翌朝。
待ち合わせ場所へ行くと、陽菜はもう来ていた。
「おはよう!」
昨日のことなど何もなかったように笑っている。
「珍し」
海人が言った。
「何が?」
「お前が一番早い」
「私だってやればできるんですー」
「毎日やれ」
「嫌ですー」
涼が穏やかに笑う。
「朝から元気だね」
「涼くん眠そう」
「昨日ちょっと遅くまで起きてたから」
「夜更かし?」
「ううん、勉強」
「真面目!」
いつもの朝。
3人で出かけた。
図書館で宿題をして。
昼にファストフードを食べて。
ゲームセンターへ寄った。
陽菜は笑っていた。
昨日の夜自分の家で言われたことを、二人には話さなかった。
話すほどのことではないと思った。
叔父の言うことはもっともだ。
仕事から疲れて帰ってきて、知らない子どもが家にいたら休まらない。
涼と海人は叔父にとっては他人なのだから。
だから、次から外で遊べばいい。
それだけだった。
夏休みが終わり、2学期になった。
3人の日常は続いた。
ただ、少しだけ変わった。
「今日、陽菜ん家行く?」
涼が聞くと、陽菜は一瞬だけ黙った。
「今日は無理かな」
「なんかあるの?」
「叔父さん疲れてるから」
「そっか」
「公園行こう!」
「いいよ」
その日は公園へ行った。
次も。
その次も。
気づけば。
陽菜の家で遊ぶことはなくなった。
九月。
「陽菜」
夕食中、叔父が箸を置いた。
「最近、帰り遅くないか?」
「え?」
「今日何時だった?」
「17時半くらい」
「中学生の女がそんな時間までうろつくな」
陽菜は少し驚いた。
まだ外は明るかった。
友達と一緒だった。
「涼くんと海人くんと――」
「誰と一緒かは聞いてない」
声が強くなったのが分かり、陽菜は口を閉じる。
「ごめんなさい」
「18時前には家にいろ」
「……うん」
「返事」
「はい」
叔父はまた食事を始めた。
「お前のこと心配して言ってるんだからな」
「うん」
「女の子なんだから。何かあってからじゃ遅いだろ」
「……うん」
「分かればいい」
その言葉を聞くと、陽菜は少し安心した。
心配してくれている。
怒られたのではない。
大事にされているのだ。
そう思ってしまった。
翌日。
「じゃ、今日あっちの公園行くか」
海人がそう言うと、陽菜は少し困ったように笑った。
「ごめん。私、先帰るね」
「は?」
「門限」
「何時?」
「18時前」
海人が時計を見るも、まだ16時半だった。
「余裕じゃん」
「でも宿題もあるし」
「昨日まで普通に遊んでたじゃん」
「今日からちゃんとするの!」
「じゃあね!」
走っていく陽菜に、涼が手を振る。
「また明日」
「うん!」
海人は遠ざかる背中を見ていた。
「……なんだよ」
「門限くらい普通じゃないの?」
涼が言う。
「まあ」
普通だ。
中学生の姪に早く帰ってこいと言う保護者。
何もおかしくない。
「行こ、海人」
「……おう」
10月。
「スマホ」
夕食後、叔父が手を出した。
陽菜は瞬きをする。
「え?」
「見せて」
「なんで?」
「最近ずっと触ってるだろ」
「友達と話してるだけだよ」
「だから、それを確認する」
「……え?」
叔父の顔から、笑顔が消えた。
「俺はお前の保護者だぞ」
「でも……」
「何?」
陽菜はスマートフォンを握った。
「……友達との話だから」
「俺に見られて困ることでも話してるのか?」
「違うけど」
「じゃあ見せられるだろ」
理屈が分からなかった。
でも、
反論する言葉も見つからなかった。
「陽菜」
「……はい」
スマートフォンを渡すとすぐに、叔父はメッセージを開いた。
クラスメイト。
部活動。
そして。
3人のグループ。
画面を上へ滑らせていく。
『明日何時?』
『10時!』
『陽菜は絶対遅れる』
『遅れませんー!』
『この前15分遅れた』
『あれは寝坊じゃない!』
『何だったんだよ』
『……寝坊』
叔父が鼻で笑った。
「くだらないな」
胸が少し痛んだ。
「……返して」
「まだ見てる」
「叔父さん」
「なんだ?」
「……返して」
叔父が顔を上げ、目が合った。
陽菜は、怖いと思った。
初めてだった。
