独占愛は夜より深く。

空が白み始める前に、私たちは家へ戻った。

兄と暮らしていたこの家。
何度も帰ってきた場所なのに、今夜はまるで別の家みたいだった。
静かすぎる。
息を潜めているような沈黙が、壁の奥にまでしみ込んでいる気がする。

「周囲は見る」
恒一が低く言う。
「碧と伊織は外を押さえろ」

要は短くうなずいて、私のほうを見た。

「紗菜は俺と中へ」

そのひと言だけで、少しだけ肩の力が抜ける。
ひとりじゃない。
それだけで足が動いた。

玄関を開けると、懐かしい匂いがした。
洗剤と木の匂い。
もう誰もいないはずなのに、兄がさっきまでいたみたいで胸が痛む。

廊下を進み、兄の部屋の前で立ち止まる。

ドアノブに触れる指先が震えた。

「……入るよ」

誰に言うでもなくつぶやいて、私はゆっくり扉を開けた。

部屋は、記憶の中のままだった。
机。
本棚。
ベッド。
閉じたカーテン。
整っているのに、人だけがいない。

それだけで涙が出そうになる。

「紗菜」

要の声がすぐ近くにある。

「無理なら外で待てる」

私は首を振った。

「大丈夫。探したい」

声は少し揺れたけれど、気持ちは決まっていた。

部屋に入って、まず机を見る。
確かに少しだけ位置が変わっている。
壁との隙間が不自然だった。

「ここ」

私が指さすと、要が無言で机に手をかける。
ひとりでは動かせない重さでも、要は静かにずらした。

床が見える。
何もない。
そう思った次の瞬間、私は小さく息をのんだ。

床板の一枚だけ、色がわずかに違う。

「要、これ」

要がしゃがみ込み、指で縁をなぞる。
すぐに薄い切れ目を見つけた。

「開くな」

短く言うと、要は近くにあった薄い定規のようなものを差し込み、板をそっと持ち上げる。

隠し箱だった。

胸が強く鳴る。
本当にあった。
兄が残したもの。

中に入っていたのは、小さなUSBと、封筒。
そして古い鍵がひとつ。

私は震える手で封筒を取った。
表には、見慣れた兄の字。

紗菜へ

その文字を見た瞬間、視界が滲んだ。

「お兄ちゃん……」

声がうまく出ない。

要は何も言わず、ただ私の隣にいる。
急かさない。
触れすぎない。
でも、ひとりにはしない距離だった。

私は封筒をゆっくり開ける。
中には、一枚の便箋が入っていた。

兄の字で、短く書かれている。

紗菜。
もしこれをお前が見つけたなら、俺はちゃんと守れなかったんだと思う。
ごめん。
でも、お前だけは巻き込みたくなかった。

ここから先は、信じられる人と一緒に進め。
ひとりで抱えるな。
俺が掴みきれなかったものの一部を、この中に残した。
月城蓮司と東條玲央。
この二人を追えば、きっと全部繋がる。

最後に。
紗菜、お前が笑って生きてくれたら、それでいい。

そこまで読んだところで、もうだめだった。

涙が次々こぼれて、文字が滲む。
兄は知っていた。
危ないことも、自分が消されるかもしれないことも。
それでも、最後まで私を守ろうとしていた。

「っ、う……」

うまく息ができない。
苦しい。
悲しい。
会いたい。
いろんな感情が一気に押し寄せる。

次の瞬間、要の腕がそっと私を引き寄せた。

今度はためらいなく、その胸に顔を埋める。
兄の手紙を握ったまま、私は小さく泣いた。

「……お兄ちゃん、最後まで……」

言葉にならない。
要の服をぎゅっとつかむことしかできない。

要は何も言わず、ただ髪をやさしくなで続けた。
静かな手つき。
悲しみを追い立てない、待つためのぬくもり。

どれくらいそうしていたのかわからない。

少しだけ落ち着いて顔を上げると、要が親指で涙をぬぐった。

「ちゃんと、守られてたな」

低い声がやわらかい。

「うん……」

「だから次は、俺たちがその続きをやる」

その言葉に、胸の奥がじんと熱くなる。

私は小さくうなずいて、手の中のUSBを見る。
古い鍵もある。
兄は本当に全部託してくれたのだ。

そのとき、廊下の向こうで小さく物音がした。

要の目が一瞬で変わる。

「誰かいる」

涙が一気に引く。
要はすぐに私を背にかばった。

通信へ低く告げる。

「恒一、動きがある。中だ」

すぐに返事が飛ぶ。

「こっちでも気配を確認した。裏口に回ってる」

敵だ。

こんなタイミングで。
兄の最後の手紙を見つけた、まさに今。

要が私の手から封筒とUSBをそっと受け取る。
そしてジャケットの内側にしまった。

「紗菜、俺の後ろ」

「うん」

涙の跡がまだ熱いのに、現実は容赦なく迫ってくる。
でももう、さっきまでとは違う。

兄の想いを受け取った。
託された。
なら、逃げられない。

要が片手で私の手を探る。
指先が触れて、静かに握られる。

「絶対離れるな」

「うん」

今度は迷わず答えられた。

兄の部屋に差し込む薄い朝の気配。
その中で、真実も危険も一緒に近づいてくる。

でも私はもう、ひとりじゃない。
兄が残してくれたものと、要のぬくもりを胸に、前を向いた。