七つ下のクズな居候は、わたしにだけ手を出さない

# 第5話 義理チョコ

二月十四日の夜。

玄関の扉が開く音がして、亜美は台所から顔を出した。

「……ただいま」

海音が、紙袋を二つ提げて立っていた。

どちらも、ぱんぱんに膨らんでいる。

赤いリボン。金色の箱。ハートの形の包み紙。

紙袋の口から、色とりどりの包みがはみ出していた。

「……なにそれ」

「大学とバイト先で、もらった」

海音は、心底面倒くさそうに言った。

それから、紙袋を玄関の床にどさりと置いた。

「重かった」

亜美は、その山を見下ろした。

十個。二十個。

数えるのを、途中でやめた。

「モテるね」

「知らない人のもある」

「知らない人から、もらうの」

「断るの、面倒だし」

海音はスニーカーを脱ぎ捨てて、リビングへ歩いていった。

紙袋は、玄関に置いたまま。

亜美は、その山から目を逸らした。

エプロンのポケットの中で、小さな箱の角が指に当たっていた。

 

昨日の夜、デパートの地下で買ったものだった。

仕事帰りに、なんとなく寄って。

なんとなく、ショーケースの前で立ち止まって。

なんとなく、一番小さな箱を買った。

六粒入り。

ビターとミルクが、三つずつ。

誰にあげるつもりなのか、自分でもはっきりしないまま。

いや。

はっきりしていた。

はっきりさせたくなかっただけ。

亜美は、ポケットの中で箱を握りしめた。

玄関の紙袋の山を思い出す。

赤いリボン。金色の箱。ハートの包み紙。

どれも、この小さな箱よりずっと大きくて、ずっと華やかだった。

あの中に、これを混ぜたら。

きっと、どれがどれだかわからなくなる。

 

夕飯は、鶏の照り焼きだった。

海音は、いつものように美味しそうに食べた。

「亜美さんの照り焼き、世界一」

「はいはい」

亜美は箸を置いた。

言うなら、今だと思った。

何でもない顔で。

何でもないことのように。

エプロンのポケットから、小さな箱を取り出した。

テーブルの上を、海音のほうへ滑らせる。

「はい」

海音の箸が、止まった。

箱を見つめる。

深い茶色の包装紙に、細い金色のリボン。

「……え」

「いつもお風呂磨いてくれるお礼」

亜美は、できるだけ軽く言った。

それから、念を押すように付け足した。

「義理だからね」

海音の手が、一瞬だけ宙で止まった。

「……義理」

小さな声だった。

ほとんど、息みたいな。

亜美は、それに気づかなかった。

気づかないように、味噌汁を飲んでいた。

「そう。義理。ほら、あっちにいっぱいあるでしょ。本命っぽいの」

亜美は、玄関のほうを顎で示した。

海音は、しばらく黙っていた。

それから、箱を手に取った。

両手で。

「……どうも」

何でもない顔で、そう言った。

いつもの、眠そうな顔で。

箱をパーカーのポケットに入れて、また箸を持った。

照り焼きを口に運ぶ。

「うまい」

「さっきも聞いた」

「世界一」

「それも聞いた」

亜美は笑った。

海音も、少しだけ笑った。

それで、終わりだった。

少なくとも、亜美にとっては。

 

翌朝。

亜美が出勤しようと玄関に立つと、紙袋の山がそのまま残っていた。

一つも、開けられていなかった。

赤いリボンも。金色の箱も。ハートの包み紙も。

昨日の夜のまま、床の上で静かに積み重なっている。

亜美は、それを跨いで靴を履いた。

食べないのだろうか。

甘いものは好きなはずなのに。

 

三日後。

紙袋の山が、玄関から消えていた。

「あれ、どうしたの?」

夕飯のとき、亜美が訊くと、海音は味噌汁をすすりながら答えた。

「バイト先に持ってった」

「え」

「莉子さんとか、店長とか、常連さんに配った。みんな喜んでた」

「……もらったものでしょ」

「食べきれないし」

海音は、あっさりと言った。

「それに、知らない人のとか、なんか怖いじゃん」

亜美は、何か言おうとして、やめた。

もらったチョコを、全部人にあげてしまう。

ひどい子だと思った。

少しだけ、胸がすっとした自分にも、気づかないふりをした。

 

