僕らは3人だった 夜が明けるまで

翌朝、海人はいつもより十分ほど早く家を出た。

「あれ?もう出るの?」

玄関で靴を履いていると、キッチンから母親が顔を覗かせた。
海人は「別に」とだけ答えて立ち上がる。

昨夜はほとんど眠れなかった。
目を閉じるたびに思い出すのは、腕を掴まれただけで大きく身体を震わせた陽菜と、そのあと無理やり作った笑顔だった。

「忘れ物ない?」

「ないって」

「ほんとに?」

「子ども扱いすんな」

「13歳は子どもです」

「はいはい」

呆れながら扉を開ける。
すると背後から、いつもの声が追いかけてきた。

「海人、いってらっしゃい」

振り返れば、母親はもう朝食の後片づけに戻っている。
毎朝繰り返される、何でもないやり取りだった。

「……いってきます」

家を出ると、冬の空気が頬に冷たかった。
歩きながら、海人は昨夜考えたことをもう一度整理した。

陽菜はおかしい。
叔父もおかしい。
けれど、自分はまだ何が起きているのかを正確には知らない。
だからまず涼と話す。
それから陽菜本人に聞く。
それでも何か隠しているようなら、先生でも両親でもいい。
大人に相談する。

13歳の自分に何ができるのかは分からない。
それでも、昨日の陽菜の「大丈夫」を、そのまま信じて終わらせることだけはしたくなかった。
         

いつもの角には、すでに涼がいた。

「おはよ。今日早いな」

「海人もね」

海人は陽菜がまだ来ていないことを確認すると、すぐに切り出した。

「涼。昨日の陽菜のことだけど」 

涼の表情から、わずかに笑みが消えた。

「……うん」

「お前も見ただろ。俺が腕掴んだとき」

「見たよ。僕も気になってた」

「今日、ちゃんと聞くからな」

涼は少しだけ困ったような顔をした。

「陽菜、嫌がるんじゃない?」

「嫌がっても。
もし叔父さんが何かしてるんだったら、俺らだけでどうにかする話じゃない。
先生でも親でも、誰か大人に言う」

「でも、何もなかったら?」


「そんときは俺が謝る」 

「叔父さんと陽菜の関係、悪くなるかもしれないよ」

「それでも」

迷いのない返事だった。
涼はしばらく海人を見つめ、それから小さく息を吐いた。

「海人はすごいな」

「何が」

「そういうの、すぐ決められて」

海人には、その言葉の意味がよく分からなかった。

「決めるだろ。
陽菜に何かあってからだったら遅いし」

「……僕は、陽菜が嫌って言ったら無理だと思う」

「なんで」

「陽菜のことだから」

「陽菜のことだからこそだろ」

涼は答えなかった。
そのとき、遠くから聞き慣れた声がした。

「2人ともー!」

振り向けば、陽菜がこちらへ走ってくる。

「おはよう! 2人とも今日早いね!」

「走るな。転ぶ」

「大丈夫!」

「お前の大丈夫はもう信用できない」

思わず海人が返すと、陽菜はきょとんとしたあと、「ひどい!」と笑った。
涼も笑う。
いつもの3人になった。
だから、その場では何も言えなかった。

         
昼休み、3人は人目の少ない校舎裏へ行った。
冬の風が冷たい。
陽菜はマフラーへ顎を埋めながら、不思議そうに2人を見比べている。

「2人ともどうしたの? なんか怖いんだけど」

海人は回りくどい言い方をしなかった。

「昨日の腕」

陽菜の表情が変わった。

「……腕?」

「見せてほしい」

昨日とは違って、命令するつもりはなかった。
海人がそう言うと、涼も隣から静かに続けた。

「嫌だったら無理にとは言わない。
でも僕も心配なんだよ。何もないなら、それでいいから」

陽菜はしばらく黙っていた。
やがて周囲に誰もいないことを確認してから、制服の袖をゆっくり捲った。

薄くなってはいた。
それでも、白い腕にはまだ指の形が分かる程度の痕が残っていた。

涼の顔から笑みが消えた。
海人も、すぐには何も言えなかった。
陽菜は逃げるように袖を戻した。

