独占愛は夜より深く。

廊下の奥で、床がきしむ音がした。

ひとつじゃない。
複数。
ゆっくり近づいてくる足音に、部屋の空気が一気に冷える。

要は私を背にかばったまま、兄の部屋のドアを静かに閉めた。

「窓は」

低い声で問われて、私ははっとしてベランダ側を見る。
カーテンの向こうにある掃き出し窓。
二階。
飛び降りるには高い。
でも、下には物置の屋根があったはずだ。

「外へ出られる」
私が小さく言うと、要はうなずいた。

通信から恒一の声が入る。

「裏に二人。玄関に一人」

「伊織、外の死角は」
要が即座に返す。

「東側です。隣家との塀沿いなら一時的に隠れられます」

「わかった」

要はベランダのカーテンを少しだけ開けて外を確認する。
その横顔は冷静そのものだった。
でも、つないだままの手にだけ少し力がこもる。

「紗菜」

「うん」

「怖くても走れ」

そのひと言に、私はしっかりうなずいた。

次の瞬間、廊下の向こうでドアノブが回された。
兄の部屋じゃない。
隣の物音。
家の中を探っている。

要は迷わず窓を開けた。
朝前の冷たい空気が、一気に流れ込む。

「先に出る。すぐ来い」

要がベランダへ出て、手すり越しに下を確認する。
それから振り返り、私に手を伸ばした。

「来い」

私は兄の部屋を一度だけ振り返る。
涙の余韻がまだ残っている。
でも今は立ち止まれない。

その手を取って、ベランダへ出た。

外は思ったより冷たかった。
遠くで鳥の声がして、こんな夜の終わりでも朝は来るのだと妙に思う。

要が手すりに片手をかける。

「屋根に降りる」

「うん」

「俺が先」

要はひらりと身を下ろし、物置の屋根へ飛び移った。
鈍い音。
すぐに顔を上げて私を見る。

「紗菜」

手を伸ばされる。
私は深く息を吸って、手すりを越えた。

怖い。
でも飛ぶしかない。

次の瞬間、足がふわっと浮く。
落ちる感覚。
けれどすぐに要の腕が私を受け止めた。

「……っ」

体勢が崩れかけても、要が腰を引き寄せて支える。
近い。
胸にぶつかるみたいに抱きとめられて、心臓が大きく跳ねた。

「ナイスキャッチ」

思わずそう言うと、要が少しだけ笑う。

「今、ふざける余裕あるのか」

「要がいるから」

そう返した瞬間、要の目がわずかに揺れる。
でもすぐに気配を引き締めた。

「行くぞ」

物置の屋根から塀沿いへ飛び降り、私たちは細い通路を走った。
足音が背後で荒くなる。
気づかれた。
追ってきている。

「いたぞ!」

男の声が朝前の空気を裂く。

私は息を切らしながらも、要の手を離さなかった。
離したくなかった。
この先がどれだけ怖くても、この手だけが今の私の道だった。

塀の角を曲がった先で、恒一が待っていた。

「こっちだ」

短い声。
その向こうには碧の車。
エンジンはすでにかかっている。

「早く!」

碧がドアを開ける。
私は先に押し込まれるように後部座席へ乗り、そのすぐあとに要が滑り込んだ。

ドアが閉まる。
同時に車が急発進した。

背中がシートに押しつけられる。
窓の外で、家が遠ざかっていく。
兄の部屋も、あの手紙も、さっきまでの涙も、全部乗せたまま。

「無事?」
碧がミラー越しに聞く。

「なんとか」
恒一が息を吐く。

伊織は助手席から振り返り、真っ先に言った。

「USBと鍵は」

要がジャケットの内側を軽く叩く。

「ある」

そのひと言で、車内の空気が少しだけ緩む。

私はシートにもたれたまま、やっと大きく息を吐いた。
逃げ切れた。
少なくとも今は。

そのとき、隣の要がそっと私の手を取る。
汗で少し冷えた指先を、包み込むみたいに握る。

「よく飛んだな」

低い声が、やさしい。

「落ちるかと思った」

「落とさない」

即答だった。

その言葉があまりにも真っ直ぐで、胸が熱くなる。

「ほんとに?」

「何回でも言う」

要が少しだけ私に近づく。

「おまえだけは、絶対落とさない」

その言い方に、思わず目が熱くなる。
兄を失ったあとで、失う怖さがずっと消えなかった。
でも今この人は、それを真正面から受け止めようとしてくれている。

私は小さく、でもはっきりうなずいた。

「……うん」

要の親指が、手の甲をそっとなでる。
ほんの短い仕草なのに、泣きそうなくらいやさしい。