私が三歳から五歳のニ年間、父が地方に単身赴任することになった。
母も仕事をしていたので、私が熱を出した時などは埼玉から祖母が面倒を見に来てくれ、私もよく祖母の家に遊びに行った。
毎月二、三回は祖母の家に泊まりに行っていたように思う。
その斜め向かいに大きなお屋敷があり、いつも濃紺のスーツを着ている男性が住んでいた。
祖母が「あら、生田さんちの坊っちゃん」と呼ぶのだが、幼い私はそれを縮めて「いっくん」と呼んでいた。
いっくんは背が高くスラリとしていて、いつ見てもかっこよかった。
スーツに合せたネクタイは爽やかな水色で、シルバーのラインが斜めに入っていたのを覚えている。
私が「いっくん!」と呼ぶと、柔らかい髪をサラリと揺らして振り返り、かがんで私の頭をなでてくれた。
「ゆりちゃん、今日も元気だね」
「うん! いっくんもげんき?」
「元気だよ。ゆりちゃんに会うと元気をもらえる」
「ほんとう? よかったね」
「うん、ゆりちゃんに会えてよかった」
祖母の家に行けばいっくんにも会える。
私はそのことが嬉しかった。
五歳の夏、近くの大きな公園で夏祭りがあるからと、祖母が浴衣を着せてくれた。
二人で公園に向かっていると、駅から帰って来る途中のいっくんとばったり会った。
「いっくん!」
私は祖母と繋いでいた手を解いていっくんに駆け寄る。
「ゆりちゃん?」
「みてみて、ゆかた、かわいい?」
「可愛いよ。お祭りに行くの?」
「そう。いっくんもいこうよ」
私が手を取ると、後ろから祖母が「優里、坊ちゃんのご迷惑になるわよ」とたしなめる。
いっくんは「いいですよ」と祖母に答えた。
「僕もお祭り行きたいです。ゆりちゃん、行こうか」
私は満面の笑みで「うん!」と頷き、「はやくはやく」と両手でいっくんを引っ張った。
ぼんぼりが灯る公園は中央にやぐらが組まれ、音楽に合わせて太鼓を鳴らしたり、周りを囲んで盆踊りを踊る人で賑わっていた。
さらにその周りにたくさんの屋台が並び、私はその光景に目を輝かせる。
「わあ、すごい!」
夜の町に出かけられたこと、華やかなお祭りを見られたこと、浴衣を着ていっくんと手を繋いでいること。
色々なことで興奮状態だった。
「いっくん、わたあめたべたい!」
「いいよ」
屋台に近づく私たちを祖母が慌てて追いかけてきて、お店のおじさんにお金を渡す。
「ありがとう、おばあちゃん」
「どういたしまして。優里、お好み焼きも食べる? よかったら坊っちゃんもどうぞ」
そう言って祖母がお好み焼きや焼きそば、たこ焼きも買ってくると三人でベンチに座って食べた。
「おいしいね、おまつりのたべものって。おそとでたべるのたのしい! ね、いっくん」
「本当だね。すごく美味しいよ」
食べ終わると私はいっくんと手を繋ぎ、あちこちの屋台を覗いて回った。
「いっくん、きんぎょがいる!」
「ああ、金魚すくいだね」
「すくうの? いっくん、できる?」
「どうかな、やってみるよ」
「うん!」
水槽の前にしゃがんだいっくんの隣にぴたりと寄り添い、私は期待の眼差しでいっくんを見つめる。
「そのまるいのですくうの?」
「そう。ポイっていうんだ」
「ポイ? ほんとうに?」
「本当だよ」
そう言って頬を緩めてから、いっくんは後ろにいた祖母を振り返った。
「すくった金魚は放しますか? それとも持ち帰りますか?」
「そうねえ。優里はきっと持って帰りたがるわよね」
「わかりました。それならなるべく元気な金魚をすくいますね」
いっくんと祖母のやり取りを半分首をひねりながら聞きつつ、私はいっくんの一挙手一投足をわくわくしながら見守る。
「金魚すくいのコツはね、ポイを水の中に斜めに入れること。それから金魚の頭の方からお腹の下にポイを潜り込ませるんだ。見てて」
