要の腕に抱き寄せられたまま、私はかろうじて息を整えた。
東條玲央の視線は、もうこちらから外れている。
でも、あの一瞬で十分だった。
たぶん気づかれた。
少なくとも、ただの客じゃないと疑われた可能性は高い。
「表情変えるな」
耳元で落ちた要の声は低くて静かだった。
「今、俺と話してる顔をしろ」
そう言われても難しい。
胸はうるさいし、手のひらも少し汗ばんでいる。
なのに要は、そんな私を見てほんの少しだけ口元をやわらげた。
「大丈夫」
短いそのひと言が、妙に効く。
「……要」
「ん」
「近い」
そう言うと、要がほんの少しだけ目を細めた。
「恋人なんだろ」
さらっと返されて、また顔が熱くなる。
今それを意識させないでほしいのに、こういうときほど要は容赦がない。
「座ったまま聞け」
要が私の肩を抱いたまま、視線だけで個室エリアを示す。
ガラスと装飾壁で半分ほど仕切られた空間。
完全な密室ではないから、位置によっては声が拾える。
要はそれを見抜いたうえで、いちばん自然に近づける角度を選んでいた。
「伊織」
要が通信を小さく押さえる。
「音、拾えるか」
すぐに返事が来る。
「近づけば断片は取れます。ただし不自然な移動は避けてください」
「了解」
要はごく自然な動作で、テーブル上のメニューに手を伸ばした。
そのまま私のほうへ少しかがむ。
外から見れば、ただ顔を寄せて話しているだけ。
でも実際は、個室から漏れる声を聞くための位置取りだった。
「紗菜、少しだけ合わせろ」
「……どうやって」
「恋人っぽく」
心臓が跳ねる。
でも、ここでためらってる場合じゃない。
私はそっと要の袖をつかんで、体を少しだけ寄せた。
すると要の目がわずかに揺れる。
「それは反則」
「そっちが言ったんでしょ」
「そうだけど」
低くこぼれる声が、少しだけ甘い。
緊張の中なのに、そんなやり取りができてしまう自分たちが不思議だった。
そのとき、個室のほうから声が漏れた。
「……例の件は、もう長く引っ張れない」
月城蓮司の声。
落ち着いていて、冷たい。
続いて、東條の低い声が重なる。
「なら、先にあの娘を押さえるべきだ」
息が止まりそうになる。
あの娘。
それが誰を指しているのか、考えるまでもなかった。
私の指先が震えた瞬間、要の手がテーブルの下でそっと私の手に重なった。
逃がさないように。
落ち着かせるように。
蓮司の声が続く。
「白石の兄が残したものは想定外だった。だが妹まで深入りするとはな」
「月影がついている以上、放置は危険だ」
東條の声は淡々としている。
「特に月城要は厄介だ」
その名前が出た途端、隣の要の空気がほんの少しだけ変わる。
静かだけれど、温度が下がったのがわかった。
「身内に牙を向ける子は、昔から厄介だ」
蓮司が薄く笑った気配がする。
「だが、まだ使い道はある」
私は思わず息をのんだ。
使い道。
それは要をまだ何かに利用するつもりだということだ。
通信の向こうで、伊織が小さく言う。
「録れています」
要は反応しない。
ただ、私の手を握る力だけが少し強くなる。
個室の中で、グラスが触れる小さな音がした。
「東條」
蓮司が低く言う。
「次の取引までに、娘の動きを止めろ」
「必要ならこちらで処理する」
その言葉に、背筋が一気に冷える。
怖い。
本当に、怖い。
でもその瞬間、要が私の肩をぐっと引き寄せた。
ほとんど抱きしめるみたいな距離。
外から見れば甘く寄り添う恋人同士。
でも私には、それが守るための壁だとわかる。
「もう十分だ」
要の声は低く、決まっていた。
「下がるぞ」
私はうなずこうとした。
そのときだった。
個室の扉が、音もなく開いた。
東條玲央が立ち上がっている。
私は反射で顔を伏せそうになった。
でも要の指がそっと顎に触れる。
「下向くな」
囁く声。
甘いほど静かなのに、命令としてはっきりしている。
「見られても、恋人のふりを崩すな」
東條の足音が近づいてくる。
ゆっくり。
試すみたいに。
息が苦しい。
要は私の髪をひと房すくって、耳元へかけた。
そしてそのまま、頬に指をすべらせる。
「要……」
かすれた声が出る。
本気でどきどきしていて、演技なんかじゃなかった。
「その顔、ちょうどいい」
「今言う……?」
「自然でかわいい」
そんなことを囁かれている間にも、東條の気配はすぐそばまで来ていた。
「失礼」
低い声が落ちる。
私はびくっと肩を揺らしそうになったけれど、要の腕がそれを許さなかった。
「何か」
要が冷たく返す。
東條は一瞬黙ったあと、薄く笑うような声音で言った。
「お連れの方が少し顔色悪そうでしたので」
「気のせいだ」
要の声は落ち着いている。
何も知らない客を装うには完璧すぎるほどだった。
「そうですか」
東條の視線が、私に落ちるのがわかる。
ぞくっとした。
見透かすような、嫌な目。
でもその瞬間、要が私の頬をそっと包んだ。
「すぐ休ませる」
言葉は東條に向けたものなのに、触れ方はやさしすぎて胸が痛い。
東條はそれ以上何も言わず、やがて足音を遠ざけた。
けれど完全には安心できない。
あれは確認だ。
私たちを疑って、試した。
要は東條の気配が消えるまで動かなかった。
やがて小さく息を吐く。
「紗菜」
「……うん」
「よく耐えた」
そのひと言で、張りつめていたものが一気に揺らぐ。
「こわかった」
本音がぽろっと落ちた。
