと、詠海さんは目を見開いた。
「稀ちゃ──」
「稀!」
いきなり敬一さんに手首を掴まれた。
険しい顔でこちらを睨んでいる。
「ちょっと来い!」
ぴゅーっと手首を掴まれたまま連れていかれる。
「ちょ、ちょっと……あっ、詠海さん、サプリありがとうございました!」
「言わなくていい!」
遠くなった詠海さんが、笑っていた。
*
専務室へ戻った途端、壁へ追い込まれた。
「ああ、もう!」
「ひえっ?」
ドンッ、と耳のすぐ横へ手がつかれ、肩が跳ねる。
敬一さんは、苛立ったように頭を振る。
「自覚がなさすぎる」
「じ、自覚……?」
「むやみに他の男に……特に化野に勘違いさせるような顔をするな」
ええっ? そんなつもりじゃ……
「いいか、化野は俺と同じ吸血鬼だ」
「そ、それが……?」
「吸血鬼は皆、稀血を欲しがる。つまり稀、おまえごとだ」
「で、でも、サプリメントの試飲はうちの製品のためでもあるし……」
「その善意に! つけこまれているということを忘れるな!」
おでこに、ズビシッと人差し指を突き刺された。
「いたっ!」
「まったく……。会社じゃなければ……」
なんだか、ぶつぶつと言い始めた。
涙目でおでこをさすっていると、敬一さんは、にやりと口元を歪めた。
「次はたっぷりと可愛がってやるから、覚悟しておけ」
ひえぇ……! 眼鏡の上からでも瞳の色がわかってしまう……!
「じゃ、じゃあ、サプリメントを飲んで、少しでも血を綺麗にしておきますね……」
ブチッ。
敬一さんの額に青筋が浮かぶ。
「おまえは、ちっともわかってない!」
ぴえん、と肩を震わせる私。
その日、琴吹製薬に原因不明の雷が落ちた。