「違うからね。叔父さんが何かしたとかじゃないから」

「じゃあ、それ何」

「私がお皿を割ったの。
怪我しそうになったから、叔父さんが止めてくれて……。
ちょっと強く掴んじゃっただけ」

「ちょっとで痕残る?」

「怒ってたから」

「なんで皿割っただけでそこまで怒られるんだよ」

「海人くん!」

陽菜の声が鋭くなった。

「叔父さんも疲れてたの! 
仕事して帰ってきて、私のことまで面倒見てるんだから!」

海人は一瞬黙った。
それでも、引かなかった。

「それと、お前の腕に痕つけていいかどうかは別だろ」

「違うの!」

「何が違うんだよ」

「私がちゃんとすればいいだけなの!」

また、その言葉だった。
涼の表情が苦しそうに歪む。

陽菜は泣きそうになりながらも、必死に言葉を続けた。

「ご飯も食べさせてくれる。
学校にも行かせてくれてる。
あの家にもわざわざ引っ越して住んでくれてる。
叔父さん、本当は私なんか引き取らなくてもよかったんだよ。
自分の生活があったのに、私がいるから全部変わったんだよ」

「でも、それは――」

「迷惑かけてるの、私なの!」

校舎裏に陽菜の声が響いた。
言った本人が驚いたように口元を押さえる。
目から、とうとう涙が落ちた。

「……お願い。大ごとにしないで」

海人は眉を寄せた。

「陽菜」

「先生にも言わないで。
海人くんのお父さんとお母さんにも、誰にも言わないで」

「なんで」

「叔父さん、悪い人じゃないから」

「悪い人かどうかの話じゃないだろ」

「でも……!」

陽菜はそこで言葉を詰まらせた。
震える手が、隣にいた涼の制服を掴む。

「叔父さんまでいなくなったら、私どうなるの?」

涼も海人も黙った。

「親戚のところに行くの? 施設に行くの? 転校するの? 2人とも離れなきゃいけないの?」

「陽菜、それはまだ――」

「嫌だよ」

陽菜は首を振った。

「もう嫌なの。
お父さんもお母さんも、朝までいたんだよ。
普通にいってらっしゃいって言ってくれたのに、急にいなくなったの」

涼がそっと陽菜の肩を抱いた。

「うん」

「もう誰もいなくならないで……」

「いなくならないよ」

涼は迷わず答えた。
陽菜が泣きながら顔を上げる。

「ほんと?」

「うん」

「ずっと?」

「ずっと」

そのやり取りを見ながら、海人の胸も痛んでいた。
自分だって、陽菜を泣かせたいわけではない。
叔父を悪者にしたいわけでもない。
陽菜から家を奪いたいわけでもなかった。
それでも。

「陽菜」

海人が呼ぶと、陽菜が涼の胸元から顔を上げた。

「俺らはいなくならない」

「……うん」

「でも、それと叔父さんのことは別」

陽菜の表情が強張る。

「海人くん……」 

「俺、大人に言う」

「嫌」

「これはもう、俺らだけでどうにかする話じゃない」

「嫌!」

陽菜が涼から離れ、海人の腕を掴んだ。

「お願い、海人くん。言わないで……!」

「陽菜」

「お願い……!」

小学生の頃から、ずっと一緒だった。
転んでも笑っていた。
自分のお菓子を全部誰かにあげてしまって、海人に怒られていた。
夏祭りでは迷子になったくせに知らない子を助けていて、見つけた二人を安心させるどころか余計に泣かせた。
喧嘩をしても、翌朝にはいつもの角へ来た。

そんな陽菜が、泣きながら自分に縋っている。
海人は唇を噛んだ。

「……分かった」

「……ほんと……?」

「……2週間、様子見る。
その間、何もなかったらこの話はいったん保留にする。
だけど、少しでも何かあったらすぐに大人に言う。
たとえその間に何もなくても、それ以降少しでも何かあったらすぐに大人に言う。
それでいいな?」

「うん!」

陽菜は泣きながらでも笑った。
だから、これでいいのだと思った。

宮原海人は、この時の選択を、
この先一生、後悔する事になるなんて、
この時はまだ、気づいていなかった。