神の手を持つ私は、今日も旦那様を寝落ちさせたい ~極上ヘッドスパで癒していたら、旦那様が極上スパダリに進化しました~

 「……え」
 
 掴まれたままの手首。
 すぐそばにある身体の熱。
 
 「こういうことになるとは思わないのか?」
 「こ、こういうことって……」
 
 そこまで口にして、ようやく意味が追いつく。
 一気に頬が熱くなった。
 
 「だ、旦那様……?」
 
 けれどテオドアは離れない。
 間近にある紫の瞳は、いつもより熱を帯びているように見えた。
 その視線が、ゆっくりとシエラの唇へ落ちる。
 途端に、心臓が激しく鳴り始めた。
 
 ((もしかして、これって――)

 不意に、結婚初夜の言葉が蘇る。
 『君に夫婦らしい関係を求めるつもりはない』
 
 だから、自分たちの間には、こんなことは起こらないと思っていた。
 ずっと、そう思っていたのに。
 
 テオドアの顔が、ゆっくりと近づいてくる。
 シエラは動けなかった。

 怖いとは思わなかった。
 嫌でもない。
 逃げたいとも、思わなかった。

 気づけば、シエラはそっと瞼を伏せていた。
 あと少しで、唇が触れる——そう思った、その瞬間だった。
 
 テオドアの動きが止まった。

 「……?」

 先ほどまで熱を帯びて見えた紫の瞳が、不意に揺れる。
 何かを思い出したように、その表情が苦しげに歪んだ。

 「……旦那様?」

 呼びかけても、返事はない。
 テオドアは何かと葛藤するようにシエラを見つめていたが、やがて静かに身体を起こした。
 すぐそばにあった温もりが、離れていく。

 「……すまない」
 「え……?」

 掴まれていた手も解かれる。
 シエラは寝台の上で身体を起こしたものの、何が起きたのかすぐには理解できなかった。

 「旦那様……?」
 「今日はもういい」
 「でも、まだヘッドスパをしてません」
 「大丈夫だ」

 テオドアはこちらを見ない。
 その横顔を見ているうちに、さっきまであれほど騒がしかった胸の内が、今度はゆっくりと冷えていった。

 (……そっか)

 きっと今のは、ほんの気の迷いか何かだったのだ。
 自分は、彼が望んで迎えた妻ではない。
 ――途中で、そのことを思い出したのだろう。

 「……分かりました」

 できるだけ、いつも通りの声を出した。

 「おやすみなさい、旦那様」
 「……ああ」

 シエラは静かに寝台を降り、そのまま扉へ向かった。
 振り返れば、何かが顔に出てしまいそうで。
 一度も、テオドアの方を見ることはできなかった。

 *
 
 扉を閉めると、静まり返った廊下に一人きりになった。
 シエラは歩き出しながら、そっと胸元へ手を当てる。
 
 まだ鼓動は速いままだったけれど、先ほどまでの高鳴りとは違っていた。
 今は、息をするたびにどこかをきゅっと締めつけられるように痛む。

 (……どうして)

 最初から分かっていたことなのに。
 テオドアは、自分に夫婦らしい関係を望んでいない。最初はそのことに安心していたはずだった。
 それなのに、あと少しで触れそうだった唇も、自分だけを映していた紫の瞳も、寸前で離れていった温もりも――遠ざかってしまったことが、どうしようもなく寂しい。

 (私……)
 
 廊下の途中で、足が止まる。
 
 こんな気持ちは知らない。
 知らないはずなのに――。
 
 (どうして、こんなに悲しいの?)