そして、約束の日がやってきた。
今日は冷凍しておいた例のビーフシチューを再び食べて、血を吸われる日。
でも──
『最高の夜にしてやる』
あの言葉は、きっと〝そういう〟意味よね……?
心臓がはち切れそうなくらい、ドキドキしてる。
こちらは平常心でいられないというのに、仕事が終わると、岩鬼専務はテキパキとデスク周りを片付け始めた。
「今日は俺の家で食べよう」
「えっ?」
「俺の家の方が広いからな」
言われて、ポッと頬が赤くなる。
「そ、そりゃあ、専務の家のベッドの方が広いですが……」
「ん? なんだ、ベッドの上がお望みだったか?」
「いえっ、あのっ! 今のは違……っ!」
しまった〜〜。専務は普通に部屋の広さのことを言っていたのよね。
なのに勘違いして私のばか〜〜っ!!
さらに熱くなった頬を両手で押さえる。
専務は、隣でくくっと声を殺して笑っている。
もう……からかわないでほしい……。
「いじわるです……」
少しだけ口を尖らせて言うと、彼は片手で目を覆い顔を背けてしまった。大きくため息をついている。
「……わざとか?」
「はい?」
「あまり煽るな……すぐにでも吸い付きたくなる」
言われて、頭から湯気が出た。
そういう専務も、耳まで赤くなっていて、ほんの少しだけ親近感が湧いて嬉しかった。
私の家からビーフシチューを持って、専務の部屋のある最上階へ。
ここへ来るのは、初めて会ったあの日以来だ。
エレベーターが上がっていくにつれ、私の心拍数も上昇していく。
あの時と変わらず、小綺麗な部屋。
ダイニングテーブルで向かい合ってビーフシチューを食べたけれど、緊張で味がほとんどわからなかった。
食べ終えて一息つくと、すぐ隣のリビングのソファに、並んで座る。
膝を揃えてその上に手を置いて、専務の顔なんて見られない。
今の自分は、まるで借りてきた猫みたいだ。
「稀……」
専務の手が、そっと私の肩を抱く。
ぴくりと反応してしまう。
「いいか……?」
紅い瞳に見つめられると、余計に熱を呼ぶ。
「は、い……」
緊張で声も掠れてしまう。
この一週間……ううん、専務と契約してから食事も睡眠も気をつけてきた。
定時で帰るようにして、自炊もして、言われた通りに生活を整えてきた。
その結果を見られる。
――いや、この場合は〝味見〟と言った方が正しいのだろうか。
もう、『マズい』なんて言わせないんだから。
けれど、そんな緊張が伝わってしまったのか、彼は少しだけ距離を取る。
「……嫌なら無理にとは言わん」
不意に、優しいけれど突き放すような声で言われた。
「え……?」
「契約とはいえ……」
専務が視線を落とすと、スッと瞳の色が戻った。
なんで急に……?
今まで、散々こちらが拒否しても血を飲もうとしてきたくせに。
きゅっと浅く唇を噛んで、思わず専務の服の裾をつまんでいた。
彼が、わずかに顔を上げる。
「……契約、ですから」
──うそ。
契約だなんて、口実で……。
本当は、彼に触れてほしい。彼に、私の全てを見てもらいたい。
そんな風に思ってしまう自分がいる。
それに……ここまで頑張ったんだから、少しくらい認めてほしい。
「……そうか」
短く返されたその声が、いつもより少しだけ優しかった。
彼が私の首筋に牙を立てると、チクっとした痛みとともに血を吸われる脱力感が広がる。
けれど、その奥でぞくぞくと身体が震えた。
なんだろう、熱い……。
やがて彼の口がゆっくりと離れる。けれど、かすかな吐息が触れてまた身体が震えた。
「……さすがはA5ランクだな。あの血液がここまでになるとは」
そう言って、首筋の血を一滴も残すまいとでも言うように舌を這わせる。
「あっ……」
「なんだ、そんなかわいい声を出して」
「だ、だって……」
さっきから、身体中がじんじんしておかしい。
触れられるたびに、熱が広がっていくみたいな。
いつもなら貧血状態になるのに。
「血を吸われることに、慣れてきたのかもな」
こんなの、慣れなくていいんだけれど。
「慣れてくると快感を得られる」
「かっ……!?」
言葉にならなくて、息が詰まる。
「稀……」
名前を呼ばれて、くいっと顎を持ち上げられる。
彼の視線から、逃げられない。
「もっと欲しい」
「これ以上は……」
そう言いながらも、力が入らない。
頭がぼーっとして、思わず彼の腕を掴んで顔を上げる。
すると専務は、少しだけ目を見開いて固唾を呑んだ。
「……っ」
「専務……?」
「なんて顔をするんだ」
彼の視線が、私の顎先に落ちる。
「今度はこっちだ」
唇が重なる。
触れるだけだったそれは、すぐに深くなっていく。
息ができないほどお互いを求め、気づけば腕を回して抱きしめ合っていた。
移動する時間も惜しいとでも言うように、ソファに横たわる。
肌に直接触れられるたびに熱くなって、彼が欲しいと身体が素直に応える。
優しく触れられるたび、胸がいっぱいになる。
どうしてこんなに幸せなんだろう。
気づけば、涙があふれていた。
頬にひと雫こぼれると、ペロリと舐め取られる。
それだけなのに、ぞくりと背筋が震えた。
「ちょ、専務……」
「もったいない」
「え、えぇっ?」
「おまえから出るすべてが俺のものだ。誰にも見せるなよ」
「そんな……」
無茶苦茶だ。
無茶苦茶なのに。
専務にそう言われると、嬉しくなってしまう自分がいる。
こんなの、独占欲の塊じゃないの。
吸血鬼ってみんなこうなんだろうか。
それとも、専務が特別なんだろうか。
近すぎる距離に、心臓がうるさい。
専務は、仕方ないものを見るみたいに私の頭を撫でた。
大きな手が髪を撫でるたび、ぐちゃぐちゃだった気持ちが少しずつ溶けていく。
──ああ、ダメだ。
(……好き)
心の中でそっとつぶやく。
言葉にしてしまうと、彼が遠くなってしまいそうで。
「そんなつもりじゃなかった」って、否定されるのが怖くて。
食糧でもなんでもいいから、彼を繋ぎ止めておきたい。
私はもう、そう思ってしまっている。
「敬一さん」
自然と名前が口からこぼれて、彼に向かって腕を伸ばす。
「私を、もらってください」
「ああ……言われなくても」
敬一さんは淡く微笑んで、もう一度唇にキスを落とした。
「ん……」
肌と肌が重なり、互いのぬくもりを求め合う。
やがて私たちはひとつになり、長い夜をともに過ごした。
第二章へつづく



