## 第7話 E判定
八月の最後の日曜日。
琥珀は
市民ホールの舞台袖にいた。
高校最後の大会だった。
幕の向こうから
前の学校の音楽が漏れてくる。
照明の熱。
仲間たちの浅い呼吸。
琥珀は目を閉じて
ポケットの中の生徒手帳を
そっと握った。
一番最初のページに
薄い青の付箋が貼ってある。
「英単語、毎日五十個」
五月から
一日も休まなかった。
練習のあと。
電車の中。
寝る前のベッドの上。
五十個。
五十個。
五十個。
客席のどこかに
瑠璃がいるはずだった。
可絵と二人で
一番後ろの席に。
名前を呼ばれた。
琥珀は目を開けて
光の中へ歩いていった。
結果は三位だった。
目標にしていた優勝には
届かなかった。
ホールの裏口で
部長だった同級生が泣いていた。
後輩たちも泣いていた。
琥珀は
泣かなかった。
一人一人の肩を叩いて
笑って
ありがとうと言った。
それから
誰もいない非常口の階段に座って
少しだけ
うつむいた。
スマートフォンが震えた。
「三位、おめでとう。
最後の曲、きれいだった。
瑠璃」
琥珀は
画面を見たまま
長いあいだ動かなかった。
それから
ようやく
少しだけ泣いた。
指を動かす。
「今日、告白されなかった。三位だった。引退した。報告おわり」
もう一通。
「明日から、勉強三時間にする」
すぐに返事が来た。
「ダンスの三時間、全部?」
「全部」
「……無理しないで」
「無理する。瑠璃と同じ大学、行くから」
九月から
美術室が
勉強部屋になった。
放課後の四時。
琥珀は丸椅子を引き寄せて
作業台の端に
参考書を広げる。
瑠璃は
イーゼルの前で
木炭を握っている。
実技試験のデッサン。
石膏像。
果物。
布の皺。
二人とも
ほとんど話さなかった。
木炭が紙を擦る音と
琥珀のシャーペンの音だけが
美術室を満たしていた。
五時になると
瑠璃が木炭を置く。
琥珀の前に座る。
「小テスト」
薄い青の付箋が
十枚。
一枚に五個ずつ。
英単語が書いてある。
琥珀が
裏に意味を書いていく。
瑠璃が
赤ペンで丸をつける。
九月の最初の日。
五十個中
二十一個。
九月の終わり。
三十四個。
十月の模試。
英語の偏差値。
四十二から
四十九。
判定は
D。
琥珀は
成績表を持って
美術室に駆けこんだ。
「D!」
「……うん」
「Dだよ瑠璃!」
「うん。見えてる」
「Eじゃない!」
瑠璃は
木炭を置いて
振り返った。
口元が
少しだけ緩んでいた。
「おめでとう」
琥珀は
成績表を胸に抱えたまま
その場でくるりと一回転した。
ターン。
着地。
「……美術室で踊らないで」
「ごめん。嬉しくて」
瑠璃が
声を出して笑った。
十一月の終わり。
木枯らしが
窓を鳴らしていた。
その日
瑠璃は
五時を過ぎても
木炭を置かなかった。
琥珀は
参考書から顔を上げた。
瑠璃の背中。
いつもより
少しだけ丸まっていた。
右手が
止まっていた。
木炭を握ったまま
小刻みに震えていた。
「瑠璃?」
返事がなかった。
琥珀は立ち上がった。
回りこんで
瑠璃の顔を覗きこむ。
唇を
きつく噛んでいた。
額に
薄く汗が滲んでいた。
「……手」
「大丈夫」
「大丈夫じゃない」
琥珀は
瑠璃の右手首に
そっと触れた。
瑠璃が
小さく息を呑んだ。
熱かった。
腫れていた。
「いつから」
「……先週から、ちょっと」
「なんで言わなかったの」
瑠璃は
答えなかった。
琥珀は
瑠璃の手から
木炭をそっと抜き取った。
指が
うまく開かなかった。
保健室の先生は
腱鞘炎だと言った。
使いすぎ。
しばらく安静に。
描くのは二週間禁止。
瑠璃は
ベッドの端に座って
包帯を巻かれた自分の右手を
じっと見ていた。
実技試験まで
あと三か月。
一番描かなければいけない時期だった。
保健室を出て
誰もいない廊下を歩く。
