もう一つの学校

 それから2週間。
 桜の木々は、すっかり緑色に染まった。
 あたたかな陽気は、少し汗ばむほどに変化する。
 私立織姫学園の生徒たちは、揃って長袖の真っ白なシャツを肘までめくっていた。
 ゴールデンウィークを明後日に控えた今日。
 朝の下駄箱は、登校してくる生徒の波でざわざわと騒がしい。

「おはようさん」

 関西弁の朝の挨拶に「おはよう、ジョウくん」と雅は反応した。
 大きなあくびをしながら、ジョウは上履きに履き替える。

「昨日、遅かったの?」
「ああ」

 3人は、今日までの放課後、"もう一つの学校”への出入りを控えていた。
 なぜなら「白鳥雅」が高等部にいるかどうかを調べることに専念することにしたからだ。
 なので、3人は、休み時間や放課後に高等部の校舎を訪れてみた。
 けれど、中学生から見る高校生は思った以上に大人だった。
 だから、話しかけるにもうまくいかず、クラスの前を素通りするのがやっとだった。
 3人は高等部徘徊を諦めて、改めて作戦会議をした。
 そして、生徒名簿をどうにか手に入れることを思いついた。
 だが、残念ながら、生徒名簿を手に入れるなど、高等部の教室に入る以上に難しいことで途方に暮れていた。
 今日までのことを整理すると以下のようなことだ。

・もう一つの学校の「神崎雅」の座席表が「白鳥雅」に変わっている
・「神崎雅」が出入りするようになってから異変は起きた
・こちら側の中等部に「白鳥雅」という人物はいない
・こちら側の高等部に「白鳥雅」という人物がいるか調査 ←いまここ

 ただ、この2週間、なんの収穫もない。
 自分じゃない、「雅」の存在を明らかにできないことに、雅は2人以上に複雑な思いでいた。
 だから今日、ジョウに会ったら、提案しようと決めていたのだ。

「今日、もう一つの学校に行かない?」
「なんで?」
「さすがにこれ以上、こちら側で「白鳥雅」を詮索するのは、無理があると思うの」
「行ってもええけど、別にお前、来なくてもええで」
「え?」
「だから、お前が来なくても、俺とヤマトで十分だって言ってんねん」
「なんでそんなこと言うの?」
「……それは」
「……もういい」

 雅は、怒ってそそくさと行ってしまった。
 ジョウは「はあ」と大きなため息をつく。

「あんな言い方はないんじゃない?」

 背後からヤマトに腕を回されて「うるさいわ」と腕を振り払う。

「雅が日に日に顔色が悪くなってる……今日は休ませてあげたい……そんなところでしょ?」
「……無理してるのバレバレやねん。ってか、雅って呼ぶな」
「まったく、素直じゃないんだから。でもさっきのはジョウが悪いよ。ちゃんと謝りな?」

◇◆◇

 六時間目が始まる前の休み時間。
 3年C組の生徒たちは、ゴールデンウィークを待ちきれない!というふうにわかりやすく浮き足立っていた。
 雅、ジョウ、ヤマトの3人を除いてーー。

「神崎さん、ゴールデンウィークは出かけるの?」
「……東京に行く予定なの」
「えー! いいな。原宿とか渋谷とか行って、服買うの憧れる〜」

 雅の隣の席は、ジョウだが、反対側の隣の席の女子は、田村るいというギャルだ。
 るいは、とにかくおしゃれが好きなようで、時々雅に東京で流行っているものを聞いてくる。
 今朝、話しかけられたときは、ゴールデンウィークは、ネイルをするのだと張り切っていた。
 るいは、雅に一方的に話しかけた後、東京に思いを馳せている。
 この間、雅は、クラスに少しずつ馴染んでいった。
 クラスの女子は「ひとりが好きな笑わない子」と、最初は雅と一線引いていた。
 けれど、今はるいのように、必要があれば話しかけてきて、他愛もない会話をする程度には距離が縮まっている。
 それは陰ながらフォローしてくれているジョウとヤマトのおかげであることも、雅はよく理解していた。
 3人の関係性にも変化があり、雅は「ヤマトくん」を「ヤマト」、「和田くん」を「ジョウくん」と呼ぶようになった。
 ヤマトは、雅のことを「神崎さん」から「雅ちゃん」と呼ぶようになった。
 ジョウは相変わらず雅のことを名前では呼ばなかったが、雅に自ら話しかけてくるようになった。 

