あの人事会議から数ヶ月、私に対する周囲の空気は、少しずつ変わってきていた。
書類を抱えながら廊下を歩いていると、給湯室の近くで男性社員たちの話し声が聞こえてくる。
──琴吹さん、なんか最近いいよな。
──ああ。前はもっとオドオドしてたのに。
思わず足が止まりかける。
褒めてもらえるのは嬉しいけれど、なんだか居心地が悪い。
……変われているのかな。
そして、変わったと言えば。
「稀」
人事部に戻ると、ブランデーのように甘く芳醇な声が、背後から私の名前を呼ぶ。
岩鬼専務は、社内でも時々私のことを名前で呼ぶようになった。
「きゃーっ! 琴吹さん、いいなあ!」
「私も名前で呼ばれたい!」
近くにいた女性社員たちが、黄色い声を上げる。
最近は、名前を呼ばれるたびにこんな感じだ。
「琴吹さんも、名前で呼んだら!?」
「そうそう! 〝敬一さん〟って!」
「……へっ!?」
か、会社で……!?
「そ、それは、その……」
チラリと、専務の方を見る。
「ねー、専務も聞きたいですよね」
「ああ、聞いてみたいな」
コーヒーを片手に、涼しい顔をしている。
こっちは赤面するくらい恥ずかしいのに!
「え、えと……」
目を泳がせながら、しどろもどろになってしまう。
「け、けぃ…………」
わくわくしながら待っている女性社員二人。
専務の視線がこちらへ向く。
その目がわずかに細められただけで、心臓が跳ねた。
「や、やっぱり無理です!!」
私は逃げるように専務室に入って行った。
扉を背にして、力が抜けていく。
専務の抑えた含み笑いが、聞こえるような気がする。
心臓に悪い……。
でも、せめて心の中だけでは、呼んでみようかな。
「けいいち、さん……」
目を閉じて、つぶやく。
私だけの、呼び方。
それだけで、心臓がうるさくなった。
*
そんなある日のこと。
社内の廊下を歩いていると……。
「あっ、琴吹せんぱぁ〜い」
この猫撫で声は……。
振り返ると、やっぱり三園さんだった。
営業部に配属されたと聞いているけれど、ご自慢のネイルは相変わらずだ。
ただ、なんだか落ち着きがない。
「助けてくださぁい」
そう言って、三園さんは私の背中へ隠れるように身を寄せてきた。
「えっ?」
何事かと思って前を見る。
すると、営業の加納専務がこちらへ歩いてくるところだった。
大きな体を揺らしながら近づいてきて、額の汗をハンカチで拭っている。
「ふぅ、ふぅ、これはこれは、稀お嬢さん」
「加納専務、社内ですよ」
「おっと、失礼。琴吹くん」
加納専務とは、父と一緒に何度かお会いしたことがある。
つい昔の癖で、私のことを「お嬢さん」と呼んでしまう。
「どうしたんですか?」
二人の顔を交互に見る。
「いやぁ、取引先へ彼女を連れて行こうと思ったら、急に嫌がってね」
「先輩、私、総務部に戻りたいです〜!」
三園さんは半泣きみたいな声を出しながら、ぎゅっと私の袖を掴んだ。
「三園さん……?」
「だ、だってぇ……営業回りってなんだか怖そうでぇ……」
三園さんらしくないな?
彼女はもっと、要領が良くて、愛嬌でどこへでも入り込んでいくタイプだと思っていた。
取引先相手に怖気づくようには見えない。
すると加納専務が、手帳を確認しながら口を開いた。
「東奥薬品へ挨拶回りに行こうと思っていたんだがね」
すると、三園さんの肩が、びくりと揺れた気がした。
……気のせいかな?