「うん」
真剣な表情のいっくんに、私もギュッと拳を握りしめる。
いっくんは水面近くを泳ぐ金魚に狙いを定めると、水槽の端まで泳いだタイミングで素早くスッとすくった。
あまりに一瞬の出来事に、私は目を丸くする。
「ほら」
いっくんが左手に持ったお椀の中で朱色の金魚がぴちぴちと跳ね、すぐにスイッと泳ぎ始めるのを見て、私は「わあ!」と口元に手をやった。
「すごい! いっくん、すごいね」
「これは和金だから、比較的長く生きられるよ。元気もいい」
「わきんってなまえなの? わっくん?」
私の言葉にいっくんはおかしそうに笑う。
「ははっ! わっくんか、可愛いな」
いっくんのそんな表情を見るのは初めてだった。
「ゆりちゃんの世界は明るくて楽しいね。よし、じゃあわっくんのお友だちも連れて帰らないとな」
いっくんは再び水槽に身を乗り出し、鮮やかな手つきで金魚をすくう。
ポイが少し破れても、持ち手に近い部分で金魚をすくい上げるいっくんに、屋台のおじさんは「兄ちゃん、上手いな」と感心していた。
合計五匹の金魚をすくうと、いっくんはおじさんに「お水、多めに入れてもらえますか? 大切に育てますので」と頼む。
「そうか、なんか嬉しいわ。可愛がってやってな」
「はい」
私はいっくんから水袋を受け取ると、スイスイと中で泳ぐ金魚に言葉もなく見とれた。
「ゆりちゃん、なるべくそうっとおうちに連れて帰ってあげて」
「うん、わかった。わっくん、おうちにかえりますよー」
私は右手に持った袋を目の高さに持ち上げ、左手はキュッといっくんと繋いだままできるだけ静かに歩いた。
「少し待っててくれる? うちで使ってた水槽を取って来るから」
祖母の家に着くと、いっくんは私を縁側に座らせてそう言い、自宅へと姿を消す。
十分ほどで戻って来た時には、手にガラスの水槽を持っていた。
「あら、本格的ね。うちに小さい金魚鉢ならあるんだけど」
祖母の言葉に、いっくんは「置き場に困りますか?」と控えめに問う。
「そんなことはないわよ。でもあなたのおうちで使ってるものじゃないの?」
「うちではもう使ってないんです。金魚が一匹なら金魚鉢でもいいと思いますが、五匹なので六十センチ規格のものがいいかと」
「そう、じゃあお借りしてもいいかしら? 和室の端っこなら置けると思うわ」
「はい。今カルキ抜きと水合わせをしますね」
二人のやり取りを聞きながら、どうやら問題はなかったようだと幼い私はホッとしたのを覚えている。
いっくんは水槽を和室の端の棚の上に置くと、バケツで水を運んで来て注ぎ、何やら液体を混ぜた。
そのあと金魚を袋ごと水槽に浮かべる。
「これはね、水の温度を合わせてるんだ。金魚が急に水が冷たくなってびっくりしないように」
「そうなんだね」
「そのあとは水合わせといって、水質に慣らす。このおうちに引っ越してきた金魚がのびのび過ごせるように」
「うん、わっくんもみんなもげんきにおおきくなってね」
私はいっくんが時間を見ながら何度か水を移し替える様子を、そばでじっと見守り続けた。
「よし、これで大丈夫。元気そうだな」
袋から出て気持ち良さそうに大きな水槽で泳ぐ金魚に、私も「うん!」といっくんに笑いかける。
「あとはこのぷくぷくをつけて、と」
「ぷくぷく?」
「そう。泡が出て金魚が息をしやすくなるんだ」
いっくんが水槽に小さな丸いものを沈めてコンセントを入れると、勢いよく小さな泡が吹き出した。
「わあ、すごい!ぷくぷくいっぱい!」
はしゃいだ声を上げる私に、いっくんも目を細める。
「ゆりちゃん、わっくんたちのごはんは今日はあげなくて大丈夫。明日また様子を見に来るね」
「うん! ありがとう、いっくん」
その夜、私は和室に布団を敷いてもらい、水槽の金魚を眺めながら幸せな気持ちで眠りについた。
