昔の家らしいスライド式のドア。
あたりが暗くなり始めたからか、玄関前の灯りがピカピカっと灯る。
「ただいま」
「「おかえり〜」」
祖母と母の声が同時に聞こえた。
雅は手洗いうがいを済ませ、居間に移動する。
すると、すでに夕飯が準備されていた。
机の上には、白米、味噌汁、ぬか漬け、こんもり盛られた唐揚げ……豪華な食卓だ。
「おばちゃん、美味しそう」
「今日は雅ちゃんの好きな唐揚げ!」
「ありがとう」
「わ! 作りすぎじゃない? 雅、じいちゃん呼んできて。あ、あと箸もついでに持ってきて。あー待って! 麦茶もね!」
母ーー千里は、そそっかしい。
それに短気だ。
とにかく速く、仕事も家事も会話も済ませる。
「仕事はね、質よりも量よりも速さなのよ」が口癖。
離婚した父にはもちろん、雅にも、千里は常にスピードを求めた。
離婚の理由に、母の短気が含まれていると雅は踏んでいる。
けれど、父も母も詳しいことはなにも話さないので、雅も深くは聞かないでいた。
「あと、マヨネーズも必要よね」
雅は、居間から出るタイミングで千里に聞いた。
「さすが、先が読めてるじゃん!」
千里は、グッと親指を立てた。
雅だけが上品な言葉遣いをするのは、父親と通っていた女子校の洗礼である。
父は、東京生まれの東京育ち。
幼稚舎から大学まで、エスカレーター式で名門に通ったいわばエリートおぼっちゃまだ。
現在は、大手商社の人事部長。
「我が人生がひとつの正解」と思い込んでいる父は、娘の教育に大層熱心だった。
雅は、幼稚舎受験を父とともに乗り越え、父が選んだ都内の歴史ある女子校に入学した。
雅の同級生は、麻布十番に実家があり、親は社長で、毎朝駅まで送り迎えしてもらい、家の中でゴールデンレトリバーを3匹も飼うような本物のお嬢様。
この話し方は、初めての友達、ミクちゃんの真似をして染みついたもの。
「「「「いただきます」」」」
祖父と祖母と千里と雅。
今日から4人で食卓を囲む。
ーーバリっ!
千里が勢いよく唐揚げを口に放り込む。
雅は、音を立てないように静かに咀嚼した。
祖母の唐揚げは絶品だ。
表情豊かではない雅の顔がすぐにほころび、笑顔になってしまうくらいーー。
「雅ちゃんは、お上品に食べるんね!」
祖母が雅を褒めると、千里はムッとした。
「あの人のエゴよ」
もともとモラハラ気質だった父は、雅が女子校に通い始めてから、千里へのあたりをますます強めた。
「言葉遣いに気をつけろ」
「食べ方が下品だ」
「お前の血が流れているから雅の成績が悪い」
など……。
暴言や叱責で千里を追い詰めた。
逆も然り。
父と結婚したら家庭に入ると約束した千里だったが、専業主婦には早々に飽きて、雅が小学校に上がる頃にはデザイン事務所に復職した。
千里は、天真爛漫。
思い通りに生きられなければ性に合わないと、父との約束を破り続けた。
だが父にも原因はある。
父は丁寧な人で、時間にはとてもがつくほどルーズだった。
家族で出かけるとき、出発時間を守れないのは決まって父だった。
「ちんたらしないでよ」
「過ぎた時間は戻らないの!」
そうやって、千里によく小言を言われていた。
そのうち雅は、家族3人で暮らすことや両親の言い合いに慣れてしまって、自分の気持ちなどどこにあるかわからなくなってしまった。
母・千里から「離婚する」と聞いたとき、特に反対もしなかったし、引っ越すことを告げられたときも受け入れた。
そういったことすべてに疲れてしまったのだ。
「……雅ちゃん、学校はどうだった? 楽しかったかい?」
咀嚼音だけになっていた食卓。
そこに、祖父がそっとやさしい言葉のボールを投げてくれる。
雅は、祖父の気遣いに心の中で感謝した。
「初日だから、まだわからないけれど、クラスのみんなも先生もいい人よ」
「そっかそっか。よかったねえ」
「中3で転校なんて、前の学校の友達が悲しんだんじゃないかい?」
「ええ……でも、大丈夫よ。携帯で通話も簡単にできるし」
「お母ちゃんは、ほんと余計なことばっか言うんだから! 中3で公立に行ったらすぐに卒業でしょ? だから、雅のために中高一貫を選んだのよ! それに雅と話して、月に一度は東京に行くことになってるから」