──東奥薬品には、苦い記憶がある。
大学生の時、父の付き添いで琴吹製薬の新年会に顔を出したことがあった。
その時に……東奥薬品の社長のご子息との婚約の話が持ち上がったのだ。
父の強引さもあり私は断りきれず、そのご子息と何度かお会いしたのだけれど……。
結局、彼も私の社長令嬢という肩書きにしか興味のない人だとわかり、その後丁重にお断りした。父にはずいぶん怒られたけれど、最終的には私の意思を尊重してもらった。
……まあ、そのおかげで琴吹製薬に就職する羽目になってしまったのだけれど。
でも今は、ここにいるおかげで敬一さんに出会えたことを感謝している。
そんな過去のことはさておき。
三園さんは懲戒免職ではなく部署異動だけで済んだのだ。新天地で心を入れ替えてもらわないと。
「三園さん」
「は、はいっ、なんですか先輩?」
すがるような、期待に満ちた目を向けられたけれど……。
「憧れの専務秘書になれて良かったわね。営業部でも頑張ってね」
にっこりと笑いながら言うと、三園さんの顔が引きつった。
「そ、そんなぁ〜」
「加納専務。彼女はこんなですが……仕事はできる子です。よろしくお願いします」
「あ、ああ……。いろいろと聞いてるがね。君も大変だったね」
「いえ……」
曖昧に笑って返す。
どうやら、人事会議での騒動は、思っている以上に社内へ広まっているらしい。
三園さんはしゅんと肩を落としたけれど、加納専務に引きずられるようにして廊下の向こうへと消えていった。
*
昨日の夜、岩鬼専務──敬一さんに少しだけ血を吸われたせいだろうか。
そのせいか、朝から身体が重い。
それでも、以前みたいに倒れるほどじゃない。
ちゃんと食事も睡眠も取っているし、敬一さんにも「無理はするな」と口酸っぱく言われている。
……まぁ、その原因を作っているのも彼なんだけど。
書類を抱えたまま廊下を歩いていると、
「まーれーちゃん」
間延びした声が後ろから飛んできた。
社内で私をそう呼ぶのは一人だけだ。
私は、ぱっと振り返る。
「詠海さん!」
白衣姿の長身の男性が、ひらひらと片手を振っていた。
柔らかいくせっ毛に、人懐っこい笑み。
白衣姿なのに、研究者というより軽薄そうなお兄さんにしか見えない。
化野詠海さん。
開発部所属の研究員で、現在はサプリメント開発チームの中心人物でもある。
社内では珍しく気さくな人で、入社当初から何かと私を気にかけてくれていた。
詠海さんが白衣のポケットを探り、小さなパックを取り出す。
「はい、これ」
「わ、また試作品ですか?」
「そう。稀ちゃん、貧血気味って言ってたから、鉄分とか入ってるやつね」
詠海さんは、こうしてよく開発中のサプリメントを持ってきてくれる。
「ありがとうございます」
「稀ちゃん、最近ふらついてるでしょ?」
図星を刺されて、思わず視線を逸らした。
「……そんなにわかります?」
「わかるよ〜。ふらふら歩いてるもん」
くすくす笑われてしまう。
まさか、吸血鬼に血を吸われていますなんて、言えるわけがない……!
そう思ってると。
──カツカツ
早足でこちらへ向かってくる革靴の音が聞こえた。
その音だけで、誰かわかってしまう。
振り返るよりも早く、低い声が耳に届いた。
「彼女に怪しいものを飲ませないでくれ」
敬一さんは、サッと私の手からサプリメントを取り上げる。
「……専務!」
驚いて顔を上げると、敬一さんは不機嫌そうに眉をひそめている。
詠海さんが、面白くなさそうに目を細めた。
「専務……?」
「彼女は今、食事療法中だ。こんなものは必要ない」
と、詠海さんにサプリメントを突き返してしまう。
空気が、ぴりっと張ったような気がする。
なんだか、険悪な雰囲気になりそうで、私は慌てて口を挟む。
「詠海さん、こちら人事の岩鬼専務で……」
「彼女の婚約者だ」
「は!? 婚約者!?」
社内でだいぶ公になったとはいえ、詠海さんの耳にはまだ届いていなかったようだ。
口と目を大きく開けている。
「上司だろうが婚約者だろうが、邪魔しないでください。サプリくらい、別にいいでしょう?」
詠海さんが一歩踏み出す。
敬一さんも引かない。
背の高い男二人が真正面から睨み合う姿は、迫力がありすぎて怖い。
しかも二人とも顔がいいから、余計に目立つ。
近くを通った女子社員たちが、
──なにあれ……。
──え、修羅場?
と、ひそひそ囁きながらこちらを見ている。
「専務に向かって、なんだその態度は?」
「僕は、あなたのことを上司だとは認めてないので。後からポッと出てきて社長のコネで入社した人間は信用していません」
「なんだと?」
ひえぇ……!
空気が完全にバチバチしている。
まさか、こんな険悪な雰囲気になるなんて。
「二人とも、落ち着いて……」
間に入ろうと、一歩踏み出した瞬間だった。
ぐらり、と視界が揺れる。
──あ、まずい。
「稀!」
「稀ちゃん!」
二人の声が重なると同時に、私は意識を失った。
*
「ん……?」
なんだか、周りが騒がしい。誰かが言い争っているような。
目を覚ますと、医務室にいた。
カーテン越しに、男性二人の声が聞こえる。
敬一さんと詠海さんの声だ。
「いったい、なにをやってるんですか、あなたは」
カーテンを少しだけ開けてそっと覗くと、敬一さんと詠海さんが向かい合っていた。
敬一さんは向こうを向いていて、表情が見えない。
「──よって、稀血──に契約の印を──。これじゃあ、他の吸血鬼が稀血を吸えないじゃ──」
えっ……?
他の吸血鬼……?
どうして詠海さんが、稀血のことを知ってるの……?
それに、契約の印のことまで……。
「仕方ない──、そうしなければ、彼女は──」
うん? よく聞こえないな……。
息を潜め、耳をすまして詠海さんの言葉を待つ。
「──空腹──から──、多めに──でしょう? 稀血──抜け駆け禁止──」
詠海さんは大きくため息をついて、やれやれと肩をすくめている。
「あーあ、せっかく僕が血をきれいにしてからいただこうと思っていたのに」
な、なにを言っているの、二人とも……?
まさか、詠海さんも吸血鬼ってこと!?