母も仕事をしていたので、私が熱を出した時などは埼玉から祖母が面倒を見に来てくれ、私もよく祖母の家に遊びに行った。
毎月二、三回は祖母の家に泊まりに行っていたように思う。
その斜め向かいに大きなお屋敷があり、いつも濃紺のスーツを着ている男性が住んでいた。
祖母が「あら、生田さんちの坊っちゃん」と呼ぶのだが、幼い私はそれを縮めて「いっくん」と呼んでいた。
いっくんは背が高くスラリとしていて、いつ見てもかっこよかった。
スーツに合せたネクタイは爽やかな水色で、シルバーのラインが斜めに入っていたのを覚えている。
私が「いっくん!」と呼ぶと、柔らかい髪をサラリと揺らして振り返り、かがんで私の頭をなでてくれた。
「ゆりちゃん、今日も元気だね」
「うん! いっくんもげんき?」
「元気だよ。ゆりちゃんに会うと元気をもらえる」
「ほんとう? よかったね」
「うん、ゆりちゃんに会えてよかった」
祖母の家に行けばいっくんにも会える。
私はそのことが嬉しかった。
五歳の夏、近くの大きな公園で夏祭りがあるからと、祖母が浴衣を着せてくれた。
二人で公園に向かっていると、駅から帰って来る途中のいっくんとばったり会った。
「いっくん!」
私は祖母と繋いでいた手を解いていっくんに駆け寄る。
「ゆりちゃん?」
「みてみて、ゆかた、かわいい?」
「可愛いよ。お祭りに行くの?」
「そう。いっくんもいこうよ」
私が手を取ると、後ろから祖母が「優里、坊ちゃんのご迷惑になるわよ」とたしなめる。
いっくんは「いいですよ」と祖母に答えた。
「僕もお祭り行きたいです。ゆりちゃん、行こうか」
私は満面の笑みで「うん!」と頷き、「はやくはやく」と両手でいっくんを引っ張った。
ぼんぼりが灯る公園は中央にやぐらが組まれ、音楽に合わせて太鼓を鳴らしたり、周りを囲んで盆踊りを踊る人で賑わっていた。
さらにその周りにたくさんの屋台が並び、私はその光景に目を輝かせる。
「わあ、すごい!」
夜の町に出かけられたこと、華やかなお祭りを見られたこと、浴衣を着ていっくんと手を繋いでいること。
色々なことで興奮状態だった。
「いっくん、わたあめたべたい!」
「いいよ」
屋台に近づく私たちを祖母が慌てて追いかけてきて、お店のおじさんにお金を渡す。
「ありがとう、おばあちゃん」
「どういたしまして。優里、お好み焼きも食べる? よかったら坊っちゃんもどうぞ」
そう言って祖母がお好み焼きや焼きそば、たこ焼きも買ってくると三人でベンチに座って食べた。
「おいしいね、おまつりのたべものって。おそとでたべるのたのしい! ね、いっくん」
「本当だね。すごく美味しいよ」
食べ終わると私はいっくんと手を繋ぎ、あちこちの屋台を覗いて回った。
「いっくん、きんぎょがいる!」
「ああ、金魚すくいだね」
「すくうの? いっくん、できる?」
「どうかな、やってみるよ」
「うん!」
水槽の前にしゃがんだいっくんの隣にぴたりと寄り添い、私は期待の眼差しでいっくんを見つめる。
「そのまるいのですくうの?」
「そう。ポイっていうんだ」
「ポイ? ほんとうに?」
「本当だよ」
そう言って頬を緩めてから、いっくんは後ろにいた祖母を振り返った。
「すくった金魚は放しますか? それとも持ち帰りますか?」
「そうねえ。優里はきっと持って帰りたがるわよね」
「わかりました。それならなるべく元気な金魚をすくいますね」
いっくんと祖母のやり取りを半分首をひねりながら聞きつつ、私はいっくんの一挙手一投足をわくわくしながら見守る。
「金魚すくいのコツはね、ポイを水の中に斜めに入れること。それから金魚の頭の方からお腹の下にポイを潜り込ませるんだ。見てて」
「うん」