娘が少しでも悲しまない方法を千里なりに模索した結果がこの状況なのだ。
千里は父とは正反対なので学校のことなど興味がないと思っていたが、私立織姫学園を選んだのは、千里だった。
雅は中3。
千里の配慮に気づかなかったわけではないが、千里がなぜ中高一貫校を選んだのか、口に出したのは初めてだった。
「おばあちゃんは、心配してくれているのよね。ありがとう。私は大丈夫よ」
「ごめんね。おばちゃん、雅ちゃんが心配で」
「本当に大丈夫なのよ」
「ほら、雅ちゃんがこう言ってるんだから。冷めないうちに食べよう」
祖父が再び助け舟を出して、その場を和ませてくれた。
◇◆◇
茶色の木の扉の前。
雅はノックを試みたが部屋の中から大きな声がして手を止めた。
「いい加減にしてよ! 何度も話し合ったでしょ」
おそらく部屋の中の千里と電話で口論しているのは、父だろう。
ああ、まただ。
きっと、自分のことで言い合いになっているのだと、雅は膝から下が震えた。
両親の口論を聞くと、こうやって動けなくなってしまう。
自分は弱い人間だから。
やがて、千里が電話を切ったことがわかると、その震えも止まった。
どれくらいそこに立ち尽くしていたかわからない。
やっと落ち着き、母に用事があったことを思い出して、雅はコンコンコンと3回ノックした。
「はーい」
「……お母さん、入ってもいい?」
「もちろん」
応答を待ってから、ガチャリとドアを開ける。
千里はデスクに向かってパソコンと睨めっこしていた。
デザイナーの千里は、パソコンさえあれば全国各地どこでも働ける。
祖父母宅の2階の突き当たりが、千里の仕事部屋になった。
元々は、母の弟ーー六朗おじちゃんの部屋だったらしい。
次男なのに、六朗。
「仕事中?」
「あー、うん。昨日、一昨日と引越しで潰れちゃったから」
「……そうよね」
千里は、パソコンに向かったまま。
雅に背中を向けて会話した。
散らかった母らしい仕事部屋。
ぐちゃぐちゃしていて、整理されていない。
けれど、宝物箱の中のようで、さっきの口論のことなどなかったことのように、雅はときめいた。
父と暮らしていたときは、整理整頓された仕事部屋だったからーー。
作業が少し落ち着いたのか、千里がくるりと振り向く。
「あー、ごめんごめん。どうしたの?」
ダークブラウンの長い髪をかきあげて、立ちっぱなしの雅を上から下までパパッと見た。
こんな仕草も千里らしい。
「雅、制服似合ってるね」
「……そう?」
「セーラー服も似合ってたけど、ブレザーもいいね。雅のための制服って感じ」
「……それは言い過ぎよ」
「あとは……痩せた?」
「体重を測ってないから……」
「中学生なんてぱっつぱつに太った方がいいの! お弁当の量、増やす?」
「今の量で十分よ。転校と引っ越しで……やつれたのかも」
「え!? 中学生がやつれるなんてことある!?」
時間第一の千里がこうやって一見意味がなさそうな会話をしてくれる時間が雅は好きだった。
ふうっと肩の力が抜けて、まだ自分の体は固くなっていたのだと気づく。
「それで、なにかあった?」
「あ。DICを見せてほしいの」
「え? ディック? ああ、DICね」
千里は、引き出しから短冊が重なった分厚いカラーガイドーーDICを雅に手渡した。
「なにに使うの?」
「調べたい色があって」
「調べたい色?」
「DIC-582よ」
「DIC-582……黒じゃない?」
「黒? あ、ほんとだわ」
手元で扇のようにカラーガイドを広げてみる。
たしかに、DIC-582は濃い黒を示していた。
「ね、黒でしょ」
「ええ」
「DIC-582がどうしたの?」
「クラスの男子に言われたの」
「なんて?」
「DIC-582って」
「なにが?」
「わからないわ」
「ははは!」
「いきなり笑ってどうしたの?」
「その子、面白い子ね」
「そう……?」
「お母さん、わかっちゃった」
「え? なに?」
「その男子。イケてる。今度、連れてきなさいよ」
「どういう意味?」
「雅、これは自分で解明した方がいいわよ。あ、雅語が移っちゃった。ははは」