窓の外は
もう暗かった。
瑠璃が
ぽつりと言った。
「……描けなかったら、どうしよう」
小さな声だった。
琥珀は立ち止まった。
瑠璃も止まる。
「間に合わなかったら。落ちたら」
声が震えた。
「琥珀だけ受かって。私だけ」
瑠璃は
言葉を切った。
包帯の手を
胸の前で握ろうとして
痛みに顔をしかめた。
琥珀は
その手を
両手でそっと包んだ。
包帯の上から。
痛くないように。
「描けない日は」
琥珀が言った。
「見る日にしよう」
瑠璃が顔を上げた。
「瑠璃、去年の四月。俺のこと気づかないくらい、絵のこと見てたでしょ」
「……」
「描いてなくても、見てたらいいんだと思う。瑠璃なら」
琥珀は
少しだけ笑った。
「それに」
包帯の手を
もう少しだけ強く包む。
「瑠璃が俺に教えてくれた分。今度は、俺の番」
次の日から
琥珀は
少しだけ早く美術室に来た。
瑠璃のイーゼルに
石膏像の角度を変えて置く。
窓のブラインドを
光の向きに合わせて調節する。
「今日は、この角度。見るだけ」
瑠璃は
描かなかった。
ただ
石膏像を見ていた。
光が
どこに当たって。
影が
どこに落ちて。
どこで色が変わるのか。
一時間。
じっと。
その横で
琥珀は
英単語を声に出して覚えた。
小さな声で。
瑠璃の邪魔にならないように。
五時になると
琥珀が付箋の束を差し出す。
「小テスト」
「……左手で丸つけるの、下手だよ」
「いい。瑠璃の丸なら、なんでも」
瑠璃の左手の丸は
ぐにゃぐにゃだった。
琥珀は
それを見て
嬉しそうに笑った。
帰り道。
校門を出るまで
琥珀は
瑠璃の鞄を持たなかった。
誰が見ているかわからなかった。
黙っていてと
約束していた。
校門を出て
角を曲がって
誰もいなくなってから
ようやく
瑠璃の鞄を肩にかけた。
「……こういうとき、ばれてもいいのにって思う」
琥珀がぼそりと言った。
「え」
「怪我した彼女の鞄も、学校で持てない」
口をへの字に曲げる。
「自慢したいのに」
瑠璃は
包帯の手で
琥珀の袖を
そっと引いた。
「……ありがとう」
琥珀の耳が
赤くなった。
二週間後。
包帯が取れた。
瑠璃が
久しぶりに木炭を握った。
石膏像を
描いた。
線が
前より少しだけ
迷わなかった。
光と影の境目が
前より少しだけ
正確だった。
琥珀が
後ろから覗きこんで
小さく言った。
「……きれい」
瑠璃は
振り返らなかった。
でも
木炭を持つ手が
少しだけ
震えていた。
今度は
痛みのせいではなかった。
一月。
共通テスト。
二月。
明桜大学の一般入試。
瑠璃には
実技試験もあった。
試験の前の夜
スマートフォンが震えた。
「今日、告白されなかった。明日、がんばろう。報告おわり」
瑠璃は
画面を見つめて
小さく笑った。
「うん。がんばろう」
送信してから
もう一行。
「琥珀の英語、E判定からここまで来たの、私ずっと見てたよ」
既読がつく。
しばらく返事がなかった。
それから
一通。
「泣いた。報告」
瑠璃は
吹き出した。
二月の終わり。
合格発表の日。
三年生は
もう自由登校になっていた。
それでも瑠璃は
学校に来ていた。
北校舎の三階。
美術室。
窓際の
いつもの席。
九時五十分。
扉が開いた。
琥珀だった。
制服の上に
いつものダウン。
顔が
少しだけ青かった。
「……来てたんだ」
「来るでしょ」
「家で見ればよかったのに」
「琥珀こそ」
琥珀は
いつもの丸椅子を引き寄せて
瑠璃の隣に座った。
膝と膝が
くっつく距離。
二人とも
スマートフォンを握りしめていた。
九時五十五分。
窓の外で
冬の光が
作業台の上に落ちていた。
九時五十八分。
琥珀の膝が
小刻みに揺れていた。
瑠璃は
そっと手を伸ばして
その膝の上に置いた。
揺れが止まった。
十時。
二人は
同時に画面を開いた。