「誰のおかげで、そのスマホ使えてると思ってる?」
「…………」
「料金払ってるの、俺だろ」
それは違う。
父と母が残したお金がある。
そう言いかけた。
でも、言わなかった。
「……ごめんなさい」
叔父はしばらくしてスマートフォンを返した。
「俺はお前が変なことに巻き込まれないようにしてるだけだ」
「……うん」
「お前のためだよ」
「うん」
部屋へ戻り、ベッドへ座る。
スマートフォンを開く。
海人からメッセージが来ていた。
『明日朝練あるから先行く』
陽菜は文字を打つ。
『了解! 頑張ってね!』
送信。
いつもの文章。
いつもの自分。
叔父に見られたことは。
書かなかった。
11月。
涼は陽菜が変わったと思い始めていた。
大きくではない。
本当に、少しだけ。
以前より早く帰る。
以前よりスマートフォンを気にする。
遊びに誘っても断ることが増えた。
でも、学校では笑っている。
3人でいるときも変わらない。
「陽菜」
昼休み、涼が優しく陽菜に聞く。
「ん?」
「なんかあった?」
「何が?」
「最近」
「何もないよ?」
即答だった。
「本当に?」
「ほんと」
陽菜は何でもないように笑う。
「叔父さんとは?」
一瞬。
ほんの一瞬。
笑顔が止まった。
「普通だよ」
海人がそれを見ていた。
「……陽菜」
「なに?」
「スマホ貸して」
「え?」
「時間見る」
「自分のあるでしょ」
「充電切れた」
「涼くんの見れば?」
「陽菜の方が近い」
海人が手を伸ばすと、陽菜は反射的にスマートフォンを胸へ抱いた。
「やだ……!」
3人とも止まった。
「何だよ……」
海人が言う。
いつも、陽菜ははいはいと言いながらスマホを渡してくるのに。
「……なんでもない」
「なんでもない反応じゃないだろ」
「ほんとになんでもない!」
「陽菜」
涼も心配そうに見る。
「なにかあった?」
「ないって!」
声が少し大きくなった。
周りの生徒がこちらを見る。
陽菜は気づいて、笑った。
「ごめん。昨日ゲームしてて遅くなったから、眠いだけ」
「……そうなの?」
「うん」
涼はそれ以上聞かなかった。
海人は聞こうとした。
でも、ちょうど昼休み終了のチャイムが鳴った。
「ほら、戻ろ!」
陽菜が立ち上がり走っていく。
海人はその背中を見た。
また。
胸の奥に。
小さな棘が刺さった。
その日の夜。
宮原家。
「海人、風呂!」
「あとで!」
「あとで言うて入らないじゃない!」
「入るって!」
「十分以内!」
「はいはい!」
テレビを見ながら返事をすると、父親が横から笑った。
「お前、母さんに怒られてばっかだな〜」
「おとんもだろ」
「俺は大人だから」
「昨日ゴミ出し忘れて怒られてた」
「それは言うな」
母親の声が飛んでくる。
「2人とも聞こえてるからね!」
「はい!」
父と息子の声が揃う。
海人は笑った。
そのとき。
スマートフォンが光った。
涼。
『陽菜、なんか変じゃない?』
海人の笑顔が消える。
『俺も思っとった』
涼。
『叔父さんかな』
海人の指が止まる。
夏。
ビールの件。
『あんまり頻繁に呼ぶな』
それは陽菜から後になって聞いた。
門限。
スマートフォン。
今日の反応。
点だったものが。
少しずつ。
繋がり始める。
『明日聞こ』
送信する。
涼から。
『うん』
海人は画面を見たまま、しばらく動かなかった。
「海人!」
「分かったって!」
母親の声。
いつもの家。
いつもの夜。
海人はまだ知らなかった。
自分が今感じている違和感が、正しいことを。
同じ頃。
陽菜の家。
「これ、何?」
叔父が1枚の紙をテーブルへ置いた。
学校から配られた、進路に関する簡単な希望調査だった。
「まだ1年生だから、将来やってみたいことを書くやつ」
「これ」
叔父の指がひとつの欄を叩く。
『大学進学』
「大学行くつもりなの?」
「……行けたら」
「誰が金出すの?」
「お父さんとお母さんが、私のために貯めてくれてたって……」
その瞬間、叔父の顔が変わった。
「誰から聞いた?」
「え?」
「金の話」
「前に、お母さんが……」
「死んだ人間の話するなよ!」
怒鳴り声に陽菜の肩が跳ねた。
