「……なんてな」
加賀見くんは、ふっと息を吐いて笑った。
「聞かないよ」
「え」
「事情のある人なんて、いくらでもいる。うち、病院だからさ。全部は聞かないほうがいいこともあるって知ってる。……お前が自分から話したくなるまで、待つよ」
その声は、静かだった。
「ただ、これだけ言わせて。今日のお前の走りは俺、好きだった」
心臓の奥で、何かが大きく揺れた。
「……俺さ」
加賀見くんは、畳んだテントに視線を落とした。
「家を継ぐって、生まれたときから決まってるんだ。嫌なわけじゃない。でも、自分で選んで走ってるやつを見ると、ちょっとだけ羨ましくなる」
選べなかった私と、選ばせてもらえないこの人。
どっちが軽いんだろう。たぶん、どっちも、重い。
「……それ、私も同じだよ」
思わず、口からこぼれた。
「え?」
「あ、ううん! なんでもない!」
加賀見くんは、それ以上、問い詰めてこなかった。ただ、ほんの少しだけ笑って言った。
「じゃあ、また月曜」
「……うん。月曜」
遠ざかる足音が、水たまりを、ぱしゃ、と鳴らした。
その後ろ姿が見えなくなっても、私はしばらく、その場から動けなかった。
体の奥が、まだじんわりと温かい。
おにぎりを分け合ったときの何気なさも、『今日の走り、好きだった』の一言も、家を継ぐという、彼の重さを打ち明けてくれたことも。
全部が今、胸の中で混ざり合っている。
──あ。
ふと、気づいてしまった。
これは、たぶん……恋、と呼ぶものだ。



