七つ下のクズな居候は、わたしにだけ手を出さない

# 第4話 あけましておめでとう

十二月三十日の夜。

スマートフォンが震えたのは、亜美が洗濯物を取り込んでいるときだった。

画面に、母、の文字。

亜美は少しだけ迷ってから、通話ボタンを押した。

「亜美? お正月は帰ってくるの?」

いつもの、少し早口な声。

「うーん……」

「帰ってきなさいよ。ちょうどね、紹介したい人がいるの」

亜美の手が、止まった。

「お父さんの会社の後輩の息子さんでね。三十二歳。真面目で、公務員で」

母の声が、嬉しそうに弾んでいる。

「亜美ももう二十七でしょう。そろそろちゃんと考えないと」

ちゃんと。

考えないと。

亜美は、畳みかけのタオルを見つめた。

四つ折りと三つ折りが混ざった、不揃いな山。

「……ごめん。今年、仕事が忙しくて帰れないかも」

「え、お正月も?」

「うん。年明けすぐ、大きい案件があって」

嘘だった。

母は少しだけ不満そうに何か言って、それから、体に気をつけてね、と電話を切った。

亜美は、スマートフォンを伏せた。

ソファの上で、毛布の塊がもぞりと動いた。

「……帰んないんですか」

寝ていると思っていた。

毛布の隙間から、眠そうな目がこちらを見ていた。

「帰らない」

「お見合い、嫌なんですか」

「……聞いてたの」

「声、でかかったんで」

亜美は、小さくため息をついた。

「海音くんは? 帰らないの?」

「帰ったら、連れ戻されるんで」

海音は、毛布の中でもぞもぞと寝返りを打った。

「アパート追い出されたの、まだ言ってないんで」

「言いなさいよ」

「無理です」

亜美は、呆れて笑った。

二人とも、帰らない。

二人とも、帰れない理由を抱えている。

「……じゃあ、年越しそばでも食べる?」

毛布の中から、眠そうな声が返ってきた。

「食べます」

 

大晦日は、朝から晴れていた。

亜美は、珍しく早く目を覚ました海音に掃除機を押しつけた。

「大掃除。働いて」

「寝るのが仕事なんですけど」

「今日は掃除が仕事」

海音は大きなあくびをして、それでも掃除機をかけ始めた。

リビング。廊下。玄関。

ソファの下から、なぜか海音の靴下が三足出てきた。

「……なにこれ」

「行方不明になってたやつです」

亜美は窓を拭いた。

冷たい水に、指先が赤くなる。

振り返ると、海音が浴室にこもっていた。

覗き込む。

海音は膝をついて、タイルの目地を古い歯ブラシで磨いていた。

真剣な横顔。

鼻の頭に、泡がついている。

「……それ、好きなの?」

「え?」

「お風呂掃除」

海音は、少しだけ考えた。

「黙ってやってればいいんで。楽です」

それから、また黙々と磨き始めた。

亜美は、なぜか少しだけ胸が温かくなった。

何も考えずに、黙って何かを綺麗にする時間。

亜美が本棚の背表紙を揃えるのと、少しだけ似ている気がした。

 

夜。

二人で、年越しそばを作った。

亜美がつゆを作って。

海音が、ねぎを切った。

ねぎの太さは、ばらばらだった。

「……これ、ねぎって言わない」

「ねぎです」

「ぶつ切り」

「ぶつ切りのねぎです」

亜美は、笑いながら天ぷらを載せた。

スーパーで買ってきた、海老天。

二人分。

ローテーブルに、そばの丼を二つ並べた。

こたつはなかったから、毛布を二人の膝にかけて。

並んで座る。

テレビでは、年末の歌番組が流れていた。

きらびやかな衣装。大きなステージ。

海音は、そばをすすりながら画面を見ていた。

「この人、知ってる?」

「知らないです」

「この人は?」

「知らないです」

「……何なら知ってるの」

「亜美さんが好きな曲」

亜美は、箸を止めた。

「前に、洗い物しながら歌ってたやつ。サビだけ」

海音は、何でもない顔でそばをすすった。

亜美は、耳が熱くなるのを感じた。

いつ聞かれていたのだろう。

テーブルの上で、海音のスマートフォンが震えた。

画面に、通知が浮かぶ。

カウントダウン来ないの?

また震える。

別の名前。

今どこー?

