──まずい。
自室のソファに腰を下ろしたまま、岩鬼は額に手を当てた。
今夜のことを思い出すだけで、どうにも落ち着かない。
『一週間後に、もう一度……。うちに来て、ください……』
あの時の稀の顔が、脳裏に焼き付いて離れない。
頬を真っ赤に染め、視線を泳がせながら言ったあの言葉。
(……あんな顔で言われて、理性を保てという方が無理だ)
深く息を吐く。
あの場で抑えが利いたのは、もはや奇跡に近い。
血を欲したはずなのに。
あの瞬間、欲しかったのは──
『最高の夜にしてやる』
なぜ、あんな言葉を。
そこまで考えて、岩鬼はぴたりと考えるのを止めた。
ゆっくりと首を横に振る。
(違う。あれはあくまで〝稀血〟だ。俺にとっては食料でしかない)
そう、何度も自分に言い聞かせてきたはずだ。
だからこそ契約を結び、環境を整え、血の質を上げようとしている。
すべては合理的な判断の結果だ。
そのはずだった。
「……はぁ」
再びため息が漏れる。
どうにも、理屈と現実が噛み合わない。
そもそもあの時……。
(なぜ俺は……稀以外の女に、触れたくないなどと思った?)
かすかな違和感を抱きながら、脳裏に数日前の光景が蘇る。
*
あの日。
三園と食事を共にした、あの夜。
彼女が稀に執着する理由がわかり、次の一手を打とうとした。
そのために、わざと誘いに乗った。
三園が指定した場所は、夜景の煌めくホテル最上階のバーだった。
彼女は昼間よりも濃いメイク。なるほど、いつもこうやって男に媚を売っているわけか、と岩鬼は感心にも似た感情を抱く。仕事着とは違う肩を出したワンピースを着て、こちらに気がつくと小さく手を振った。
「本当に来てくれたんですね」
「まあな」
お互い、軽い酒を頼んで乾杯する。
思惑は手に取るようにわかる。おおかた、自分を使って稀に復讐でも企てているのだろう。その誘いに、乗ってやることにした。
──専務、チョロ……そんな心の声が聞こえてくるようで、岩鬼もフッと鼻で笑った。
岩鬼はグラスを傾けながら、隣に座る女──三園の様子を横目で捉えていた。
「専務はこういうところ、よく来られるんですか?」
わざとらしく少しだけ身を寄せてくる。香水の甘い匂いが、鼻腔にまとわりついた。
「いや。そうでもない」
短く答えると、三園はくすりと笑う。
やがて酒は進み、会話は緩み、距離はさらに縮まる。
「専務……」
三園は、こちらの膝の上に手を乗せてきた。
するり、と服の上から太ももを撫でられる。
「少し、休みませんか……?」
熱を帯びた瞳が向けられる。
流れに身を任せるフリをして、岩鬼は頷いた。
部屋に入ると、二人はすぐにセミダブルのベッドの上だった。
岩鬼は三園に跨り見下ろしている。
三園は、潤んだ瞳をこちらへ向けてくる。
「シャワーを浴びてきたらどうだ?」
「そんなこと言って。その間に逃げるつもりですか……?」
くすり、と笑い、首に腕を回される。
だが、それに対して何の感情も湧かなかった。
「なるほど」
岩鬼が考えたのは、これ以上稀に危害を加えないよう三園を〝眷属にしてしまう〟ことだった。肩の開いたワンピース。脱がすまでもない。あと数センチ、近づいて首筋を噛み、その血をいただくだけで完了する。
メガネを外し、いつものように吸血鬼モードで目を光らせる。
白い肌。脈打つ血管。
吸血鬼としての本能が、そこに牙を立てることを促す、はずだった。
かすかな違和感。
しかし決定的な拒絶が、身体の奥からせり上がる。
(……なん、だ?)
眉がわずかに寄る。
三園は気づかない。
むしろ、好機とばかりに甘えた声でさらに踏み込んでくる。
「専務……」
(……おかしい)
近づくほどに、胸の奥がざわつく。
それは飢えではない。欲でもない。
明確な──嫌悪だった。
思わず、手が止まる。
「どうしました?」
三園が不思議そうに見上げる。
岩鬼は、無言のまま確かめるように首筋へと顔を寄せた。
だが次の瞬間、強烈な不快感が喉元まで込み上げた。
「……っ」
口を押さえ反射的に身体を離す。
気分が悪い。吐き気に似た、拒絶反応。
(なぜだ……)
理解できない。
血を欲していないわけではない。むしろ、空腹は確かにある。
それなのに。
――この女では、駄目だ。
そう身体が告げている。
「専務?」
三園の声に、わずかな苛立ちが混じる。
岩鬼は目を閉じ、三園から離れた。
ベッドに腰かけ、目を合わせないまま、ゆっくりと息を吐く。
先ほどの吐き気が、遠ざかっていく。
「……君は、もう帰りなさい」
メガネをかけながら、背を向けて言った。
「え?」
予想外の言葉だったのだろう。
三園の表情が一瞬固まる。
「どういう──」
「帰れ」
低く、唸るように告げる。
今、岩鬼の中には、嫌悪感しか残っていなかった。
三園の目が細くなる。
「……最悪」
小さく舌打ちが落ちた。
だが、それ以上食い下がることはしなかった。
浅く唇を噛みながら淡々と身支度を整え、「失礼します」と部屋を出ていった。
*
岩鬼は、ゆっくりと目を開けた。
思考が現実へ戻ってくる。
数日前のことを思い出し、軽く胸焼けにも似た感覚に陥った。
頭を押さえ、誰にともなく呟く。
「……なぜだ」
三園に触れたときの、あの明確な拒絶。
思考を巡らせる。
理由は一つしかない。
「……稀」
名前を口にした瞬間、胸の奥がわずかに軋む。
稀以外の血を──受け入れたくないと思っている自分がいる。
「ばかな……」
あり得ない、と否定しようとする。
だが答えは、すでに出ているようなものだった。
(この気持ちは……本物だ……)
岩鬼は、自分の内側に生まれた変化を否応なく噛みしめ、シャツの胸元をぐっと握りしめた。



