独占愛は夜より深く。

東條の足音が完全に遠ざかってから、要はようやく私の手を引いた。

「今なら出られる」

低い声。
でもその落ち着きの奥に、急がなければいけない緊張が滲んでいる。

私は小さくうなずいて、要の隣を歩き出した。
ラウンジの照明は相変わらずやわらかくて、夜景も綺麗なままなのに、さっきまでとはもう全然違う場所みたいだった。

私たちはあくまで自然に、急ぎすぎない足取りで個室エリアを離れる。
走りたい。
でも走ったら終わる。
そうわかっているからこそ、普通のふりをするのが余計に苦しかった。

「紗菜」

「なに」

「笑え」

「え」

「少しでいい」

そんなの無理だと思った。
でも要は真顔のまま、私の腰を軽く引き寄せる。

「今のおまえ、緊張が顔に出すぎ」

そう言われて、私は必死に口元をやわらげた。
ぎこちないのは自分でもわかる。

すると要がほんの少しだけ目を細めた。

「下手」

「わかってる」

「でもかわいい」

今それを言う。
もう本当にずるい。

その一瞬のやり取りで、少しだけ呼吸が整う。
要はそれを狙っているのだと気づいて、胸が熱くなる。

エレベーター前まで来たとき、通信から伊織の声が入った。

「要さん、下のロビーに東條側の人間が二人います」

空気が一気に張る。

「こっちに気づいてる可能性高いです。正面は避けてください」

「非常階段は」
要が小さく問う。

「西側がまだ空いています。ただし長くはもちません」

「了解」

要はエレベーターを素通りし、そのまま私の手を引いて廊下の奥へ進む。
ホテルの華やかな空気が、少しずつ裏側の静けさに変わっていく。

関係者用の通路。
人気がない。
靴音だけが妙に響く。

「追われてる、よね」

やっと絞り出すと、要が前を見たまま答える。

「たぶんな」

「たぶんって」

「確定にしたくないだけだ」

短い返事。
でもその中に、私を不安にさせたくない気持ちが混じっているのがわかる。

通路の角を曲がる直前、要が突然私を引き寄せた。
そのまま壁際に体を寄せる。

「っ……」

声を出しかけた私の唇の前で、要の指がそっと止まる。

「静かに」

すぐ先を、黒服の男が二人通り過ぎていった。

私は息を止めた。
近い。
要の胸がすぐ目の前にある。
肩も、腕も、体温も全部近すぎて、緊張と別の意味で心臓が苦しい。

男たちの足音が遠ざかる。
それでも要はすぐに離れなかった。
私を隠すみたいに囲ったまま、しばらく気配をうかがっている。

「もういい?」

かすれた声で小さく聞くと、要が少しだけ視線を落とした。

「よくない」

「え」

「今離したら、たぶんまた顔赤い」

そんなこと言われて、余計に赤くなる。
でも次の瞬間には、要はもう真剣な顔に戻っていた。

「行くぞ」

再び手を取られ、私たちは西側の非常階段へ向かった。
重い扉を開けると、ひんやりした空気が流れ込む。
下へ、下へ。
一段ずつ足早に降りていく。

途中の踊り場で、通信がまた入る。

「裏口に車回します」
碧の声だった。
「五分持たせて」

「三分で行く」
要が返す。

「かっこつけるねえ」

「黙って回せ」

こんなときでも少しだけいつもの調子が混じっていて、それが逆に救いだった。

一階手前まで来たところで、下からドアの開く音がした。

誰かいる。

要はすぐに私を背にかばう。
その姿勢があまりにも自然で、胸が痛いほど熱くなる。

現れたのはホテルのスタッフ……ではなかった。
黒いスーツ姿の男。
ラウンジ近くで見た顔だ。

「月城様」

男が低く言う。
その呼び方に、空気が変わる。

「お連れの方を少しお借りできますか」

私は思わず息をのんだ。
でも要はまったく動じない。

「断る」

「東條様がお話を」

「断るって言った」

声は静か。
なのにそれ以上近づいたら切れる刃みたいな鋭さがあった。

男が一歩踏み出す。
その瞬間、要の手がさらに私を後ろへ押した。

「紗菜、下がってろ」

低い声。
今度は完全に戦う声だった。

私は震えそうになる足を押さえながら、一歩だけ下がる。
でも目はそらさない。

男が腕を伸ばしかけた、そのとき。

下の通路から勢いよく別のドアが開いた。

「迎えに来たよ!」

碧の声。
同時に、恒一が男の腕を横から払いのける。

「触るな」

一瞬で形勢が変わる。

男が舌打ちした隙に、要が私の手をつかんだ。

「走るぞ」

階段を駆け下り、裏口へ飛び出す。
夜風が頬を打つ。
その先には、エンジンをかけたままの車。

「早く!」

私たちは転がり込むように後部座席へ乗り込んだ。
ドアが閉まると同時に、車が急発進する。

身体が大きく揺れ、思わず私は要の腕をつかんだ。
すると要は何も言わず、そのまま私の肩を抱き寄せる。

「終わった……?」

息を切らしながら聞くと、要は短く首を振った。

「いや、始まった」

低い声。
でも私を抱く腕だけは、やさしく強い。

「向こうも、もう隠さない」

ホテルの灯りが遠ざかっていく。
華やかで静かな夜の裏側で、私たちは確かに踏み込んでしまった。
もう後戻りはできない場所まで。

それでも怖さより先に浮かんだのは、要の体温だった。
さっき壁際で守られたときも、今こうして抱き寄せられているときも。
私はこの人のそばで、確かに前へ進んでいる。

要がふいに私の髪に触れる。

「よく頑張った」

耳元で落ちたそのひと言に、胸の奥がじんと熱くなった。

「……要がいたから」

そう返すと、要の腕がわずかに強くなる。

「それなら、ずっといる」

まっすぐで、迷いのない声だった。