琥珀色の独占欲

## 第6話 進路希望

 

四月。

三年生になった。

クラス替えの掲示板の前で

瑠璃は自分の名前を探した。

三年四組。

その少し下に

山下可絵の名前もあった。

一年のときから

これで三年連続だった。

隣の掲示板に目をやる。

三年一組。

鏡琥珀。

また

違うクラスだった。

少しだけ

ほっとした。

同じクラスだったら

隠しておける自信がなかった。

少しだけ

がっかりもした。

どちらの気持ちも

本当だった。

 

 

五月の連休明け。

ホームルームで

進路調査票が配られた。

第一志望。

第二志望。

第三志望。

白い枠が三つ並んでいた。

瑠璃は

ボールペンを持ったまま

しばらく動かなかった。

一年のときから

美大に行くのだと思っていた。

担任もそう言っていた。

美術部の顧問も。

絵を描くために。

絵だけを描くために。

でも

去年の秋から

少しだけ

考えが変わっていた。

体育館のステージ。

光の真ん中で踊る背中。

美術室の外にも

描きたいものがあった。

絵具も

キャンバスもない場所に。

音の中に。

人の中に。

もっと知りたいと思った。

絵を描かない人たちのことを。

絵以外の

いろんなものを。

瑠璃は

ボールペンを動かした。

明桜大学

芸術学部 美術学科

総合大学の中にある

美術の学科だった。

実技も学べる。

美術史も。

それ以外の授業も

他の学部の人たちと一緒に受けられる。

去年の冬

オープンキャンパスのパンフレットを

何度も読み返していた。

誰にも

言っていなかった。

 

「明桜?」

昼休み。

可絵が

瑠璃の調査票を覗きこんで言った。

「美大じゃないんだ」

「……うん」

「なんで」

瑠璃は少しだけ考えた。

「絵以外のことも、知りたくなって」

可絵は

焼きそばパンを齧る手を止めた。

じっと瑠璃を見る。

それから

にやりと笑った。

「それ、誰の影響?」

「……誰のでもない」

「嘘だ」

「嘘じゃない」

「顔、赤いよ」

瑠璃は

パックの緑茶を飲んだ。

むせなかった。

一年前よりは

少しだけ上手になっていた。

「いいじゃん。明桜」

可絵が

自分の調査票をひらひらさせた。

まだ白紙だった。

「私も受けよっかな。文学部あるし」

「……ほんと?」

「ほんと。大学でも瑠璃のお守りしなきゃだし」

「お守りって」

「必要でしょ。あの重たい人の相手、一人じゃ無理だって」

瑠璃は吹き出した。

可絵は

白紙の枠に

さらさらと書きこんだ。

明桜大学 文学部。

 

 

