私の運命の人

長い長い夜になった。
いっくんは私に全てを話してくれた。

「もう全部わかってると思うけど、僕は埼玉で生まれ育った。その頃の名字は生田。君のおばあさんの家の斜め向かいに住んでいた。けど、一つだけ訂正させて。僕はあの時まだ高校生だったんだ」
「えっ、本当に? だっていつもスーツ着てたじゃない。シルバーのラインが斜めに入った水色のネクタイ締めて」
「あれは高校の制服。さっき社会人だったって言われて、ちょっと傷ついた」
「ごめんなさい。ほら、五歳から見れば高校生も大人に見えたんだと思う」
「いいよ。やっぱり僕は三十路ってあだ名が似合うんだな。三十木は母親の旧姓。つまり両親は離婚したんだ」

そうだったの、と私は視線を落とした。

「ずっと父は母をないがしろにしていたからね。今で言うモラハラ。家の中はいつも冷え切って会話もなく静まり返っていた。いや、その方がまだマシだったな。父は酒が入ると母への暴言がすごかったから。家に帰るのはいつも気が重かった。こんな日がいつまで続くんだろうって、僕の生い立ちは散々だなと。結婚なんてどこがいいんだ。崩壊した家庭で育った僕は、将来誰とも結婚するべきではないと思っていた。父の血を引いた僕も、同じように豹変するんじゃないかと怖かったから」
「そんな! いっくんは絶対にそんなことしない。私はちゃんと知ってます。いっくんがどんな人なのかを」

いっくんは私を見て「ありがとう」と頬を緩めた。

「あの頃、ゆりちゃんだけが僕を正気にさせてくれる存在だった。明るい世界に僕を引き留めてくれた。だから最後まで自暴自棄にならずに済んだんだと思う。ある日、父がいつものように酒におぼれて母への暴言が始まった。僕は耳をふさぎたくなりながら、懸命に母をかばった。そしたら父は僕を殴ったんだ。何度も何度も、僕が口から血を流してもやめなかった。母が『やめて!』と僕に飛びついて、父はその母も平手打ちにした。もう限界だった。僕はその夜、母を連れてそっと家を出て、母の実家の滋賀に行ったんだ。十七歳の春、高校三年生になる直前の春休みだった」

私は胸が締めつけられる思いだった。その頃の私は父が単身赴任先から戻って来た嬉しさで、いっくんのことを考えなくなっていたから。

「父が滋賀まで追いかけて来るかもしれないと恐れていたけど、全くそんな気配はなかった。それよりも妻が家を出たことを近所の人に知られたくなかったのか、家を売却して一人都内のマンションに引っ越したらしい。世間体だけは気にする人だったからね。しばらくして弁護士から離婚届が送られて来て、母はそれにサインをした。それで全てが終わった。僕は母の旧姓の『三十木』を名乗って高校を卒業し、都内の大学、君や瀬川先生と同じ大学だね、そこに通いながら一人暮らしを始めた。教師を目指したのは、君の影響が大きいよ。僕は大人を信じられず、幼い君に助けられていたから。高校教諭を選んだのは、輝かしい青春時代に自分と同じ思いをしてほしくない、そんな生徒がいれば支えになりたいと思ったから。結果として僕の方が救われたよ。君たちのようにキラキラと輝く高校生と毎日を過ごしているうちに、自分まで青春を取り戻せたような気がしたんだ。今は本当に幸せだよ」