あたりが暗くなり始めたからか、玄関前の灯りがピカピカっと灯る。
「ただいま」
「「おかえり〜」」
祖母と母の声が同時に聞こえた。
雅は手洗いうがいを済ませ、居間に移動する。
すると、すでに夕飯が準備されていた。
机の上には、白米、味噌汁、ぬか漬け、こんもり盛られた唐揚げ……豪華な食卓だ。
「おばちゃん、美味しそう」
「今日は雅ちゃんの好きな唐揚げ!」
「ありがとう」
「わ! 作りすぎじゃない? 雅、じいちゃん呼んできて。あ、あと箸もついでに持ってきて。あー待って! 麦茶もね!」
母ーー千里は、そそっかしい。
それに短気だ。
とにかく速く、仕事も家事も会話も済ませる。
「仕事はね、質よりも量よりも速さなのよ」が口癖。
離婚した父にはもちろん、雅にも、千里は常にスピードを求めた。
離婚の理由に、母の短気が含まれていると雅は踏んでいる。
けれど、父も母も詳しいことはなにも話さないので、雅も深くは聞かないでいた。
「あと、マヨネーズも必要よね」
雅は、居間から出るタイミングで千里に聞いた。
「さすが、先が読めてるじゃん!」
千里は、グッと親指を立てた。
雅だけが上品な言葉遣いをするのは、父親と通っていた女子校の洗礼である。
父は、東京生まれの東京育ち。
幼稚舎から大学まで、エスカレーター式で名門に通ったいわばエリートおぼっちゃまだ。
現在は、大手商社の人事部長。
「我が人生がひとつの正解」と思い込んでいる父は、娘の教育に大層熱心だった。
雅は、幼稚舎受験を父とともに乗り越え、父が選んだ都内の歴史ある女子校に入学した。
雅の同級生は、麻布十番に実家があり、親は社長で、毎朝駅まで送り迎えしてもらい、家の中でゴールデンレトリバーを3匹も飼うような本物のお嬢様。
この話し方は、初めての友達、ミクちゃんの真似をして染みついたもの。
「「「「いただきます」」」」
祖父と祖母と千里と雅。
今日から4人で食卓を囲む。
ーーバリっ!
千里が勢いよく唐揚げを口に放り込む。
雅は、音を立てないように静かに咀嚼した。
祖母の唐揚げは絶品だ。
表情豊かではない雅の顔がすぐにほころび、笑顔になってしまうくらいーー。
「雅ちゃんは、お上品に食べるんね!」
祖母が雅を褒めると、千里はムッとした。
「あの人のエゴよ」
もともとモラハラ気質だった父は、雅が女子校に通い始めてから、千里へのあたりをますます強めた。
「言葉遣いに気をつけろ」
「食べ方が下品だ」
「お前の血が流れているから雅の成績が悪い」
など……。
暴言や叱責で千里を追い詰めた。
逆も然り。
父と結婚したら家庭に入ると約束した千里だったが、専業主婦には早々に飽きて、雅が小学校に上がる頃にはデザイン事務所に復職した。
千里は、天真爛漫。
思い通りに生きられなければ性に合わないと、父との約束を破り続けた。
だが父にも原因はある。
父は丁寧な人で、時間にはとてもがつくほどルーズだった。
家族で出かけるとき、出発時間を守れないのは決まって父だった。
「ちんたらしないでよ」
「過ぎた時間は戻らないの!」
そうやって、千里によく小言を言われていた。
そのうち雅は、家族3人で暮らすことや両親の言い合いに慣れてしまって、自分の気持ちなどどこにあるかわからなくなってしまった。
母・千里から「離婚する」と聞いたとき、特に反対もしなかったし、引っ越すことを告げられたときも受け入れた。
そういったことすべてに疲れてしまったのだ。
「……雅ちゃん、学校はどうだった? 楽しかったかい?」
咀嚼音だけになっていた食卓。
そこに、祖父がそっとやさしい言葉のボールを投げてくれる。
雅は、祖父の気遣いに心の中で感謝した。
「初日だから、まだわからないけれど、クラスのみんなも先生もいい人よ」
「そっかそっか。よかったねえ」
「中3で転校なんて、前の学校の友達が悲しんだんじゃないかい?」
「ええ……でも、大丈夫よ。携帯で通話も簡単にできるし」
「お母ちゃんは、ほんと余計なことばっか言うんだから! 中3で公立に行ったらすぐに卒業でしょ? だから、雅のために中高一貫を選んだのよ! それに雅と話して、月に一度は東京に行くことになってるから」