受験番号を入力する。
指が
少しだけ震えた。
読み込みの円が
くるくると回る。
長かった。
一秒が。
画面が切り替わった。
瑠璃は
息を止めた。
合格
二文字だった。
隣を見た。
琥珀が
画面を見つめたまま
固まっていた。
「……琥珀」
琥珀は動かなかった。
「琥珀、どうだった」
琥珀が
ゆっくりとこちらを向いた。
目が
真っ赤だった。
唇が
震えていた。
画面を
瑠璃のほうに向けた。
合格
同じ二文字。
瑠璃は
声が出なかった。
琥珀も
声が出なかった。
二人は
ただ
顔を見合わせていた。
それから
琥珀が
瑠璃を抱きしめた。
丸椅子ごと。
勢いよく。
椅子が倒れそうになって
二人とも
慌てて作業台に手をついた。
それでも
琥珀は離さなかった。
瑠璃も
離さなかった。
琥珀の肩が
震えていた。
瑠璃の肩も
震えていた。
「……受かった」
琥珀の声が
瑠璃の髪に埋もれて
くぐもった。
「受かった。瑠璃」
「うん」
「E判定だったのに」
「うん」
「瑠璃のおかげ」
「……琥珀が、毎日五十個覚えたからだよ」
琥珀が
少しだけ身体を離した。
泣き笑いの顔で
瑠璃を見る。
「瑠璃の手も」
「うん」
「治って、よかった」
瑠璃は
こらえていたものが
一気に溢れた。
琥珀の胸に
額を押しつけて
声を出して泣いた。
琥珀が
その頭を
ゆっくりと撫でた。
窓の外で
冬の光が
少しずつ
春の色に変わりはじめていた。
その夜。
九時を過ぎたころ
スマートフォンが震えた。
「今日、告白されなかった」
いつもの一行目。
その下に
続きがあった。
「今日、合格した。二人とも。
四月から、四年間、同じキャンパス。
報告おわり」
瑠璃は
画面を見つめて
小さく笑った。
指を動かす。
「報告ありがとう」
送信する。
すぐに
もう一通届いた。
「大学でも、黙ってる?」
瑠璃は
指を止めた。
少しだけ考えた。
大学には
ダンスサークルがある。
琥珀はきっと
また光の真ん中に立つ。
また
たくさんの人に見られる。
「……うん。もう少しだけ」
送ってから
少しだけ後悔した。
既読がつく。
しばらくして
返事が来た。
「わかった。……自慢したいけど」
瑠璃は
吹き出した。
もう一通。
「その代わり、報告は続ける。大学でも。一個残らず」
瑠璃は
スマートフォンを胸に当てて
天井を見上げた。
指を動かす。
「うん。待ってる」
三月一日。
卒業式のあと。
北校舎の三階。
誰もいない美術室。
胸に
小さな花をつけたまま
瑠璃は
窓際の
いつもの席に座っていた。
イーゼルは
もう片づけてあった。
作業台の上も
何もなかった。
窓の外の空が
少しずつ
夕方の色に変わっていく。
扉が開いた。
軽い足音。
リズムのある足音。
「やっぱり、ここだった」
琥珀が
胸の花を揺らしながら入ってきた。
丸椅子を引き寄せる。
いつもの場所に座る。
最後だった。
この椅子に座るのも。
この部屋で
二人で過ごすのも。
二人とも
しばらく黙っていた。
窓から
西日が差しこんできた。
光が
床を
作業台を
二人の髪を
琥珀色に染めていった。
二年前の四月と
同じ色に。
「……琥珀色」
瑠璃が言った。
独り言のように。
琥珀が
瑠璃を見た。
それから
窓の外を見た。
「うん」
小さく笑った。
「瑠璃がいたから、好きになった色」
瑠璃は
何も言わずに
琥珀の手を握った。
絵具の汚れは
もうついていなかった。
でも
指先の感触は
二年前と同じだった。
「四月から」
琥珀が言った。
「また、毎日会える」
「うん」
「同じキャンパスで」
「うん」
「報告も、続けるから」
「……うん」
「一個残らず」
瑠璃は
笑った。
琥珀も
笑った。
琥珀色の光の中で
二人は
最後の放課後を
ゆっくりと過ごした。
窓の外で
一本の桜の蕾が
もうすぐ
ほどけようとしていた。