最後の言葉に私はようやく安心する。
辛い思いをしてきたいっくんが、やっと報われた気がした。

「君が高校に入学して来た時、名簿に三嶋優里と書かれていても全く気づかなかった。君のおばあさんは小松という名字だったからね。それにゆりちゃんの漢字も知らなかった。だけど最初の授業で『三嶋さん』と君を当てた時、『はい』と返事をして真っ直ぐに僕を見つめた君にハッとした。どんなに月日が流れていても、ゆりちゃんの眼差しだけは忘れられずにいたから。もう一度名簿に目をやって、優里という名を見て確信した。君が、あのゆりちゃんだと」
「……どうしてその時、私に教えてくれなかったんですか?」
「そんなこと、できるわけないよ。五歳だった君が僕を覚えているはずがない。もし覚えてくれていたとしても、別れも言わずに姿を消した酷い人間だと思われているに違いない。だから僕も過去の君との思い出を封印しようとした。ほかの生徒と同じように、いや、敢えてより一層普通に接しようとした。君は三嶋優里さんで、あの頃のゆりちゃんではないと。だけど成長した君を見られたことは嬉しかった。君はあの頃と同じように真っ直ぐひたむきな瞳で、とても楽しそうに高校生活を送っていたから。おばあさんやご両親に愛されて、幸せな日々をこれまで過ごして来たんだろうと思えたから。おばあさんは、今はどうされてるの?」
「元気に一人暮らしを続けています。あの時と同じ家で。いっくんに水槽を返さなきゃって言ってました」
「そうなんだ、お元気そうでよかった。水槽は、もう破棄してもらって構わないよ」

私はいっくんのその言葉にカチンときた。

「そんなに簡単に言わないでください。私と祖母にとって、あの水槽はたくさんの思い出が詰まっているんです。浴衣を着ていっくんと手を繋いで行った夏祭り。いっくんが鮮やかな手つきですくってくれた五匹の金魚。毎日お世話をして大切に育てて、わっくんは十二年も生きてくれたんですよ? それをあっさり、破棄しろだなんて……」

早口でまくし立てると、いっくんは目を見開いてから辛そうにギュッと眉根を寄せた。

「そうだよね、ごめん。軽はずみなことを言ってしまった。僕は何も言わずに姿を消しただけでなく、大切なものまで黙って置いて行ったんだ。金魚たちや、君やおばあさんとのかけがえのない日々を」

私は小さく首を振る。

「いっくんのせいじゃありません。それより、いっくんがお母さんを連れて無事に滋賀に行けて本当によかった。十七歳でそれを決意するって、大変だったでしょう? お母さんは、今も滋賀に?」
「ああ、田舎でのんびりと暮らしてる。お嬢様育ちでね、父とは政略結婚だったんだ。心を病んでしまっていたけど、今はようやく解放されて穏やかな表情に戻ったよ」
「そうですか、よかった」

そしてふと私は思い出した。
足をケガした日、バスルームの扉越しに交わした会話を。

『僕は、残念ながら違いました。うちに帰ると空気は冷え切っていて、家族はいても会話はなくて。家にいる方が逆に辛かったです』
『そんな……。それなら先生の心の拠り所はなかったのですか?』
『ありましたよ。小さな小さな、だけどとても温かくて明るくて、幸せな世界が。今でもあの時の記憶は私の心の支えです』

それは五歳の私のことなのだろうか。
そう思っていると、いっくんが私に尋ねた。

「君はさっき、天文部に入ったのも高校教諭を目指したのも、高校生だった僕のおかげと言いましたか?」
「はい、そうです。五歳の頃の私にとって、いっくんはとても大きな存在だったから。私を子ども扱いせず対等に接して、たくさんのことを教えてくれました。星の名前、光年という言葉、世界がどんなに広く美しいかを。だから私は天文部に入ったんです。夜空を見上げると、いつもいっくんを思い出しました。あの星から見たら人間の一生なんてほんの一瞬。そんな中で僕がゆりちゃんと出会えたことは、ものすごい奇跡なんだって。いっくんが真摯に向き合う大切さを教えてくれたから、私は教師になって生徒たちに真っ直ぐ向き合おうと思いました。もう二度と会えなくても、あの頃のいっくんが今の私を作ってくれていたんです」

真っ直ぐにそう告げると、いっくんの目がみるみるうちに涙で潤んだ。

「ゆりちゃん……ありがとう。僕もずっとずっと君を忘れられずにいました。暗い世界のどん底にいた僕を、ゆりちゃんだけが救ってくれた。小さな小さな、だけどとても温かくて明るい君が、幸せな世界に連れて行ってくれた。僕にとってもあの頃の君がずっと心の支えだったんだ」
「いっくん……」

私たちはどちらからともなく手を伸ばし、また互いを抱きしめ合う。

「君に会えて、よかった。こうしてまた会えて、本当に嬉しい」
「私もです」

目を閉じると、いっくんの温もりが伝わってくる。
それは五歳の頃に感じたいっくんの温かさそのものだった。