神の手と呼ばれた私は、今日も旦那様を寝落ちさせたい ~極上ヘッドスパで癒していたら、旦那様が極上スパダリに仕上がっていました~

 朝の食堂には、焼きたてのパンの香ばしい匂いが満ちていた。卵料理に肉、色鮮やかな果物まで並び、白い皿の上には惜しみなく料理が盛られている。
 その食卓を囲んでいるのは、カーティス家当主・アルベルトと、その妻・ベアトリス。そして娘のエリザだった。
 
 一方、同じくカーティス家の娘であるはずのシエラは――少し離れた場所に立っていた。
 彼女の前には皿もなければ、椅子もない。
 まるで初めから、そこにシエラの席など存在しなかったかのように。

 身にまとっているのは、何年も着古した色褪せたドレスだった。
 長く伸びた亜麻色の前髪は俯いた顔へ落ち、その顔をほとんど隠している。
 シエラはその裾をそっと握りしめたまま、耐えるように息を潜めていた。
 
 昨夜から、何も口にしていない。温かな料理の匂いを吸い込むたび、空っぽの胃がきゅう、と縮むようだった。
 気づかれないように息を浅くした、その時だった。
 
 くう、と小さな音が鳴った。

 「あら」

 楽しげな声に、シエラの肩がぴくりと揺れる。
 顔を上げなくても分かる。エリザだ。

 「お腹が空いたの?」

 シエラは答えなかった。
 何を言っても、ろくなことにはならない。そう学ぶまでに、もう十分すぎるほどの時間が経っていた。

 しばらくして、皿の触れ合う音に混じって、エリザが籠から何かを取り出す気配がする。
 次の瞬間、小さなパンがひとつ床へ落ちた。
 それは絨毯の上を転がり、シエラのつま先のすぐ前で止まる。

 「ほら、恵んであげる。今日の食事よ」

 胸の奥に、鈍い痛みが落ちた。
 それでもシエラは何も言わず、ゆっくりと膝を折る。

 「……いただきます」

 指先がパンへ触れようとした、その時。
 頭上から、ざばりと冷たい水が降ってきた。

 「……っ」

 思わず息を呑む。
 水は髪を濡らし、額から頬へ、さらに首筋を伝ってドレスの襟元へ染み込んでいった。
 全身を走る寒気に、身体が強張る。

 「あら、ごめんなさい。手が滑ったわ」

 くすくすと笑う声が降ってくる。
 エリザの手には、空になったグラスが握られていた。

 水を吸った前髪が額へ張りつき、視界を塞ぐ。
 反射的にそれを横へ払おうとして――。

 「ちょっと、やめてよ」

 先ほどまで楽しそうだったエリザの声が、一転して冷えた。
 シエラの手が止まる。

 「そんな醜い顔を見ながらじゃ、せっかくの食事が喉を通らないじゃない」

 身体が小さく縮こまる。

 「ああ、本当に忌々しい」

 ベアトリスもナプキンで口元を拭いながら、露骨な嫌悪を浮かべてシエラを見た。

 「あなたの顔を見ると、あの女を思い出すわ」

 その時、ふと視線を感じた。

 恐る恐る目だけを上げると、食卓の上座にいるアルベルトと目が合った。
 昔なら、ほんの少しでも、何か言ってくれるのではないかと期待したかもしれない。
 けれど、今のシエラはもう知っている。
 
 案の定、アルベルトは何も言わなかった。視線を皿へ戻し、何事もなかったかのように食事を続ける。

 シエラは濡れた前髪をそっと元の位置へ戻し、いつもより深く俯いた。
 仕方がない。自分は醜く、何の取り柄もないのだから。

 この食卓に座っていた頃の記憶は、今ではもう遠く色褪せていた。