私の運命の人

パタンとドアが閉まり、静かになった部屋で私はポスッとベッドに倒れ込む。

(なんだかおかしなことになっちゃったな。三十木先生が私の部屋に来たなんて)

ふと見下ろせば、いつもは着ないフェミニンなワンピースが目に入る。
髪も結ってあったのを思い出し、少し頭を起こして飾りを外すとゴムを解いた。
ふわっと広がった髪は毛先がくるんと巻かれている。

(おお、なんか新鮮)

私はベッドに仰向けになったまま、髪を指先でもてあそんで天井を見上げた。

(三十木先生、どうして伊達眼鏡なんてかけてるんだろう。顔を見たくないから、なんて。眼鏡ない方が絶対かっこいいのに)

先ほど、真剣な眼差しで手当てしてくれたことを思い出す。
サラリと額にかかる黒髪の下に、切れ長の目が印象的で、整った顔立ちがさらに際立っていた。

(眼鏡外したらモテモテだろうな。あ、だからかけてるのかな? 彼女いないって言ってたし、恋愛したくないのかも)

他人事ながら、もったいないと思ってしまう。

(恋愛か。今の私には考えられないけど、いつかすてきな恋ができたらいいなあ)

目を閉じると、夢の中でまたいっくんに会いたいと願ってしまう。
そしてそのまま私は吸い寄せられるように夢の世界に行ってしまった。

トントントンと小気味良い包丁の音が聞こえる。

(……おばあちゃんのうち?)

和室でお昼寝していた時、よくこの音を聞いた。
ピタリと音が止み、足音を忍ばせて近づいて来る祖母は、眠っている私にそっと毛布をかけてくれる。
そう、今のように……
え、今?

私はパチリと目を開ける。
誰かがそっと私に毛布をかけているところだった。

「あ、ごめん。起こしたか?」

そう言って三十木先生が私の顔を覗き込む。

「先生?」

待って。
ということは、さっきの包丁の音は?
私は視線を上げてキッチンを見た。
狭い調理スペースにまな板が置かれ、玉ねぎが載っているのが見える。

「えっ、先生が料理を?」
「ああ、うん。コンビニに行ったら親子丼が売り切れだったんだ。鶏肉と玉ねぎが売っていたから、作ろうと思って」
「作る? 先生が、親子丼を?」
「そんなに驚くことか? 親子丼なんて大して難しくないし、一人暮らしが長いからほぼ毎日自炊してる」
「そうなんですね、すごい!」
「もうすぐできるから、寝てなさい」
「はい」

寝てなさいと言われてすぐにコテンと寝られるはずもなく、私は横になったままキッチンに立つ先生の後ろ姿を見つめた。
手際良く玉ねぎを切り終えると、包丁とまな板を一度洗ってから鶏肉を切り、小鍋を温めて少し油を入れ、具材を炒める。
ジュージューと音を立て始めると、時折鮮やかに手首を使って鍋を動かし、具材を混ぜていた。
味つけして少し煮込む間に、別のお鍋でみそ汁を作る。
最後に溶き卵でとじて親子丼は完成した。

「炊飯器は早炊きにしたんだけど、あと二分か。今そっちに運ぶ」

先生はローテーブルをベッドの前まで持って来ると、みそ汁とお箸を並べた。
そのうちにピーッと炊飯器が鳴り、熱々のご飯をよそって親子丼を盛りつける。

「はい、どうぞ」
「ありがとうございます。いただきます」

起き上がった私はふうふうと冷ましてから親子丼を口に運んだ。
ゆっくりと味わってから思わず目を見開く。

「どうした? 不味い?」
「……違います。どうして?」
「え?」
「この味、祖母が作る親子丼とそっくりです。どうして先生が?」
「別に普通の親子丼だと思うけど」
「嘘です。マヨネーズ使ったでしょ? 鶏肉に揉み込んだり溶き卵に混ぜたり」

祖母の作る親子丼はいつも美味しく、私は大きくなってからその作り方を聞いたのだった。

「そうだけど。でもよく聞くよ、マヨネーズを隠し味にするって」
「味つけも全く一緒です」
「たまたまだよ。よかった、気に入ってもらえて」

話を逸らされてしまい、私は仕方なく黙ってもう一度親子丼を味わう。
やはり祖母の味だとしか思えない。
けれど先生の言うように、たまたまなのだろう。
もしかしたら、ネットで同じレシピを検索したのかもしれない。
でも……。
私はどうにも納得いかなかった。
食後のお茶を淹れてくれた先生は、キッチンに立って洗い物までやってくれる。
その後ろ姿を見ているうちに私はハッとした。
五歳の頃の記憶が蘇る。