「今日であの日からもう2週間かー。「白鳥雅」の件、早く解決したいね」

 六時間目の授業が始まる直前。
 ヤマトがコソコソっと2人に話を振る。
 雅は声をひそめて「ヤマト、生徒会の方はどう?」と質問した。
 ヤマトは、持ち前の明るさとその人脈で生徒会を使って「白鳥雅」について調べられないかとひとり動いてくれていたのだ。

「難航してる。ガードが固くてね」
「そう……」

 雅がしょぼんとすると「大丈夫! 俺に任せて!」とヤマトは雅の手を握った。
 すると「おい、ヤマト。近すぎや」とジョウがヤマトを引き剥がす。
 2人のやりとりを見て、雅はプイッと正面を向き直した。

「ジョウ、早く謝りなよ。雅ちゃん怒ってるよ」
「怒ってないわ」
「うるさいわ」

 雅とジョウが同時に言った後、六時間目のチャイムが鳴った。

◇◆◇

 放課後。
 今日はもう一つの学校へ行ったが、なんの収穫もないまま3人は帰路に着く。
 下駄箱を出ようとすると、ポツポツと雨が降り始めた。

「雨……」
「雅ちゃん、傘持ってきてる?」
「ええ」
「ジョウは?」
「あー、忘れたわ」
「じゃあ、雅ちゃんに駅まで入れてもらえよ! 俺は、お先!」
「え! 待って! ヤマト!」

 ヤマトは、2人を残して、雨の中、自転車に跨った。

「雅ちゃん、生徒名簿の件! クラス一、いや、中等部一人気者の俺に任せてよ!」

 そう言い残して、チャリンチャリンと帰ってしまった。
 自転車で、傘をさしてはいけないのに……。
 雅は、ジョウと2人きりになると、急に気まずくなった。
 なんだかソワソワして、何気なくポッケに手を入れると、なにかが入っている。
 取り出してみると、見たことのない丸くてかわいい黄色の手鏡だった。
 誰のものかしら。
 帰ったらちゃんと確認して、明日持ち主に返さなきゃ。
 手鏡をポッケに戻す。
 沈黙したまま、2分ほど経とうとしていた頃。
 ジョウの方から口火を切った。

「今朝は、言いすぎた」
「……」
「悪かった」
「……もういいわ。なんであんなこと言ったの?」
「お前、あんま眠れてないやろ」
「……え? なんでわかるの?」
「あんなことがあったんや。どうせ、帰っても考え事ばっかしてるやろ。今日は一段と顔色が悪かったから……早く帰って休んだ方がいいって思ってやな……」
「……それならそう言ってよ」
「お前がキレてさっさと教室に行ったんやろ」
「……そうだけど。ごめんなさい。嫌な態度とって……」
「そんなん気にすんな。てか、お前、駅まで親に迎えにきてもらえるんか?」
「……え? あ、うん。聞いてみるわ」
「ああ」
「……あ、お母さん、既読がついた。駅まで来てくれるって。自転車は置いて帰るから、駅まで一緒に行く?」

