神の手と呼ばれた私は、今日も旦那様を寝落ちさせたい ~極上ヘッドスパで癒していたら、旦那様が極上スパダリに進化しました~

 それから、半年近くが過ぎた。
 ミューゼル公爵邸での暮らしは、拍子抜けするほど穏やかだった。

 毎日きちんとした食事が出る。
 使用人たちに罵られることもなければ、床へ落とされた食事を拾わされることもない。

 与えられた部屋はいつもきれいに整えられ、窓辺には季節の花が飾られていた。
 カーティス家で押し込められていた離れのような、かび臭い薄暗さもない。

 シエラ付きの侍女となったマリーも、ごく当たり前のように彼女を「奥様」と呼んだ。

 けれど、それだけで十年間染みついたものが消えるわけではなかった。
 使用人と廊下ですれ違えば、反射的に俯いてしまう。
 誰かの視線を感じれば、前髪がずれていないかばかりが気になる。

 マリーが優しく話しかけてくれても、どう返せばいいのか分からず、短い返事をするのが精いっぱいだった。
 結局、シエラは一日の大半を自室で過ごすようになった。

 テオドアとも、ほとんど顔を合わせていない。
 仕事で屋敷を留守にする日が多く、帰宅しても互いの生活へ踏み込むことはなかった。
 夫婦というより、同じ屋敷に暮らす他人に近い。
 初夜に言われた通りだった。
 
 シエラは確かにミューゼル公爵夫人になった。
 それでも、自分がテオドアの妻なのだという実感は、半年経った今もほとんどなかった。

 *
 
 その日、シエラは自室で夕食を済ませたあと、窓辺の椅子で本を眺めていた。
 外にはまだわずかに夕暮れの名残が残っている。
 すると、扉が控えめに叩かれた。

 「失礼いたします」

 入ってきたマリーが、少しだけ頭を下げる。

 「奥様。旦那様がお戻りになりました」
 「……分かりました」

 身体が僅かに強張った。
 半年経っても、夫を前にすると何を話せばいいのか分からない。
 それでも公爵夫人である以上、帰宅した夫を出迎えるくらいはしなければ。

 シエラは鏡の前に立った。
 乱れた髪を整え、長い前髪をいつもより念入りに下ろす。
 これなら、顔はほとんど見えない。
 そう確かめてから、マリーとともに玄関ホールへ向かった。

 使用人たちはすでに主人を迎えるため、玄関前に並んでいた。
 シエラが二階から姿を現すと、何人かが何気なくこちらを見上げる。
 ただ、それだけのことだった。
 けれど、向けられた視線に身体が強張る。

 『醜い顔』
 『私たちの前で顔を上げないで』
 『暗くて気味が悪いわ』
 かつて浴びせられた言葉が、頭の中で次々と蘇った。

 (嫌……)

 呼吸が浅くなる。
 前髪の奥へ隠れるように、シエラはさらに俯いた。

 (お願い。私を見ないで)

 その時、玄関扉が開いた。

 「おかえりなさいませ」

 使用人たちが一斉に頭を下げる。
 外から入ってきたのは、テオドアだった。
 黒い外套を羽織っていても、その身体の細さは隠しきれない。足取りにも、どこか疲れが滲んでいた。
 
 公爵夫人として、せめてきちんと迎えなければ。
 そう思ったシエラは、慌てて階段を下り始めた。

 けれど、その焦りが災いした。
 数段下りたところで、靴先がドレスの裾を踏む。

 「……っ」

 身体が大きく傾く。
 踏み外した足が、宙を切った。

 (落ちる)

 視界いっぱいに、階段が迫った。
 悲鳴を上げる間もない。

 けれど不思議と、恐怖より先に胸へ浮かんだのは諦めだった。

 (私、こんなにあっけなく死ぬんだ)

 何もできなかった。

 妻になって半年も経つのに、夫のために何ひとつできないまま。
 結局、自分は最後まで――。