八月の最後の日曜日。
琥珀は
市民ホールの舞台袖にいた。
高校最後の大会だった。
幕の向こうから
前の学校の音楽が漏れてくる。
照明の熱。
仲間たちの浅い呼吸。
琥珀は目を閉じて
ポケットの中の生徒手帳を
そっと握った。
一番最初のページに
薄い青の付箋が貼ってある。
「英単語、毎日五十個」
五月から
一日も休まなかった。
練習のあと。
電車の中。
寝る前のベッドの上。
五十個。
五十個。
五十個。
客席のどこかに
瑠璃がいるはずだった。
可絵と二人で
一番後ろの席に。
名前を呼ばれた。
琥珀は目を開けて
光の中へ歩いていった。
結果は三位だった。
目標にしていた優勝には
届かなかった。
ホールの裏口で
部長だった同級生が泣いていた。
後輩たちも泣いていた。
琥珀は
泣かなかった。
一人一人の肩を叩いて
笑って
ありがとうと言った。
それから
誰もいない非常口の階段に座って
少しだけ
うつむいた。
スマートフォンが震えた。
「三位、おめでとう。
最後の曲、きれいだった。
瑠璃」
琥珀は
画面を見たまま
長いあいだ動かなかった。
それから
ようやく
少しだけ泣いた。
指を動かす。
「今日、告白されなかった。三位だった。引退した。報告おわり」
もう一通。
「明日から、勉強三時間にする」
すぐに返事が来た。
「ダンスの三時間、全部?」
「全部」
「……無理しないで」
「無理する。瑠璃と同じ大学、行くから」
九月から
美術室が
勉強部屋になった。
放課後の四時。
琥珀は丸椅子を引き寄せて
作業台の端に
参考書を広げる。
瑠璃は
イーゼルの前で
木炭を握っている。
実技試験のデッサン。
石膏像。
果物。
布の皺。
二人とも
ほとんど話さなかった。
木炭が紙を擦る音と
琥珀のシャーペンの音だけが
美術室を満たしていた。
五時になると
瑠璃が木炭を置く。
琥珀の前に座る。
「小テスト」
薄い青の付箋が
十枚。
一枚に五個ずつ。
英単語が書いてある。
琥珀が
裏に意味を書いていく。
瑠璃が
赤ペンで丸をつける。
九月の最初の日。
五十個中
二十一個。
九月の終わり。
三十四個。
十月の模試。
英語の偏差値。
四十二から
四十九。
判定は
D。
琥珀は
成績表を持って
美術室に駆けこんだ。
「D!」
「……うん」
「Dだよ瑠璃!」
「うん。見えてる」
「Eじゃない!」
瑠璃は
木炭を置いて
振り返った。
口元が
少しだけ緩んでいた。
「おめでとう」
琥珀は
成績表を胸に抱えたまま
その場でくるりと一回転した。
ターン。
着地。
「……美術室で踊らないで」
「ごめん。嬉しくて」
瑠璃が
声を出して笑った。
十一月の終わり。
木枯らしが
窓を鳴らしていた。
その日
瑠璃は
五時を過ぎても
木炭を置かなかった。
琥珀は
参考書から顔を上げた。
瑠璃の背中。
いつもより
少しだけ丸まっていた。
右手が
止まっていた。
木炭を握ったまま
小刻みに震えていた。
「瑠璃?」
返事がなかった。
琥珀は立ち上がった。
回りこんで
瑠璃の顔を覗きこむ。
唇を
きつく噛んでいた。
額に
薄く汗が滲んでいた。
「……手」
「大丈夫」
「大丈夫じゃない」
琥珀は
瑠璃の右手首に
そっと触れた。
瑠璃が
小さく息を呑んだ。
熱かった。
腫れていた。
「いつから」
「……先週から、ちょっと」
「なんで言わなかったの」
瑠璃は
答えなかった。
琥珀は
瑠璃の手から
木炭をそっと抜き取った。
指が
うまく開かなかった。
保健室の先生は
腱鞘炎だと言った。
使いすぎ。
しばらく安静に。
描くのは二週間禁止。
瑠璃は
ベッドの端に座って
包帯を巻かれた自分の右手を
じっと見ていた。
実技試験まで
あと三か月。
一番描かなければいけない時期だった。
保健室を出て
誰もいない廊下を歩く。
窓の外は
