神の手と呼ばれた私は、今日も旦那様を寝落ちさせたい ~極上ヘッドスパで癒していたら、旦那様が極上スパダリに進化しました~

 「私が、あなたを寝落ちさせてみせます」

 静まり返った玄関ホールに、シエラの声だけがはっきりと響いた。

 テオドアはしばらく何も言わなかった。
 深い紫の瞳が、理解の追いつかないものを見るようにシエラへ向けられている。

 「……一体、何を言っている?」

 ようやく返ってきた言葉に、シエラはすっと背筋を伸ばした。

 「今宵、旦那様を寝落ちさせてみせます、と」
 「寝落ち……?」
 「はい!」

 テオドアの眉間に、ますます深い皺が刻まれる。

 けれど、今のシエラにはその反応を気にする余裕などなかった。
 十八年間、自分には何もないと思っていた。その手の中へ、失っていたものがようやく戻ってきたのだ。

 「ですので今夜、必ず私の部屋へ来てくださいね!」

 一方的に言い切ったところで、シエラはようやく、自分がまだ彼の腕の中にいたことに気づいた。
 慌てて身体を離し、乱れたドレスの裾を整える。

 「それと――助けてくださって、ありがとうございました!」

 深く頭を下げると、そのまま踵を返した。
 先ほどまで階段の上で人目に怯えていたことなど忘れたように、亜麻色の髪を揺らしながら足早に立ち去っていった。

 *

 テオドアは、その背中が廊下の向こうへ消えてからもしばらく動かなかった。

 「……あれは、誰だ?」
 「奥様ですよ、旦那様」

 すぐ後ろから返ってきた声に、テオドアがわずかに眉を寄せる。
 振り返れば、いつの間に来たのか、側近のアルバが立っていた。淡い茶色の髪に、いつも細められた目。口元には、相変わらず柔らかな笑みが浮かんでいる。

 「分かっている」

 テオドアは短く返すと、シエラが消えていった廊下の先へもう一度目を向けた。

 「ただ――あんな女では、なかったはずだ」
 「ええ。随分と雰囲気が変わられましたね」

 アルバも同じ方角を見る。

 「これまでは、ほとんど顔を上げることもありませんでしたから」

 テオドアは何も答えず、そのまま自室へ向かって歩き出した。
 アルバも慣れた様子で、その半歩後ろをついていく。

 「それで、今夜は行かれるんですか?」
 「行くわけがない」
 「でも、今夜も眠れないでしょう?」

 テオドアの足が止まった。

 「奥様は随分と自信がおありでしたから。騙されたと思って、一度くらい試されては?」

 『私が、あなたを寝落ちさせてみせます』
 あれほど迷いのない目を向けられたのは、いつ以来だっただろう。

 (……どうせ、何をしても無駄だ)

 テオドアは答えず、しばらく廊下の先を見つめていた。
 やがて、小さく息を吐く。

 「……一度だけだ」

 アルバが目を瞬く。

 「今夜、部屋へ行く」

 すると、細められた目のまま、アルバの口元だけがわずかに緩んだ。

 「承知しました」

 その声音が妙に楽しげだったことには、気づかないふりをした。