初めてだった。
ここまで大きな声を出されたのは。
「…………」
叔父も黙った。
「……悪い」
「…………」
「仕事で疲れてるんだ」
「……うん」
「急にお前を引き取って、俺だって色々大変なんだよ」
「……うん」
「分かるだろ?」
「うん」
「お前のこと嫌いで言ってるんじゃない」
叔父が陽菜の頭へ手を置いた。
体が少しだけ、固まった。
「家族なんだから」
「…………うん」
「俺しかいないんだぞ」
陽菜が顔を上げる。
「お前にはもう」
叔父は、優しく言った。
「俺しか家族いないんだから」
胸が苦しくなった。
お父さん。
お母さん。
いない、
もう。
いない。
その事実を改めて突きつけられた気がした。
「……うん」
「だから俺の言うこと聞いてればいい」
「……分かった」
「いい子だな」
頭を撫でられる。
陽菜は笑おうとした。
「……うん」
その夜。
部屋に戻った陽菜は机の引き出しを開けた。
1枚の写真。
卒業式の日に3人で撮った写真。
陽菜が真ん中。
両隣に涼、海人。
3人とも笑っている。
スマートフォンが震えた。
涼。
『明日一緒に帰ろ』
続いて。
海人。
『3人でな』
陽菜は写真を見た。
メッセージを見る。
そして返信した。
『もちろん!』
少し考えていつものように。
笑っている猫のスタンプも送った。
翌日。
涼と海人に聞かれたら。
何もないと言おう。
叔父さんは。
疲れているだけ。
自分を引き取ってくれた。
学校にも通わせてくれている。
ご飯も食べさせてくれる。
家にいてくれている。
それなのに。
悪く言うなんてできない。
何より。
もし叔父までいなくなったら。
今度こそ。
自分は。
どこへ行けばいいのだろう。
陽菜は写真の中の2人を指で撫でた。
「……大丈夫」
小さく。
呟いた。
「大丈夫だから」
翌日。
涼と海人はその言葉を初めて聞くことになる。
そして。
これから先。
何度も。
何度も。
聞くことになる。
――大丈夫。
3人の中で。
一番信用してはいけない言葉に。
いつか。
なるとも知らずに。
待ち合わせ場所へ行くと、陽菜はもう来ていた。
「おはよう!」
昨日のことなど何もなかったように笑っている。
「珍し」
海人が言った。
「何が?」
「お前が一番早い」
「私だってやればできるんですー」
「毎日やれ」
「嫌ですー」
涼が穏やかに笑う。
「朝から元気だね」
「涼くん眠そう」
「昨日ちょっと遅くまで起きてたから」
「夜更かし?」
「ううん、勉強」
「真面目!」
いつもの朝。
3人で出かけた。
図書館で宿題をして。
昼にファストフードを食べて。
ゲームセンターへ寄った。
陽菜は笑っていた。
昨日の夜自分の家で言われたことを、二人には話さなかった。
話すほどのことではないと思った。
叔父の言うことはもっともだ。
仕事から疲れて帰ってきて、知らない子どもが家にいたら休まらない。
涼と海人は叔父にとっては他人なのだから。
だから、次から外で遊べばいい。
それだけだった。
夏休みが終わり、2学期になった。
3人の日常は続いた。
ただ、少しだけ変わった。
「今日、陽菜ん家行く?」
涼が聞くと、陽菜は一瞬だけ黙った。
「今日は無理かな」
「なんかあるの?」
「叔父さん疲れてるから」
「そっか」
「公園行こう!」
「いいよ」
その日は公園へ行った。
次も。
その次も。
気づけば。
陽菜の家で遊ぶことはなくなった。
九月。
「陽菜」
夕食中、叔父が箸を置いた。
「最近、帰り遅くないか?」
「え?」
「今日何時だった?」
「17時半くらい」
「中学生の女がそんな時間までうろつくな」
陽菜は少し驚いた。
まだ外は明るかった。
友達と一緒だった。
「涼くんと海人くんと――」
「誰と一緒かは聞いてない」
声が強くなったのが分かり、陽菜は口を閉じる。
「ごめんなさい」
「18時前には家にいろ」
「……うん」
「返事」
「はい」
叔父はまた食事を始めた。
「お前のこと心配して言ってるんだからな」
「うん」
「女の子なんだから。何かあってからじゃ遅いだろ」
「……うん」
「分かればいい」
その言葉を聞くと、陽菜は少し安心した。