(この後ろ姿、見たことがある。おばあちゃんと手を繋いで、この背中を見つけて、嬉しくて駆け寄って……)

私は小さく呟いた。

「……いっくん?」

ザーザーと水の音でかき消されたその呟きに、私自身が驚いている。

(そうだ、先生はいっくんにそっくり)

そう思う一方であり得ないと否定した。
まず年齢が違う。
いっくんは私より二十ほど年上のはずだから、今は四十三歳くらいだろう。
三十木先生は……確か今三十五歳だ。
それに出身は滋賀県で、大学進学を機に上京したと言っていた。
何より、そう。名字が違う。
生田だからいっくんなのだ。
しかも生田製薬の御曹司。
私は大きくため息をついて考えを振り切るように頭を振った。
水の音が止まり、先生が振り返る。

「明日の朝食にパンも買っておきました。テーブルに置いておきますね。あとは何か必要ですか?」
「いいえ、何も。本当にありがとうございました」
「お大事に。明日、痛みが続くようなら休日診療を受診した方がいいでしょう」
「はい」

先生は頷いてからまくっていた袖を戻し、ジャケットを手にする。
もう帰ってしまうのだろうか。
急に私は心細くなってしまった。

「先生、あの」
「どうしました?」
「えっと、まだ少しお願いしたいことが……」
「何でしょう」

何も考えていなかった私は焦る。

「実はですね、その、そう! お風呂に入りたくて。お湯を張ってもらえませんか?」
「お風呂ですか。できれば今夜は入らない方がいいと思います」
「そうなんですけど、髪とかヘアスプレーを使ったので洗いたくて」
「それなら足にビニールを巻きますから、座ってシャワーだけ浴びますか?」
「でも、あの、シャワーだけだとそのあと寒くて風邪引きそうです」
「だからって湯船は危険ですよ。風邪を引きそうならシャワーもやめましょう」

私は何とか先生を引き留めたくて必死だった。

「私、三百六十五日湯船に浸かるんです。夏でも湯船に浸からないと眠れないくらいで」
「今日一日くらい我慢しなさい」
「……わかりました。先生が帰ったあと一人で入ります」

そう言うと先生は一瞬怯んでから大きなため息をついた。

「やれやれ、強情ですね。わかりました。今、お湯を張ってきます」
「ありがとうございます! お風呂掃除はしてあるので、栓をして給湯ボタンを押してください」
「はいはい」

バスルームからカチャカチャと音がしたあと、先生が戻って来る。

「足を出してください。ビニールを巻いてテープで留めます」
「はい! お願いします」
「全く……。手のかかる生徒だな」
「ふふふ、先生も大変ですね」
「君もそのうち生徒に手を焼いた時に実感するよ」

ビニールを念入りに巻いてテープで固定すると、先生は私を抱き上げた。

「バスルームまで運んで、君が出て来るまで外で待機してます」
「ありがとうございます。あ、待って。そこのクローゼットに寄ってください。着替えを取るので」
「はいはい。生徒じゃなくてお姫様だな。しかもわがままで頑固な」
「先生がお小言言うなんて珍しいですね」
「今はこき使われる家来の心境なのでね」

クローゼットの前で立ち止まった先生は、私が引き出しからパジャマや下着を取り出そうとするとギュッと目をつぶる。
私はふふっと笑みをもらしながら、上から被るだけのタオル地のワンピースパジャマと下着を選んだ。