冷蔵庫の奥に、小さな箱が入っていた。

亜美がそれに気づいたのは、それからさらに数日後のことだった。

牛乳を取ろうとして、奥のほうに手を伸ばしたとき。

卵のパックの後ろに、深い茶色の包装紙が見えた。

細い金色のリボンは、ほどかれて、箱の横にきちんと添えてあった。

亜美は、そっと蓋を開けた。

六粒入り。

ビターとミルクが、三つずつ。

残っていたのは、二粒だった。

ビターが一つ。ミルクが一つ。

亜美は、しばらくそれを見つめていた。

一日一粒。

そういう減り方だった。

毎晩、亜美が眠ったあとに。

一粒ずつ、大事そうに。

亜美は、蓋をそっと閉じた。

元の場所に戻す。

卵のパックの後ろに。

それから、冷蔵庫の扉を閉めた。

甘いもの、好きだもんね。

そう思うことにした。

義理でも、チョコはチョコ。

それだけのことだ。

 

三月十四日。

夜の十一時過ぎ。

亜美のスマートフォンが震えた。

海音からだった。

今から店来れる? もう閉めたけど。

亜美は、画面を見て首を傾げた。

閉めたのに?

コートを羽織って、夜の路地を歩いた。

真鍮のプレートのついた木の扉。

中から、柔らかい灯りが漏れている。

扉を押すと、ジャズは流れていなかった。

照明は半分落とされて、カウンターの上だけがぼんやりと明るい。

誰もいなかった。

カウンターの中に、海音が一人。

黒いシャツの袖を、肘まで捲り上げて。

「……莉子は?」

「帰った。店長の許可もらってる」

海音は、カウンターの真ん中の席を顎で示した。

「座って」

亜美は、言われるままに座った。

いつもの端の席ではなく、真ん中に。

海音が、棚からボトルを何本か下ろした。

グラスに氷を入れる。

コーヒーリキュール。

少しだけ、何か透明なもの。

それから、見慣れない赤い液体を、ほんの数滴。

ミルクを、ゆっくりと落とす。

白と茶色と、ほんのりとした薄紅色が、グラスの中で静かに渦を巻いた。

とん、と小さな音。

亜美の前に、グラスが置かれた。

「新作」

海音が言った。

いつもの、眠そうな声で。

「……また、まずいやつ?」

「飲んでから言って」

亜美は、グラスを持ち上げた。

薄紅色の渦が、灯りを受けて揺れている。

口をつける。

甘かった。

カルーアミルクの甘さの奥に、ほんのりと果物みたいな酸味。

それから、最後に少しだけ、ほろ苦さが残る。

「……美味しい」

亜美は、思わず目を見開いた。

「美味しい。これ、今までで一番美味しい」

海音は、何も言わなかった。

カウンターの向こうで、グラスを拭く手を止めて。

亜美の顔を見ていた。

眠そうな目が、ほんの少しだけ緩んでいた。

「何入ってるの?」

「秘密」

「名前は?」

海音は、少しだけ目を逸らした。

「……まだない」

「えー。つけてあげようか」

「いい」

海音は、また背を向けた。

グラスを拭き始める。

「ホワイトデーだから」

背中越しに、ぼそりと言った。

「チョコの、お返し」

亜美は、グラスを持ったまま止まった。

それから、笑った。

「義理チョコに、こんな凝ったお返しくれるの?」

海音の背中が、ほんの少しだけ固まった。

それから、いつもの声で答えた。

「……お風呂磨きのお礼のお礼」

「なにそれ」

亜美は、声を上げて笑った。

笑いながら、グラスの中身をゆっくりと飲んだ。

甘くて。少し酸っぱくて。最後に、ほろ苦い。

「またまずい新作かと思った」

「失礼」

「だって、いつもまずいじゃない」

「今日のは、まずくない」

「うん。今日のは美味しい」

亜美は、グラスを両手で包んだ。

閉店後のバー。

誰もいないカウンター。

自分のためだけに作られた、一杯。

それが何を意味するのか、亜美は考えなかった。

考えたら、慈善事業ではいられなくなる気がした。

 

カウンターの端。

スタッフ用の扉の陰で、帰ったはずの莉子が頭を抱えていた。

忘れ物を取りに戻っただけだった。

それなのに、出るに出られなくなっていた。

先輩。

鈍すぎる。

莉子は、心の中で叫んだ。

それから、カウンターの中の海音を見た。

グラスを拭く背中。

少しだけ丸まった肩。

背中越しに、耳の先が赤いのが見えた。

莉子は、試作のメモを見てしまっていた。

カウンターの裏の、小さなノート。

何ページにもわたって、書いては消した配合の跡。

いちばん最後のページに、一行だけ。

名前の欄に、書きかけて、ぐしゃぐしゃに塗りつぶされた文字。

塗りつぶしきれずに、最初の一文字だけが読めた。

亜。

莉子は、深いため息をついた。

それから、音を立てないように、そっと裏口から出ていった。

夜の路地に、三月の冷たい風が吹いていた。

どっちも、ほんとに。

莉子は、夜空を見上げて呟いた。

世話が焼ける。