私の運命の人

「まさか本当に来るなんて……」

二日後のバイトの日。
更衣室で着替えて「お疲れ様です」と店内に入ると、「あ、ゆりり。お疲れ」と顔を上げた真由子さんの横にいたのは、赤いポロシャツに黒のエプロン姿の坂井くんだった。
胸には既に『坂井』と書かれた名札まで着けている。

「先輩、今日からよろしくお願いします」
「はい、それは、もう」

展開の速さについて行けない私に、真由子さんがてきぱきと指示を出す。

「ゆりり。坂井くんにはひと通りお店の説明は済ませてるから、クレープの指導をお願いできる? ドリンクとアイスはもうバッチリよ」
「そうなんですか、いつの間に?」
「のみ込み速いから一時間で全部できちゃったの。あとはクレープだけ。まあ、これが一番の難関だけどね。ゆりりは今日はずっとクレープ担当で、お客様がいない時間に坂井くんにトレーニングお願い」
「わかりました」

私は坂井くんと一緒に手を消毒し、クレープ台の前に移動した。

「えっと、ではまず説明しながら作ってみますね。左側の大きなこのポットに生地が入っています。左手にレードルというこのお玉と、右手にこの木製のトンボを持ってから左手で生地をすくってクレープ台に載せます。この丸いクレープ台を時計に見立てて、まず十時の位置に生地を置いたら、右手のトンボで四時の位置まで持って来てください。そのあと逆手に持ち換えて手首を返しながら十二時まで、それを二回繰り返して、最後に十二時から六時にくねくねしながら真ん中の穴を埋めるように伸ばしたら終わりです」
「なるほど、帰宅は六時ですね」
「ふふっ、そう。実際にやってみるね」
 
クレープ台の正面に立つと、私は生地をすくって素早く伸ばし、鉄板いっぱいに丸く広げた。

「最後にこのスパチュラという名前のヘラを生地の下に入れてはがすと、裏返して軽く焼きます。あとは少し冷ましてから、右側の調理台に載せて終わり。ここで生クリームやフルーツのコールド系のクレープを盛り付けるの。この間坂井くんが食べたフランクピザなんかのホット系のクレープは、クレープ台で焼きながら作るから時間との勝負。でもコールドは落ち着いてゆっくり作れるから、まずはコールドから練習していってね」

わかりました、と坂井くんは神妙に頷く。

「じゃあ早速一枚焼いてみようか」
「ええ、できるかな?」
「最初からできる人なんて誰もいないよ。大丈夫、みんなたくさん焼いてようやくできるようになったから」

私が場所を空けると、坂井くんは思い出すようにゆっくりと道具を見渡す。

「左手は、レー……なんとか」
「レードル。だけど私はお玉ちゃんって呼んでる」
「お玉ちゃんね。で、右手はトンボくん」
「そうそう」
「生地をすくったら待ち合わせは十時」

真剣に呟く坂井くんがおかしくて笑いそうになり、必死に堪えた。

「十時に会ったら四時まで遊ぶ。そしたら十二時まではお休み……って、ええ? ちょっと、生地が半分こぼれたんですけど!」

それも皆が通る道だ。
鉄板は真っ平らでフチがないため、ギリギリまで生地を広げようとしても加減がわからないうちはほとんどこぼれ落ちてしまう。

「大丈夫、とにかくそのまま続けてみて」
「はい。えっと手首を返して……、返せません!」
「ゆっくりでいいよ、落ち着いて」
「なんとか十二時まで来ましたが、ここで終わりです。二回目のデートは叶いませんでした」
「じゃあ六時に帰宅しましょう」
「ああ、さようなら」

わずかに残った生地を真下に下ろすと、坂井くんは肩もがっくり下ろした。

「難しい、難しすぎる」
「慣れだって、慣れ。感覚で覚えるの。じゃあ一緒にやってみようか」

私は坂井くんの背後に立ち、坂井くんの手に自分の手を重ねた。

「はい、生地を載せるよ?」

左手を上から握ってレードルで生地をすくい、十時の位置に置くと、坂井くんの右手も上から握って素早く動かす。

「おお、すっげ! 魔法みたい」

鉄板の黒地が見えないほどギリギリまで生地を伸ばし、最後に中央の薄い部分を埋めて右手のトンボを置く。

「じゃあスパチュラに持ち換えて」
「はい!」
「あ、左手のレードルはもうとっくに離していいんだよ。スパチュラを両手でこうやって持って……」

スッと生地の下に滑らせて鉄板から持ち上げると、薄く丸い生地を目の高さに持ち上げた。

「どう? 生地の薄さが均一になってる?」
「すっごいです。機械で作ったみたい」
「これを少し揺らして冷ましたら、調理台に置いて終わり」
「え? 三十秒もかかってませんよね?」
「そう。でも最初の目標は四十五秒以内ね」

すると近くで様子を見ていたのか、真由子さんが話しかけてきた。

「ゆりりは二十秒もかからないで焼けるのよ。でもちゃんと火を通さないといけないから、ボーッと待ってるの。そんな人、ゆりりくらいよ。みんな焦がさないように急いで作るのに」
「真由子さん、ボーッとって……。ちゃんと焼けたかなーって考えてますよ」
「そんな時間、普通ないって。坂井くん、ゆりりに教われば怖いものなしだからね。がんばって」

坂井くんは「はい!」と気合いのこもった返事をし、私に「もう一度お願いします」と頭を下げる。

「おお、なんか体育会系だね。坂井くんって負けず嫌い?」
「めちゃくちゃそうっすね」
「よーし、それならいつか私を超えるのだぞ?」
「やってみせます!」

そんな感じでそのあとも二人、「今だ、素早く!」「もう一度!」と部活のように練習に励んだ。

一週間で生地を焼けるようになると、次はホット系のクレープに挑戦する。

「鉄板の上で盛りつけるから、急がないと生地が焦げちゃうの。でも焦ってソースやチーズの分量が適当になってもいけない」
「タイムトライアルですね、望むところです」

坂井くんはメラメラと闘志を燃やし、真剣に練習を重ねた。

「塩コショウも忘れずにね」
「ええ!? 嘘でしょ」
「本当。あ、それはかけすぎ」

最後にクレープ紙に包むのだけど、生地は焼き立てで坂井くんは「あっつ!」と言って涙目になる。

「確かに最初は熱いよね、私も思い出した。慣れると平気になるよ」
「熱いから自然にササッと巻けるようになりそう」
「うん、そうかも」

二週間が経つ頃には坂井くんは全ての業務を一人でこなせるようになり、学生の女の子が「かっこいい店員さんがいる!」と言って通うようになった。

「これで安心して私もお休みに入れます」
「そうね。ゆりり、いい子を紹介してくれたわ。受験がんばってね。春になったらまた戻って来てよ?」
「はい」

私は笑顔で真由子さんに頷いてみせた。