「もういいよー」
「はいはい」

先生は目を開けて今度はバスルームへと向かう。
ちょうどお湯張り完了の音楽が流れ、先生はバスルームの小さな椅子の上に私を座らせた。

「ありがとうございます。あとは自分でできますので」
「わかりました。外で待機してますので、何かあったら呼んでください」
「はい」

先生が出て行って扉を閉めると、私は椅子に座ったまま結婚式に着て行った時の服を慎重に脱ぐ。
下着も脱いで、見えないようにワンピースの中に包んだ。

「せんせーい」
「何ですか?」
「ちょっとだけ扉開けてください」

カチャッとわずかに扉が開くと、私はそこからワンピースをポイと外に投げ込んだ。

「わっ、こら」
「だって濡れちゃうんですもん」
「全く、お行儀の悪い」
「すみませーん」

シャワーヘッドは手の届く低い位置に先生が変えておいてくれたらしい。
私はお湯の温度を確かめてから頭と身体を洗った。
キュッとお湯を止めるとバスタブの端に置いておいたタオルで髪をまとめ、両手をバスタブのフチについて右足を浮かせたまま左足で立ち上がる。
一旦フチに腰を下ろしてからゆっくりと左足を入れ、右足を上げたままお湯に浸かった。

「はあー、極楽極楽」
「今度はおばあちゃんですか?」
「だって本当に気持ちいいんですもん。先生は湯船には浸からない派ですか?」
「僕も浸かる派です」
「三百六十五日?」
「そうです。だからどうしても入りたいという君の気持ちもわかってしまった」
「わかってしまいましたかー、残念」
「本当に調子がいいね、君は」

あはは!と笑うと、先生のため息が聞こえてきた。

「ねえ、先生」
「何ですか?」
「私の部屋で誰かと話しをしているのが新鮮です。いつも静まり返ってるのに、なんだか別のうちに来たみたいにあったかくて」
「お風呂ですからあったかくて当然でしょう」
「そうじゃなくて! 何でもないことを誰かと話すって、すごくありがたいですね」

少しの間のあと、しんみりとした口調で先生が言う。

「そうですね。誰かに聞いてもらう、何でもないことを口にする、そういうことって本当はとても重要なんです。悩みを抱えている生徒の話を聞いていると、しゃべっただけでスッキリして解決する、なんてこともよくあります。ほんの小さなことでも、一人で悶々としているうちにどんどん膨らんで大きくなってしまう。けれど家に帰って『おかえり、今日はどうだった?』と家族に訊かれて『こんなことがあった』と話すだけで、それはあっという間にしぼんでくだらない悩みに思えるのです」

私はその言葉を噛みしめながらじっと耳を傾けた。

「たとえ様子を訊いてもらえなくても、楽しそうな家族の姿を見るだけでホッとして、気持ちが切り替わってくれる。そんな心の拠り所を持つことは、子どもだけでなく大人にとってもとても大切だと思っています」
「……先生は? 子どもの頃、家族にそうやって温かい居場所を作ってもらっていたんですか?」
「僕は、残念ながら違いました。うちに帰ると空気は冷え切っていて、家族はいても会話はなくて。家にいる方が逆に辛かったです」
「そんな……。それなら先生の心の拠り所はなかったのですか?」
「ありましたよ。小さな小さな、だけどとても温かくて明るくて、幸せな世界が」

先生の言葉に嬉しそうな響きが交じり、私は安心する。

「よかったですね」
「ええ。今でもあの時の記憶は私の心の支えです」

どんな世界だったのだろうと思っていると、先生が口調を変えた。

「三嶋さん、そろそろ上がりなさい。のぼせてしまう」
「はーい」

私はお湯から上がってバスタブのフチに座り、左足も外に出す。
置いてあったタオルで身体を拭き、下着を着けてからタオル地のワンピースパジャマをすっぽり被った。

「できましたー!」
「開けますよ?」

先生がそう言ってから、カチャリと扉を開く。
私が抱っこをせがむように両手を上げると、笑いながら抱き上げてくれた。

「ほっかほかだな」
「ふふっ、でき立てのお弁当みたい? あ、待って。歯磨きもしちゃいます」
「はいはい」

洗面台の前で立ち止まった先生は、私を左足からそっと床に下ろす。
歯磨きやスキンケアを済ませると、ドライヤーを手にし、またしても先生にベッドまで運んでもらった。

「ありがとうございました。あとは髪を乾かして寝るだけです」
「そう。じゃあそろそろ帰るよ。もし痛みが強くなったら夜中でもいいから連絡して」
「はい、わかりました」
「カギはドアポケットに入れておくから。ゆっくり休んで」
「ありがとうございます。先生も」

先生は私に小さく頷いてから部屋を出る。
玄関のカギが外からかけられ、ポトリとドアポケットに落とす音がしたあと「おやすみ」と声がした。
私はふふっと笑ってから「おやすみなさーい」と返した。