心配してくれている。
怒られたのではない。
大事にされているのだ。
そう思ってしまった。
翌日。
「じゃ、今日あっちの公園行くか」
海人がそう言うと、陽菜は少し困ったように笑った。
「ごめん。私、先帰るね」
「は?」
「門限」
「何時?」
「18時前」
海人が時計を見るも、まだ16時半だった。
「余裕じゃん」
「でも宿題もあるし」
「昨日まで普通に遊んでたじゃん」
「今日からちゃんとするの!」
「じゃあね!」
走っていく陽菜に、涼が手を振る。
「また明日」
「うん!」
海人は遠ざかる背中を見ていた。
「……なんだよ」
「門限くらい普通じゃないの?」
涼が言う。
「まあ」
普通だ。
中学生の姪に早く帰ってこいと言う保護者。
何もおかしくない。
「行こ、海人」
「……おう」
10月。
「スマホ」
夕食後、叔父が手を出した。
陽菜は瞬きをする。
「え?」
「見せて」
「なんで?」
「最近ずっと触ってるだろ」
「友達と話してるだけだよ」
「だから、それを確認する」
「……え?」
叔父の顔から、笑顔が消えた。
「俺はお前の保護者だぞ」
「でも……」
「何?」
陽菜はスマートフォンを握った。
「……友達との話だから」
「俺に見られて困ることでも話してるのか?」
「違うけど」
「じゃあ見せられるだろ」
理屈が分からなかった。
でも、
反論する言葉も見つからなかった。
「陽菜」
「……はい」
スマートフォンを渡すとすぐに、叔父はメッセージを開いた。
クラスメイト。
部活動。
そして。
3人のグループ。
画面を上へ滑らせていく。
『明日何時?』
『10時!』
『陽菜は絶対遅れる』
『遅れませんー!』
『この前15分遅れた』
『あれは寝坊じゃない!』
『何だったんだよ』
『……寝坊』
叔父が鼻で笑った。
「くだらないな」
胸が少し痛んだ。
「……返して」
「まだ見てる」
「叔父さん」
「なんだ?」
「……返して」
叔父が顔を上げ、目が合った。
陽菜は、怖いと思った。
初めてだった。
「誰のおかげで、そのスマホ使えてると思ってる?」
「…………」
「料金払ってるの、俺だろ」
それは違う。
父と母が残したお金がある。
そう言いかけた。
でも、言わなかった。
「……ごめんなさい」
叔父はしばらくしてスマートフォンを返した。
「俺はお前が変なことに巻き込まれないようにしてるだけだ」
「……うん」
「お前のためだよ」
「うん」
部屋へ戻り、ベッドへ座る。
スマートフォンを開く。
海人からメッセージが来ていた。
『明日朝練あるから先行く』
陽菜は文字を打つ。
『了解! 頑張ってね!』
送信。
いつもの文章。
いつもの自分。
叔父に見られたことは。
書かなかった。
11月。
涼は陽菜が変わったと思い始めていた。
大きくではない。
本当に、少しだけ。
以前より早く帰る。
以前よりスマートフォンを気にする。
遊びに誘っても断ることが増えた。
でも、学校では笑っている。
3人でいるときも変わらない。
「陽菜」
昼休み、涼が優しく陽菜に聞く。
「ん?」
「なんかあった?」
「何が?」
「最近」
「何もないよ?」
即答だった。
「本当に?」
「ほんと」
陽菜は何でもないように笑う。
「叔父さんとは?」
一瞬。
ほんの一瞬。
笑顔が止まった。
「普通だよ」
海人がそれを見ていた。
「……陽菜」
「なに?」
「スマホ貸して」
「え?」
「時間見る」
「自分のあるでしょ」
「充電切れた」
「涼くんの見れば?」
「陽菜の方が近い」
海人が手を伸ばすと、陽菜は反射的にスマートフォンを胸へ抱いた。
「やだ……!」
3人とも止まった。
「何だよ……」
海人が言う。
いつも、陽菜ははいはいと言いながらスマホを渡してくるのに。
「……なんでもない」
「なんでもない反応じゃないだろ」
「ほんとになんでもない!」
「陽菜」
涼も心配そうに見る。
「なにかあった?」
「ないって!」
声が少し大きくなった。
周りの生徒がこちらを見る。
陽菜は気づいて、笑った。
「ごめん。昨日ゲームしてて遅くなったから、眠いだけ」
「……そうなの?」
「うん」