もう暗かった。
瑠璃が
ぽつりと言った。
「……描けなかったら、どうしよう」
小さな声だった。
琥珀は立ち止まった。
瑠璃も止まる。
「間に合わなかったら。落ちたら」
声が震えた。
「琥珀だけ受かって。私だけ」
瑠璃は
言葉を切った。
包帯の手を
胸の前で握ろうとして
痛みに顔をしかめた。
琥珀は
その手を
両手でそっと包んだ。
包帯の上から。
痛くないように。
「描けない日は」
琥珀が言った。
「見る日にしよう」
瑠璃が顔を上げた。
「瑠璃、去年の四月。俺のこと気づかないくらい、絵のこと見てたでしょ」
「……」
「描いてなくても、見てたらいいんだと思う。瑠璃なら」
琥珀は
少しだけ笑った。
「それに」
包帯の手を
もう少しだけ強く包む。
「瑠璃が俺に教えてくれた分。今度は、俺の番」
次の日から
琥珀は
少しだけ早く美術室に来た。
瑠璃のイーゼルに
石膏像の角度を変えて置く。
窓のブラインドを
光の向きに合わせて調節する。
「今日は、この角度。見るだけ」
瑠璃は
描かなかった。
ただ
石膏像を見ていた。
光が
どこに当たって。
影が
どこに落ちて。
どこで色が変わるのか。
一時間。
じっと。
その横で
琥珀は
英単語を声に出して覚えた。
小さな声で。
瑠璃の邪魔にならないように。
五時になると
琥珀が付箋の束を差し出す。
「小テスト」
「……左手で丸つけるの、下手だよ」
「いい。瑠璃の丸なら、なんでも」
瑠璃の左手の丸は
ぐにゃぐにゃだった。
琥珀は
それを見て
嬉しそうに笑った。
帰り道。
校門を出るまで
琥珀は
瑠璃の鞄を持たなかった。
誰が見ているかわからなかった。
黙っていてと
約束していた。
校門を出て
角を曲がって
誰もいなくなってから
ようやく
瑠璃の鞄を肩にかけた。
「……こういうとき、ばれてもいいのにって思う」
琥珀がぼそりと言った。
「え」
「怪我した彼女の鞄も、学校で持てない」
口をへの字に曲げる。
「自慢したいのに」
瑠璃は
包帯の手で
琥珀の袖を
そっと引いた。
「……ありがとう」
琥珀の耳が
赤くなった。
二週間後。
包帯が取れた。
瑠璃が
久しぶりに木炭を握った。
石膏像を
描いた。
線が
前より少しだけ
迷わなかった。
光と影の境目が
前より少しだけ
正確だった。
琥珀が
後ろから覗きこんで
小さく言った。
「……きれい」
瑠璃は
振り返らなかった。
でも
木炭を持つ手が
少しだけ
震えていた。
今度は
痛みのせいではなかった。
一月。
共通テスト。
二月。
明桜大学の一般入試。
瑠璃には
実技試験もあった。
試験の前の夜
スマートフォンが震えた。
「今日、告白されなかった。明日、がんばろう。報告おわり」
瑠璃は
画面を見つめて
小さく笑った。
「うん。がんばろう」
送信してから
もう一行。
「琥珀の英語、E判定からここまで来たの、私ずっと見てたよ」
既読がつく。
しばらく返事がなかった。
それから
一通。
「泣いた。報告」
瑠璃は
吹き出した。
二月の終わり。
合格発表の日。
三年生は
もう自由登校になっていた。
それでも瑠璃は
学校に来ていた。
北校舎の三階。
美術室。
窓際の
いつもの席。
九時五十分。
扉が開いた。
琥珀だった。
制服の上に
いつものダウン。
顔が
少しだけ青かった。
「……来てたんだ」
「来るでしょ」
「家で見ればよかったのに」
「琥珀こそ」
琥珀は
いつもの丸椅子を引き寄せて
瑠璃の隣に座った。
膝と膝が
くっつく距離。
二人とも
スマートフォンを握りしめていた。
九時五十五分。
窓の外で
冬の光が
作業台の上に落ちていた。
九時五十八分。
琥珀の膝が
小刻みに揺れていた。
瑠璃は
そっと手を伸ばして
その膝の上に置いた。
揺れが止まった。
十時。
二人は
同時に画面を開いた。
受験番号を入力する。
