私の運命の人

「えっ、ゆりりと坂井くん、このあと出かけるの?」
「そうなんです。だから二人とも残業はごめんなさい」

休憩を終えて戻ると、真由子さんに延長できるか訊かれて坂井くんは私の分までそう答えた。
確かにさっき、今日は上がりの時間が一緒だからご飯でも、と誘われたけれど、お店が忙しそうなのを放って行くつもりはない。

「真由子さん、私は残れますから」

そう言うと真由子さんは即座に首を横に振った。

「ううん、いいのいいの。人の恋路を邪魔する奴は馬に蹴られてなんとやらって言うじゃない。それにゆりりと坂井くんを応援したいからさ。いつも二人には頼りっぱなしだし、今日くらいのんびりしておいで」
「でも……」
「大丈夫だって。さ、時間まではバリバリお願いね」
「はい、もちろんです」

私はそれ以上は癒えず、仕方なくクレープ台の前に向かった。
十七時なると交代のメンバーが二人「お疲れ様でーす」と入って来る。

「お疲れ様。ゆりりと坂井くんと交代お願いね」
「はい。優里ちゃん、坂井くん、代わるよ」

大学生の二人に言われて、私と坂井くんはあとのことを任せて引き揚げる。

「それではお先に失礼します」
「お疲れ様ー。ゆっくり楽しんできてね」

真由子さんに見送られ、坂井くんは嬉しそうに「はい」と答えていた。
更衣室で着替えると、裏口で待ち合わせて二人並んで歩き出す。

「先輩、どこに行きたい?」
「んー、特に思いつかないな」
「じゃあ俺の行きたいところでもいい?」
「うん」

すると坂井くんはさり気なく私と手を繋いだ。
何となく身体が反応し、私はスルリと手を解いてしまう。

「嫌だった?」

坂井くんが心配そうに顔を覗き込む。

「前は繋いでくれたのに」
「前って、生徒会室からここまで遅刻しそうになった時?」
「そう。あの時はずっと繋いでくれてた」
「それは、その。急いでたし」
「そっか」

それ以上は何も言わず、坂井くんは私の半歩先を歩く。
こんなふうに居心地悪くなるのは初めてで、私はどうしていいのかわからなかった。
五分ほど言葉もなく歩いたあと、坂井くんが小さなビルの前で立ち止まり、私を振り返る。

「ここ。創作料理の店なんだけど、半個室があって内装も凝ってるんだ。行こう」
「うん」

細いビルの階段を下りると、坂井くんが木製のドアを開ける。

「どうぞ」
「ありがとう」

中に足を踏み入れて、私は思わず天井を見上げた。

「すごい、ここ、プラネタリウム?」
「そう、店全体がね。それに時間と共にゆっくり動いてるんだ」
「そうなのね、すてき」

私が目を輝かせると、ようやく坂井くんがホッとしたように笑う。

「先輩、天文部だからこういうの好きかと思って」
「うん、とってもきれいね。知らなかった、こんなお店があるなんて」
「個室もいい雰囲気なんだ」

坂井くんはどうやらこのお店に詳しいらしく、「いつもの部屋、空いてますか?」と尋ねた。

「ええ、空いております。どうぞ」

案内されたのは、お店の中央の席。
そこだけ青い照明に照らされ、周りを囲む貝殻とヤシの木。
まるで海に浮かぶ島のように少し高くなっているその個室は、中に入ると葉の間からプラネタリウムの夜空が頭上に広がっていた。

「なんてすごいの。誰もいない南の島で満天の星を眺めてるみたい」
「でしょ? 先輩、空に夢中だから、料理は適当に頼んでもいい?」
「うん、お任せする」

坂井くんは、うっとりとプラネタリウムに見とれている私にクスッと笑い、スタッフにいくつか食事とドリンクをオーダーした。
しばらくして運ばれて来たのは、パイナップルが飾られたトロピカルフルーツのジュースに、ココナッツミルクのカレーやロコモコ、ガーリックシュリンプなどの南国の料理。

「美味しそう!」
「よかった。じゃあ早速乾杯しよう」
「うん」

私たちはドリンクを手に「お疲れ様でした。乾杯」と小さくグラスを合わせる。
ひと口飲んでみると、ほどよい甘さとフレッシュなフルーツの酸味がとても美味しかった。

「先輩、苦手な食べ物ある?」
「何でも食べるよ。シーフード、美味しそうだね」

坂井くんが手際よくお皿に取り分けるのを見て、私はぼんやりと考えていた。

(坂井くん、このお店のこともよく知ってるし手慣れた感じだから、やっぱりこれまでたくさん女の子とおつき合いしてきたんだろうな)

すると坂井くんが「はい、どうぞ」と私の前にお皿を置いてから「どうかした?」と訊いてくる。

「ううん、何でもない。美味しそうだね。いただきます」

ココナッツミルクがまろやかなカレーは、エビやイカやムール貝などのシーフードがゴロゴロ入っていて、うちで食べるカレーとはひと味もふた味も違う。
ガーリップシュリンプもスパイシーで、私は次々と手で殻を剥いてパクパクと食べた。

「先輩、いい食べっぷり」
「だって働いたからお腹空いてたんだもん」
「俺も。けど、彼女がたくさん食べてくれると嬉しい」

彼女、という言葉がどうも引っかかる。
デザートにマンゴープリンを食べてお腹がいっぱいになると、ようやくゆっくりとプラネタリウムを眺めた。

「きれいだね。それにこのソファ、上を見上げるのにちょうどいい角度だね」
「そう、座り心地いいでしょ」
「うん、最高。ここで寝ちゃいたいくらい」
「ははっ、それはさすがに迷惑」
「わかってますって」
「寝ちゃったら俺が連れて帰るから、覚悟しといて」

時折挟んでくるそういう言葉に、私はどう反応していいかわからない。
けれどきっと坂井くんも軽く言っているだけで、深い意味はないのだろう。
そう思いながらソファにもたれてうっとりと星を見つめた。

(あ、夏の大三角だ)

ゆっくりと動く夜空に夏の大三角が浮かび、私は自然と五歳のあの日に戻る。

『こと座のベガと、わし座のアルタイル、それからはくちょう座のデネブ。ベガは織姫、アルタイルは彦星なんだよ』

一瞬で蘇るあの日の星空と、いっくんの低くて温かい声。
懐かしくて幸せで、胸が締めつけられるほど愛おしい記憶。
きれいな星に見とれていると、ふいに向かい席から坂井くんが立ち上がり、私の隣に座った。

「どうしたの?」

驚いて尋ねると、坂井くんは怒ったような寂しそうな、なんとも言えない表情を浮かべた。

「先輩、俺を見てほしい」
「え?」
「今、どこかに行ってしまいそうだった。俺の手の届かないところに。俺、先輩のことが好きなんです。だからこれからは、俺と向き合ってほしい」
「坂井くん……」

言葉に詰まって見つめると、坂井くんは切なげに眉根を寄せてささやいた。

「目を逸らさないでいて……優里」

ドキッと胸が跳ねる。
少しずつ坂井くんが顔を寄せても、私は動けない。
坂井くんはソファの上にあった私の手をキュッと握り、そのまま優しく私の唇にキスをした。