 ビュンビュン車が行き交う二車線の道路脇。
 2人が並べる広さの歩道を歩きながら、雅は後悔した。
 だって、人生初めての相合傘なのだ。
 相合傘といえば、女子校時代に友達とプロフィール帳のやりとりをして、ずっと空欄にしていたところだ。
 相合傘の三角から伸びる線の右と左に、自分と好きな相手の名前を書く。
 女子校の友達は、塾で好きな男の子がいて、書いている子もいたけれど…….。
 ジョウとの距離の近さに、緊張で手が震えそうになった。
 もう、なんで駅まで一緒に行こうなんて言っちゃったんだろう。
 雅は、ジョウが濡れないように傘を傾けた。
 右肩が雨に濡れて冷たい。
 すると「もう少しこっち来い」とジョウが雅の手ごと傘をグッと引き寄せた。

ーードキ、ドキ、ドキ、ドキ。

 鼓動が高鳴る。
 手は、重なったまま。
 ジョウにこの心音が伝わらないだろうかと、雅はビシャビシャと足音を立てた。
 駅に向かうには、長い橋を渡らなくてはならない。
 まだ橋の真ん中らへんだ。
 駅までもう少しある。
 そんな雅の気持ちも梅雨知らず「……秒速7メートルってところやな」とジョウがボソっとつぶやく。

「前も言ってたわよね。えっと……」
「秒速1.4〜1.8メートル?」
「そう。なんの速度の話をしていたの?」
「桜の花びらが落ちる速度や」

 雨の音で少し音が聞こえづらくなり、2人とも声が大きくなる。

「そういうことね。じゃあ、秒速7メートルは……」
「「雨粒が落ちる速度」」
「揃ったわね」
「……ああ」
「物体が落下するのを見ると、速さがわかるの?」
「……? どういう意味や?」
「桜がひらひら落ちるのを見て、秒速1.4〜1.8メートルってわかるんでしょ?」
「いや、見えるんや」
「どういうこと?」
「速度とか、温度とか、色とか……数字や記号に見えんねん」
「ジョウくんの見てる世界。どんな世界だろう……きっと美しい世界ね」
「お前、よくそんな恥ずかしいこと言えんな」
「だって、本当にそう思うもの」
「……コペルニクスの気持ちが少しくらいわかるだけや」
「それは、天動説が支持されていた時代に、地動説を唱えたけれど、周りには理解されなかった……みたいなこと?」
「……」

 ジョウは、黙って肯定も否定もしなかった。
 橋を渡りきって、雅は、無性にジョウを元気付けたいと思った。
 こんな気持ちは、久しぶりだった。
 転校してからずっと雅の力になってくれて、雅と一緒にいてくれたのは、ジョウとヤマトだ。
 自分もジョウの力になりたい。

「大丈夫よ、ジョウくん」

 雅は、突然、傘をジョウに押し付け、傘から抜け出した。
 そして、ジョウの前に立つ。

「おい! 濡れるって!」

 ジョウは、急いで雅をもう一度傘の中に入れようとする。
 だが、雅が手を前に突き出し、待てのポーズをした。
 すると、ジョウは雅の気持ちを尊重したのか、立ち止まる。
 
「私が一人三役こなすわ」
「なんの話や」
「地動説よ。ガリレオ、ケプラー、あとは、ニュートン」
「……」
「私が証明してみせるから」

 普段は、笑わない雅がふわっと微笑んだ気がした。
 雨の中、駅を背景にした雅の姿は、ジョウにスローモーションのように映った。
 ジョウは、すぐに我に返って、雅に駆け寄り、傘を傾ける。
 ポッケの中にあったハンカチを取り出すと、雅の頭と肩についた雨をやさしく拭いた。

「……はあ」

 ジョウが大きなため息をつく。

「どうしてため息?」
「濡れとるやないかい」
「……ごめんなさい」
「怒ってない」
「……ありがとう。ジョウくん」
「その呼び方」
「え?」
「ヤマトのことは、ヤマトって呼んでるやろ」
「……うん」
「ジョウな」
「え? ジョウ……」
「今後はそれで」

 ジョウは、ハンカチと傘を雅に押し付けて、駅まで走って行ってしまった。