指が
少しだけ震えた。
読み込みの円が
くるくると回る。
長かった。
一秒が。
画面が切り替わった。
瑠璃は
息を止めた。
合格
二文字だった。
隣を見た。
琥珀が
画面を見つめたまま
固まっていた。
「……琥珀」
琥珀は動かなかった。
「琥珀、どうだった」
琥珀が
ゆっくりとこちらを向いた。
目が
真っ赤だった。
唇が
震えていた。
画面を
瑠璃のほうに向けた。
合格
同じ二文字。
瑠璃は
声が出なかった。
琥珀も
声が出なかった。
二人は
ただ
顔を見合わせていた。
それから
琥珀が
瑠璃を抱きしめた。
丸椅子ごと。
勢いよく。
椅子が倒れそうになって
二人とも
慌てて作業台に手をついた。
それでも
琥珀は離さなかった。
瑠璃も
離さなかった。
琥珀の肩が
震えていた。
瑠璃の肩も
震えていた。
「……受かった」
琥珀の声が
瑠璃の髪に埋もれて
くぐもった。
「受かった。瑠璃」
「うん」
「E判定だったのに」
「うん」
「瑠璃のおかげ」
「……琥珀が、毎日五十個覚えたからだよ」
琥珀が
少しだけ身体を離した。
泣き笑いの顔で
瑠璃を見る。
「瑠璃の手も」
「うん」
「治って、よかった」
瑠璃は
こらえていたものが
一気に溢れた。
琥珀の胸に
額を押しつけて
声を出して泣いた。
琥珀が
その頭を
ゆっくりと撫でた。
窓の外で
冬の光が
少しずつ
春の色に変わりはじめていた。
その夜。
九時を過ぎたころ
スマートフォンが震えた。
「今日、告白されなかった」
いつもの一行目。
その下に
続きがあった。
「今日、合格した。二人とも。
四月から、四年間、同じキャンパス。
報告おわり」
瑠璃は
画面を見つめて
小さく笑った。
指を動かす。
「報告ありがとう」
送信する。
すぐに
もう一通届いた。
「大学でも、黙ってる?」
瑠璃は
指を止めた。
少しだけ考えた。
大学には
ダンスサークルがある。
琥珀はきっと
また光の真ん中に立つ。
また
たくさんの人に見られる。
「……うん。もう少しだけ」
送ってから
少しだけ後悔した。
既読がつく。
しばらくして
返事が来た。
「わかった。……自慢したいけど」
瑠璃は
吹き出した。
もう一通。
「その代わり、報告は続ける。大学でも。一個残らず」
瑠璃は
スマートフォンを胸に当てて
天井を見上げた。
指を動かす。
「うん。待ってる」
三月一日。
卒業式のあと。
北校舎の三階。
誰もいない美術室。
胸に
小さな花をつけたまま
瑠璃は
窓際の
いつもの席に座っていた。
イーゼルは
もう片づけてあった。
作業台の上も
何もなかった。
窓の外の空が
少しずつ
夕方の色に変わっていく。
扉が開いた。
軽い足音。
リズムのある足音。
「やっぱり、ここだった」
琥珀が
胸の花を揺らしながら入ってきた。
丸椅子を引き寄せる。
いつもの場所に座る。
最後だった。
この椅子に座るのも。
この部屋で
二人で過ごすのも。
二人とも
しばらく黙っていた。
窓から
西日が差しこんできた。
光が
床を
作業台を
二人の髪を
琥珀色に染めていった。
二年前の四月と
同じ色に。
「……琥珀色」
瑠璃が言った。
独り言のように。
琥珀が
瑠璃を見た。
それから
窓の外を見た。
「うん」
小さく笑った。
「瑠璃がいたから、好きになった色」
瑠璃は
何も言わずに
琥珀の手を握った。
絵具の汚れは
もうついていなかった。
でも
指先の感触は
二年前と同じだった。
「四月から」
琥珀が言った。
「また、毎日会える」
「うん」
「同じキャンパスで」
「うん」
「報告も、続けるから」
「……うん」
「一個残らず」
瑠璃は
笑った。
琥珀も
笑った。
琥珀色の光の中で
二人は
最後の放課後を
ゆっくりと過ごした。
窓の外で
一本の桜の蕾が
もうすぐ
ほどけようとしていた。