涼はそれ以上聞かなかった。
海人は聞こうとした。
でも、ちょうど昼休み終了のチャイムが鳴った。
「ほら、戻ろ!」
陽菜が立ち上がり走っていく。
海人はその背中を見た。
また。
胸の奥に。
小さな棘が刺さった。
その日の夜。
宮原家。
「海人、風呂!」
「あとで!」
「あとで言うて入らないじゃない!」
「入るって!」
「十分以内!」
「はいはい!」
テレビを見ながら返事をすると、父親が横から笑った。
「お前、母さんに怒られてばっかだな〜」
「おとんもだろ」
「俺は大人だから」
「昨日ゴミ出し忘れて怒られてた」
「それは言うな」
母親の声が飛んでくる。
「2人とも聞こえてるからね!」
「はい!」
父と息子の声が揃う。
海人は笑った。
そのとき。
スマートフォンが光った。
涼。
『陽菜、なんか変じゃない?』
海人の笑顔が消える。
『俺も思っとった』
涼。
『叔父さんかな』
海人の指が止まる。
夏。
ビールの件。
『あんまり頻繁に呼ぶな』
それは陽菜から後になって聞いた。
門限。
スマートフォン。
今日の反応。
点だったものが。
少しずつ。
繋がり始める。
『明日聞こ』
送信する。
涼から。
『うん』
海人は画面を見たまま、しばらく動かなかった。
「海人!」
「分かったって!」
母親の声。
いつもの家。
いつもの夜。
海人はまだ知らなかった。
自分が今感じている違和感が、正しいことを。
同じ頃。
陽菜の家。
「これ、何?」
叔父が1枚の紙をテーブルへ置いた。
学校から配られた、進路に関する簡単な希望調査だった。
「まだ1年生だから、将来やってみたいことを書くやつ」
「これ」
叔父の指がひとつの欄を叩く。
『大学進学』
「大学行くつもりなの?」
「……行けたら」
「誰が金出すの?」
「お父さんとお母さんが、私のために貯めてくれてたって……」
その瞬間、叔父の顔が変わった。
「誰から聞いた?」
「え?」
「金の話」
「前に、お母さんが……」
「死んだ人間の話するなよ!」
怒鳴り声に陽菜の肩が跳ねた。
初めてだった。
ここまで大きな声を出されたのは。
「…………」
叔父も黙った。
「……悪い」
「…………」
「仕事で疲れてるんだ」
「……うん」
「急にお前を引き取って、俺だって色々大変なんだよ」
「……うん」
「分かるだろ?」
「うん」
「お前のこと嫌いで言ってるんじゃない」
叔父が陽菜の頭へ手を置いた。
体が少しだけ、固まった。
「家族なんだから」
「…………うん」
「俺しかいないんだぞ」
陽菜が顔を上げる。
「お前にはもう」
叔父は、優しく言った。
「俺しか家族いないんだから」
胸が苦しくなった。
お父さん。
お母さん。
いない、
もう。
いない。
その事実を改めて突きつけられた気がした。
「……うん」
「だから俺の言うこと聞いてればいい」
「……分かった」
「いい子だな」
頭を撫でられる。
陽菜は笑おうとした。
「……うん」
その夜。
部屋に戻った陽菜は机の引き出しを開けた。
1枚の写真。
卒業式の日に3人で撮った写真。
陽菜が真ん中。
両隣に涼、海人。
3人とも笑っている。
スマートフォンが震えた。
涼。
『明日一緒に帰ろ』
続いて。
海人。
『3人でな』
陽菜は写真を見た。
メッセージを見る。
そして返信した。
『もちろん!』
少し考えていつものように。
笑っている猫のスタンプも送った。
翌日。
涼と海人に聞かれたら。
何もないと言おう。
叔父さんは。
疲れているだけ。
自分を引き取ってくれた。
学校にも通わせてくれている。
ご飯も食べさせてくれる。
家にいてくれている。
それなのに。
悪く言うなんてできない。
何より。
もし叔父までいなくなったら。
今度こそ。
自分は。
どこへ行けばいいのだろう。
陽菜は写真の中の2人を指で撫でた。
「……大丈夫」
小さく。
呟いた。
「大丈夫だから」
翌日。
涼と海人はその言葉を初めて聞くことになる。
そして。
これから先。
何度も。
何度も。
聞くことになる。
――大丈夫。
3人の中で。
一番信用してはいけない言葉に。
いつか。
なるとも知らずに。