娘が少しでも悲しまない方法を千里なりに模索した結果がこの状況なのだ。
千里は父とは正反対なので学校のことなど興味がないと思っていたが、私立織姫学園を選んだのは、千里だった。
雅は中3。
千里の配慮に気づかなかったわけではないが、千里がなぜ中高一貫校を選んだのか、口に出したのは初めてだった。
「おばあちゃんは、心配してくれているのよね。ありがとう。私は大丈夫よ」
「ごめんね。おばちゃん、雅ちゃんが心配で」
「本当に大丈夫なのよ」
「ほら、雅ちゃんがこう言ってるんだから。冷めないうちに食べよう」
祖父が再び助け舟を出して、その場を和ませてくれた。
◇◆◇
茶色の木の扉の前。
雅はノックを試みたが部屋の中から大きな声がして手を止めた。
「いい加減にしてよ! 何度も話し合ったでしょ」
おそらく部屋の中の千里と電話で口論しているのは、父だろう。
ああ、まただ。
きっと、自分のことで言い合いになっているのだと、雅は膝から下が震えた。
両親の口論を聞くと、こうやって動けなくなってしまう。
自分は弱い人間だから。
やがて、千里が電話を切ったことがわかると、その震えも止まった。
どれくらいそこに立ち尽くしていたかわからない。
やっと落ち着き、母に用事があったことを思い出して、雅はコンコンコンと3回ノックした。
「はーい」
「……お母さん、入ってもいい?」
「もちろん」
応答を待ってから、ガチャリとドアを開ける。
千里はデスクに向かってパソコンと睨めっこしていた。
デザイナーの千里は、パソコンさえあれば全国各地どこでも働ける。
祖父母宅の2階の突き当たりが、千里の仕事部屋になった。
元々は、母の弟ーー六朗おじちゃんの部屋だったらしい。
次男なのに、六朗。
「仕事中?」
「あー、うん。昨日、一昨日と引越しで潰れちゃったから」
「……そうよね」
千里は、パソコンに向かったまま。
雅に背中を向けて会話した。
散らかった母らしい仕事部屋。
ぐちゃぐちゃしていて、整理されていない。
けれど、宝物箱の中のようで、さっきの口論のことなどなかったことのように、雅はときめいた。
父と暮らしていたときは、整理整頓された仕事部屋だったからーー。
作業が少し落ち着いたのか、千里がくるりと振り向く。
「あー、ごめんごめん。どうしたの?」
ダークブラウンの長い髪をかきあげて、立ちっぱなしの雅を上から下までパパッと見た。
こんな仕草も千里らしい。
「雅、制服似合ってるね」
「……そう?」
「セーラー服も似合ってたけど、ブレザーもいいね。雅のための制服って感じ」
「……それは言い過ぎよ」
「あとは……痩せた?」
「体重を測ってないから……」
「中学生なんてぱっつぱつに太った方がいいの! お弁当の量、増やす?」
「今の量で十分よ。転校と引っ越しで……やつれたのかも」
「え!? 中学生がやつれるなんてことある!?」
時間第一の千里がこうやって一見意味がなさそうな会話をしてくれる時間が雅は好きだった。
ふうっと肩の力が抜けて、まだ自分の体は固くなっていたのだと気づく。
「それで、なにかあった?」
「あ。DICを見せてほしいの」
「え? ディック? ああ、DICね」
千里は、引き出しから短冊が重なった分厚いカラーガイドーーDICを雅に手渡した。
「なにに使うの?」
「調べたい色があって」
「調べたい色?」
「DIC-582よ」
「DIC-582……黒じゃない?」
「黒? あ、ほんとだわ」
手元で扇のようにカラーガイドを広げてみる。
たしかに、DIC-582は濃い黒を示していた。
「ね、黒でしょ」
「ええ」
「DIC-582がどうしたの?」
「クラスの男子に言われたの」
「なんて?」
「DIC-582って」
「なにが?」
「わからないわ」
「ははは!」
「いきなり笑ってどうしたの?」
「その子、面白い子ね」
「そう……?」
「お母さん、わかっちゃった」
「え? なに?」
「その男子。イケてる。今度、連れてきなさいよ」
「どういう意味?」
「雅、これは自分で解明した方がいいわよ。あ、雅語が移っちゃった。ははは」