また。

また。

海音は、画面を見なかった。

ちらりとも。

ただ、手を伸ばして、スマートフォンの横のボタンを長押しした。

画面が、暗くなった。

そのまま、テーブルの端に伏せる。

亜美は、それを横目で見ていた。

何も言わなかった。

言えなかった。

行かないんだ。

そう思った。

どうしてかは、訊かなかった。

訊いたら、期待してしまいそうだった。

慈善事業に、期待はいらない。

 

十一時五十九分。

テレビの中で、カウントダウンが始まった。

十。

九。

亜美は、膝の上の毛布を握っていた。

隣で、海音があくびを噛み殺している。

三。

二。

一。

画面の中で、紙吹雪が舞った。

歓声。拍手。

新しい年。

亜美は、隣を見た。

海音も、こちらを見ていた。

眠そうな目で。

少しだけ、口元を緩めて。

「あけおめ、亜美さん」

いつもの、低い声。

「今年もよろしく」

亜美は、瞬きをした。

一拍、遅れて。

気づいた。

「……今、タメ口だった」

海音は、少しだけ目を逸らした。

耳の先が、ほんの少し赤い。

「一緒に住んでんのに、敬語とか変じゃん」

それから、ちらりと亜美を見た。

「……だめ?」

亜美は、思わず笑ってしまった。

「いいよ」

海音の顔が、ふっと緩んだ。

「じゃあ、よろしく。亜美さん」

さん、はついたままだった。

亜美は、それが少しだけおかしくて。

少しだけ、ほっとした。

七つ下の同居人。

タメ口になっても、さん付けのまま。

ちょうどいい距離だと思った。

 

零時半。

二人で、近所の小さな神社に歩いていった。

吐く息が、白い。

凍えるような夜だった。

住宅街の中に、ぽつんと明かりが灯っている。

小さな鳥居。

焚き火の煙。

近所の人たちが、ぽつぽつと並んでいた。

亜美は、コートの襟を立てた。

それでも、首元から冷たい風が入り込んでくる。

思わず、肩をすくめた。

隣で、海音が立ち止まった。

自分の首に巻いていたマフラーを、するりと外す。

「……え」

海音は何も言わずに、そのマフラーを亜美の首に回した。

一周。

二周。

器用に。

指先が、亜美の肌に触れないように。

首筋にも、頬にも。

ぎりぎりのところで、少しも触れずに。

最後に、端をそっと胸元に垂らした。

「海音くんが寒いでしょ」

「若いんで」

「わたしだって若いです」

「俺よりは若くないじゃん」

「……一言多い」

海音は、ポケットに両手を突っ込んで笑った。

マフラーから、海音の匂いがした。

洗剤と、少しだけ煙草みたいな、夜の匂い。

亜美は、マフラーに鼻先を埋めた。

温かかった。

 

順番が来た。

二人並んで、賽銭箱の前に立つ。

小銭を投げる。

鈴を鳴らす。

二礼。二拍手。

亜美は、目を閉じて手を合わせた。

今年こそ。

そこまで思って、言葉が止まった。

今年こそ、何だろう。

いい人に出会えますように。

結婚できますように。

母を安心させられますように。

どれも、違う気がした。

どれも、今の亜美の本当の願いではない気がした。

隣で、海音が手を合わせている気配がする。

亜美は、目を閉じたまま。

願いの続きを見つけられないまま。

一礼して、顔を上げた。

 

海音は、目を開けていた。

手を合わせたまま、隣の亜美の横顔を見ていた。

自分のマフラーに鼻先を埋めて、目を閉じている横顔。

長い睫毛に、焚き火の灯りが小さく揺れている。

一週間だけ、と言われた。

十一月の、雨の夜に。

一週間で追い出されると思っていた。

でも、一週間目の夜。

亜美さんは、何も言わなかった。

チャーハンを食べて、いただきますと言って。

次の日も。その次の日も。

追い出さなかった。

熱を出した夜も、そばにいさせてくれた。

それが何を意味するのか、海音にはわかっていた。

少なくとも、わかっているつもりだった。

受け入れてもらえた。

この人の隣に、いていいと言ってもらえた。

だから今夜、敬語をやめた。

もう他人じゃない、と思ったから。

言葉にはしなかった。

言葉にしなくても、伝わっていると思った。

海音は、もう一度目を閉じた。

手を合わせる。

亜美さんが、ずっと笑ってますように。

それから、ほんの少しだけ間を置いて。

心の中で、付け足した。

俺の隣で。

目を開ける。

自分で自分に、呆れた。

他の子と平気で寝るくせに。

さっきも、電源を切る前に何件も通知が来ていたくせに。

あんなのは、どうでもいい。

腹が減ったら飯を食うのと、同じだ。

何も思わない。

何も残らない。

でも、この人は違う。

この人にだけは、触れられない。

触れたら、あの子たちと同じ場所に置いてしまう気がする。

クズのくせに。

欲張りか。

「……海音くん?」

顔を上げると、亜美がこちらを見ていた。

マフラーに半分顔を埋めて。

少しだけ首を傾げて。

「何お願いしたの」

「秘密」

「ケチ」

「亜美さんは?」

亜美は、少しだけ目を伏せた。

「……わかんなくなっちゃった」

海音は、何も言わなかった。

ポケットの中で、手を握った。

冷えきった指先。

この手を伸ばして、亜美の手を握れたら。

それだけで、きっと。

でも、海音はポケットから手を出さなかった。

「帰ろ。寒い」

「うん」

二人並んで、鳥居をくぐった。

住宅街の暗い道を、白い息を吐きながら歩いていく。

肩と肩のあいだに、ちょうど一人分の隙間を空けて。

海音のマフラーが、亜美の首元で小さく揺れていた。

新しい年の、最初の夜だった。