神の手と呼ばれた私は、今日も旦那様を寝落ちさせたい ~極上ヘッドスパで癒していたら、旦那様が極上スパダリに進化しました~

 「――浮かべ」

 低い声が、耳を打った。
 次の瞬間、落ちていたはずの身体がぴたりと止まる。

 「……え?」

 足は階段にも床にも触れていない。
 シエラの身体は宙に浮いたまま、見えない何かに引かれるように滑っていく。

 「……!」

 そして気づいた時には、テオドアの腕の中に抱き留められていた。

 「……何をやっているんだ」

 呆れたような低い声が、すぐ近くから落ちてきた。
 シエラは答えることも忘れて、思わず顔を上げる。

 結婚して半年。こんなにも間近で、夫の顔を正面から見るのは初めてだった。

 長い黒髪の隙間から、深い紫色の瞳がこちらを見下ろしている。頬はひどくこけ、肌も血の気を失ったように青白い。
 けれど、シエラの目を何よりも引きつけたのは、その目元だった。

 (……ひどいクマ)

 目の下には、まるで眠ることを忘れてしまったかのような、異様なほど濃い隈が広がっている。
 それを見た瞬間、シエラの中で何かがざわめいた。

 (これ……ただの寝不足じゃない)
 長いあいだ、まともに眠れていない人の顔。
 
 気づけば、視線が勝手に彼の顔を追っていた。
 こめかみから耳の上、そして首筋へ。どこを見ても、ひどく強張っているように思えた。
 
 どうしてそんなことが分かるのかは、自分でも分からない。
 ただ、その張りつめたものをどうにかして緩めたい――そんな衝動だけが、妙にはっきりと胸に浮かんだ。
 
 「……?」

 戸惑った、その時。
 ふいに、数年前の光景が脳裏をよぎった。

 エリザの魔力調律を受けるため、カーティス家を訪れた魔術師。
 施術を終えたあとも、まだ疲れを残していた横顔。
 あの時も、同じように思った。

 もっと流して。
 もっと、ほぐして。

 次の瞬間、頭の奥を白い閃光が貫いた。
 忘れていた何かが、奔流のように押し寄せてくる。
 
 目の前の景色が、ぐにゃりと揺らいだ。

 次の瞬間、見覚えのないはずの光景が脳裏に浮かぶ。
 知らない街。見たことのない服。柔らかな明かりに包まれた、静かな部屋。
 施術台に横たわる人の頭へ、誰かの手が触れていた。

 指先がこめかみを捉え、硬くなった頭皮をゆっくりとほぐしていく。
 百会、風池、天柱、側頭筋――聞いたこともないはずの名前が、次々と頭へ浮かんだ。
 やがて相手の呼吸が深くなり、穏やかな寝息へ変わっていく。

 『こんなに眠れたの、久しぶりです』
 『あなた、本当に神の手ですね』

 その言葉を向けられているのは――かつての自分だった。

 「……あ」

 ばらばらだった記憶が、ひとつにつながった。

 日本という国で生きていたこと。
 そこで、疲れ切った人たちの頭をほぐし、心と身体を癒す仕事をしていたこと。

 前世の自分は――ヘッドスパニストだった。
 
 シエラは、自分を抱き留めているテオドアを見上げる。
 人々から畏れられているその顔が、今のシエラにはただ、癒しを必要としている人の顔に見えた。

 魔力は少ない。魔力調律も使えない。
 何の才能もなく、何の役にも立たないのだと、ずっとそう思っていた。

 (でも……私にも、できることがある)

 そう気づいた途端、考えるより先に身体が動いた。
 シエラは両手を伸ばし、テオドアの頭へ触れる。

 「な……っ」

 突然のことに、テオドアが目を見開いた。
 周囲の使用人たちからも、小さなどよめきが漏れる。

 けれど、今のシエラには気にしている余裕などなかった。
 黒髪へ指を差し入れ、こめかみのあたりから頭皮、首元へと視線を滑らせる。
 触れた瞬間、忘れていた感覚が鮮明に戻ってきた。

 (できる)

 その瞬間だけは、何の迷いもなかった。
 十八年間失っていた自信が、指先から一気に蘇る。

 (私なら、この人を眠らせてあげられる)

 「おい、一体何を……」
 「旦那様」
 「……なんだ」

 シエラは顔を上げた。
 長い前髪の隙間から覗いた緑の瞳には、これまでになかった確かな光が宿っている。

 「今夜、私の部屋に来てください」
 「……は?」

 玄関ホールが静まり返った。
 けれど、シエラは構わずテオドアだけを真っすぐに見つめる。

 「私が、あなたを寝落ちさせてみせます」