その日の放課後。

美術室の扉が開いた。

「瑠璃」

琥珀だった。

腕に

何かを抱えていた。

分厚い冊子の山。

十冊以上ある。

琥珀はそれを

作業台の上に

どさりと置いた。

一番上の表紙に

見覚えのある校章があった。

明桜大学。

瑠璃は筆を止めた。

「……それ」

「全学部の、パンフレット」

琥珀は

少しだけ得意そうに言った。

「進路室にあったの、全部借りてきた」

「……なんで」

言ってから

なんで知っているのだろうと思った。

言っていなかった。

誰にも。

可絵以外には。

「山下さんに聞いた」

琥珀があっさりと言った。

「瑠璃の第一志望、明桜だって」

瑠璃は

窓の外を見た。

中庭の向こうで

可絵が誰かと笑っていた。

たぶん

こちらの窓を見ていた。

「……可絵」

「怒んないであげて。俺がしつこく聞いたから」

琥珀は丸椅子に座った。

パンフレットを一冊ずつ広げはじめる。

付箋が

びっしりと貼られていた。

黄色。

水色。

薄い緑。

少し右上がりの

大きな字。

「芸術学部は、本部キャンパスでしょ」

琥珀が

キャンパスマップのページを開いた。

赤いペンで

丸がつけてあった。

「同じキャンパスにあるのが、経済と、法と、文と、社会学部」

「……うん」

「ダンスサークル、ここにある。全国大会、毎年出てる」

別のページ。

サークル紹介。

また赤い丸。

「で、社会学部」

琥珀が

一冊を瑠璃の前に置いた。

「メディアとか、身体表現とか。そういう授業がある。ダンスの研究してる先生もいる」

付箋に

小さな字で書いてあった。

「ここ受けたい」

瑠璃は

そのページを見つめた。

それから

琥珀を見た。

琥珀は

少しだけ緊張した顔で

瑠璃の反応を待っていた。

「……琥珀」

「うん」

「私に、合わせてない?」

琥珀が瞬いた。

瑠璃は

膝の上で手を握った。

「琥珀の大学だよ。琥珀の四年間。琥珀の将来」

声が少しだけ硬くなった。

「私がいるからって理由で決めて。後悔したら」

言葉が途切れた。

後悔したら。

その先を

言いたくなかった。

琥珀は

しばらく黙っていた。

それから

パンフレットの付箋を

一枚ずつ

指でなぞった。

「最初はね」

静かな声だった。

「瑠璃がいるから、って思った。それは本当」

「……」

「でも調べてたら」

琥珀は

社会学部のページを開いた。

身体表現論。

メディア文化論。

赤い丸が

いくつもついていた。

「面白そうだったの。本気で」

琥珀が笑った。

「ダンスってなんで人が見るんだろうとか。なんで踊ると気持ちいいんだろうとか。ずっと思ってたこと、ここで勉強できるかもしれない」

瑠璃は

琥珀の横顔を見ていた。

「サークルも強いし。キャンパスもきれいだし」

琥珀は

パンフレットを閉じた。

瑠璃のほうを向く。

まっすぐに。

「合わせたんじゃなくて、選んだの」

「……」

「瑠璃がいる場所を。俺が行きたい場所として」

瑠璃は

何も言えなかった。

胸の奥が

じんわりと熱くなった。

「だめ?」

琥珀が

少しだけ首を傾げた。

大型犬みたいに。

瑠璃は

首を振った。

「……だめじゃない」

琥珀の顔が

ぱっと輝いた。

「ほんと?」

「ほんと」

「じゃあ、一緒に行こう。明桜」

「……うん」

「四年間、同じキャンパス」

「うん」

「毎日会える」

「……うん」

琥珀が

両手でガッツポーズをした。

瑠璃は

笑った。

 

 

「で」

瑠璃は

作業台の上のパンフレットの山を見た。

「社会学部の偏差値、見た?」

琥珀の動きが

止まった。

「……見た」

「いくつだった」

「……」

「琥珀」

「……ちょっと、高かった」

瑠璃は

手を差し出した。

「この前の模試の結果」

琥珀が

目を逸らした。

「……持ってない」

「嘘」

「家に置いてきた」

「鞄のポケットから、はみ出てる」

琥珀が

慌てて鞄を押さえた。

遅かった。

瑠璃は

はみ出た紙の端をつまんで

引き抜いた。

広げる。

全国模試の個人成績表。

国語。

数学。

英語。

瑠璃は

黙ってそれを見た。

長いあいだ。

美術室が

静かになった。

ストーブはもうなかった。

五月の風が

開けた窓から

カーテンを揺らしていた。

「……琥珀」

「うん」

「英語」

「うん」

「これ」

「……うん」

「偏差値、四十二」

「……うん」

「志望校判定」

「……E」

瑠璃は

成績表を机の上に置いた。

額に手を当てた。

琥珀は

丸椅子の上で

小さくなっていた。

ステージの上では

何百人の視線を浴びても

少しも揺れなかった人が。

「……ダンスの練習、毎日何時間?」

「……三時間」

「勉強は」

「……三十分」

「逆にしたら」

「無理!」

即答だった。

瑠璃は

吹き出しそうになった。

こらえた。

こらえきれなかった。

声を出して笑った。

琥珀が

情けなさそうに眉を下げた。

「笑わないで」

「ごめん」

「笑ってるじゃん」

「ごめんって」

瑠璃は

笑いながら

スケッチブックを開いた。

表紙の裏。

琥珀の付箋が

何十枚も貼られている場所。

その端に

一冊だけ

未使用の付箋の束が挟まっていた。

薄い青。

瑠璃色の付箋。

一枚剥がす。

鉛筆で

小さな字を書いた。

少しだけ

丁寧に。

瑠璃は

それを

琥珀の額に

ぺたりと貼った。

琥珀が

寄り目になって

自分の額を見ようとした。

見えなかった。

剥がして

読む。

「英単語、毎日五十個。

明日から、ここで小テスト。

瑠璃」

琥珀は

その付箋を

長いあいだ見つめていた。

それから

ゆっくりと顔を上げた。

「……瑠璃からの付箋」

「うん」

「初めて」

「……うん」

瑠璃は

目を逸らした。

頬が熱かった。

「一年ぶん、もらってばっかりだったから」

小さな声で続ける。

「今度は、私の番」

琥珀は

付箋を両手で持ったまま

動かなかった。

それから

生徒手帳を取り出して

一番最初のページに

そっと貼りつけた。

「毎日見る」

「見るだけじゃなくて覚えて」

「覚える」

「五十個」

「五十個」

琥珀が

真剣な顔で頷いた。

ステージの前と

同じ顔だった。

 

 

その夜。

九時を過ぎたころ

スマートフォンが震えた。

「今日、告白されなかった」

いつもの文面。

その下に

続きがあった。

「英単語、五十個覚えた。たぶん。報告おわり」

瑠璃は

ベッドの上で

小さく笑った。

指を動かす。

「明日、小テストだからね」

すぐに既読がついた。

「がんばる」

もう一通。

「瑠璃と同じ大学、行きたいから」

瑠璃は

画面を胸に当てた。

天井を見上げる。

一年前の四月。

美術室の扉のところで

自分の絵を見ていた男の子。

来ないでと言っても

来た男の子。

その人が

今

自分と同じ場所を目指して

英単語を覚えている。

瑠璃は

もう一度

指を動かした。

「私も。琥珀と同じ大学、行きたい」

送信する。

数秒後。

スマートフォンが震えた。

「!!!!!」

それから

もう一通。

「今の、スクショした」

瑠璃は

枕に顔を埋めた。

窓の外で

五月の夜風が

カーテンを揺らしていた。