真剣な表情のいっくんに、私もギュッと拳を握りしめる。
いっくんは水面近くを泳ぐ金魚に狙いを定めると、水槽の端まで泳いだタイミングで素早くスッとすくった。
あまりに一瞬の出来事に、私は目を丸くする。
「ほら」
いっくんが左手に持ったお椀の中で朱色の金魚がぴちぴちと跳ね、すぐにスイッと泳ぎ始めるのを見て、私は「わあ!」と口元に手をやった。
「すごい! いっくん、すごいね」
「これは和金だから、比較的長く生きられるよ。元気もいい」
「わきんってなまえなの? わっくん?」
私の言葉にいっくんはおかしそうに笑う。
「ははっ! わっくんか、可愛いな」
いっくんのそんな表情を見るのは初めてだった。
「ゆりちゃんの世界は明るくて楽しいね。よし、じゃあわっくんのお友だちも連れて帰らないとな」
いっくんは再び水槽に身を乗り出し、鮮やかな手つきで金魚をすくう。
ポイが少し破れても、持ち手に近い部分で金魚をすくい上げるいっくんに、屋台のおじさんは「兄ちゃん、上手いな」と感心していた。
合計五匹の金魚をすくうと、いっくんはおじさんに「お水、多めに入れてもらえますか? 大切に育てますので」と頼む。
「そうか、なんか嬉しいわ。可愛がってやってな」
「はい」
私はいっくんから水袋を受け取ると、スイスイと中で泳ぐ金魚に言葉もなく見とれた。
「ゆりちゃん、なるべくそうっとおうちに連れて帰ってあげて」
「うん、わかった。わっくん、おうちにかえりますよー」
私は右手に持った袋を目の高さに持ち上げ、左手はキュッといっくんと繋いだままできるだけ静かに歩いた。
「少し待っててくれる? うちで使ってた水槽を取って来るから」
祖母の家に着くと、いっくんは私を縁側に座らせてそう言い、自宅へと姿を消す。
十分ほどで戻って来た時には、手にガラスの水槽を持っていた。
「あら、本格的ね。うちに小さい金魚鉢ならあるんだけど」
祖母の言葉に、いっくんは「置き場に困りますか?」と控えめに問う。
「そんなことはないわよ。でもあなたのおうちで使ってるものじゃないの?」
「うちではもう使ってないんです。金魚が一匹なら金魚鉢でもいいと思いますが、五匹なので六十センチ規格のものがいいかと」
「そう、じゃあお借りしてもいいかしら? 和室の端っこなら置けると思うわ」
「はい。今カルキ抜きと水合わせをしますね」
二人のやり取りを聞きながら、どうやら問題はなかったようだと幼い私はホッとしたのを覚えている。
いっくんは水槽を和室の端の棚の上に置くと、バケツで水を運んで来て注ぎ、何やら液体を混ぜた。
そのあと金魚を袋ごと水槽に浮かべる。
「これはね、水の温度を合わせてるんだ。金魚が急に水が冷たくなってびっくりしないように」
「そうなんだね」
「そのあとは水合わせといって、水質に慣らす。このおうちに引っ越してきた金魚がのびのび過ごせるように」
「うん、わっくんもみんなもげんきにおおきくなってね」
私はいっくんが時間を見ながら何度か水を移し替える様子を、そばでじっと見守り続けた。
「よし、これで大丈夫。元気そうだな」
袋から出て気持ち良さそうに大きな水槽で泳ぐ金魚に、私も「うん!」といっくんに笑いかける。
「あとはこのぷくぷくをつけて、と」
「ぷくぷく?」
「そう。泡が出て金魚が息をしやすくなるんだ」
いっくんが水槽に小さな丸いものを沈めてコンセントを入れると、勢いよく小さな泡が吹き出した。
「わあ、すごい!ぷくぷくいっぱい!」
はしゃいだ声を上げる私に、いっくんも目を細める。
「ゆりちゃん、わっくんたちのごはんは今日はあげなくて大丈夫。明日また様子を見に来るね」
「うん! ありがとう、いっくん」
その夜、私は和室に布団を敷いてもらい、水槽の金魚を眺めながら幸せな気持ちで眠りについた。