取りつくろう余裕なんて、もうない。
すると要が、ほんの一瞬だけ額を寄せる。
「知ってる」
「でも、要がいたから……」
そこまで言って、言葉が詰まる。
要の目が静かに細まる。
「続きは出てから聞く」
低い声。
でも少しだけ甘い。
「今ここで言われたら、本気で連れて帰る」
そんなことを言うから、怖かったはずなのに胸が熱くなる。
「行くぞ」
要が立ち上がる。
自然な動作で私の手を取る。
恋人のふりのまま。
でも今はもう、その手の温度だけが現実だった。
東條玲央の視線は、もうこちらから外れている。
でも、あの一瞬で十分だった。
たぶん気づかれた。
少なくとも、ただの客じゃないと疑われた可能性は高い。
「表情変えるな」
耳元で落ちた要の声は低くて静かだった。
「今、俺と話してる顔をしろ」
そう言われても難しい。
胸はうるさいし、手のひらも少し汗ばんでいる。
なのに要は、そんな私を見てほんの少しだけ口元をやわらげた。
「大丈夫」
短いそのひと言が、妙に効く。
「……要」
「ん」
「近い」
そう言うと、要がほんの少しだけ目を細めた。
「恋人なんだろ」
さらっと返されて、また顔が熱くなる。
今それを意識させないでほしいのに、こういうときほど要は容赦がない。
「座ったまま聞け」
要が私の肩を抱いたまま、視線だけで個室エリアを示す。
ガラスと装飾壁で半分ほど仕切られた空間。
完全な密室ではないから、位置によっては声が拾える。
要はそれを見抜いたうえで、いちばん自然に近づける角度を選んでいた。
「伊織」
要が通信を小さく押さえる。
「音、拾えるか」
すぐに返事が来る。
「近づけば断片は取れます。ただし不自然な移動は避けてください」
「了解」
要はごく自然な動作で、テーブル上のメニューに手を伸ばした。
そのまま私のほうへ少しかがむ。
外から見れば、ただ顔を寄せて話しているだけ。
でも実際は、個室から漏れる声を聞くための位置取りだった。
「紗菜、少しだけ合わせろ」
「……どうやって」
「恋人っぽく」
心臓が跳ねる。
でも、ここでためらってる場合じゃない。
私はそっと要の袖をつかんで、体を少しだけ寄せた。
すると要の目がわずかに揺れる。
「それは反則」
「そっちが言ったんでしょ」
「そうだけど」
低くこぼれる声が、少しだけ甘い。
緊張の中なのに、そんなやり取りができてしまう自分たちが不思議だった。
そのとき、個室のほうから声が漏れた。
「……例の件は、もう長く引っ張れない」
月城蓮司の声。
落ち着いていて、冷たい。
続いて、東條の低い声が重なる。
「なら、先にあの娘を押さえるべきだ」
息が止まりそうになる。
あの娘。
それが誰を指しているのか、考えるまでもなかった。
私の指先が震えた瞬間、要の手がテーブルの下でそっと私の手に重なった。
逃がさないように。
落ち着かせるように。
蓮司の声が続く。
「白石の兄が残したものは想定外だった。だが妹まで深入りするとはな」
「月影がついている以上、放置は危険だ」
東條の声は淡々としている。
「特に月城要は厄介だ」
その名前が出た途端、隣の要の空気がほんの少しだけ変わる。
静かだけれど、温度が下がったのがわかった。
「身内に牙を向ける子は、昔から厄介だ」
蓮司が薄く笑った気配がする。
「だが、まだ使い道はある」
私は思わず息をのんだ。
使い道。
それは要をまだ何かに利用するつもりだということだ。
通信の向こうで、伊織が小さく言う。
「録れています」
要は反応しない。
ただ、私の手を握る力だけが少し強くなる。
個室の中で、グラスが触れる小さな音がした。
「東條」
蓮司が低く言う。
「次の取引までに、娘の動きを止めろ」
「必要ならこちらで処理する」
その言葉に、背筋が一気に冷える。
怖い。
本当に、怖い。
でもその瞬間、要が私の肩をぐっと引き寄せた。
ほとんど抱きしめるみたいな距離。
外から見れば甘く寄り添う恋人同士。
でも私には、それが守るための壁だとわかる。
「もう十分だ」
要の声は低く、決まっていた。
「下がるぞ」
私はうなずこうとした。
そのときだった。
個室の扉が、音もなく開いた。
東條玲央が立ち上がっている。
私は反射で顔を伏せそうになった。
でも要の指がそっと顎に触れる。
「下向くな」
囁く声。
甘いほど静かなのに、命令としてはっきりしている。
「見られても、恋人のふりを崩すな」
東條の足音が近づいてくる。
ゆっくり。
試すみたいに。
息が苦しい。
要は私の髪をひと房すくって、耳元へかけた。
そしてそのまま、頬に指をすべらせる。
「要……」
かすれた声が出る。
本気でどきどきしていて、演技なんかじゃなかった。
「その顔、ちょうどいい」
「今言う……?」
「自然でかわいい」
そんなことを囁かれている間にも、東條の気配はすぐそばまで来ていた。
「失礼」
低い声が落ちる。
私はびくっと肩を揺らしそうになったけれど、要の腕がそれを許さなかった。
「何か」
要が冷たく返す。
東條は一瞬黙ったあと、薄く笑うような声音で言った。
「お連れの方が少し顔色悪そうでしたので」
「気のせいだ」
要の声は落ち着いている。
何も知らない客を装うには完璧すぎるほどだった。
「そうですか」
東條の視線が、私に落ちるのがわかる。
ぞくっとした。
見透かすような、嫌な目。
でもその瞬間、要が私の頬をそっと包んだ。
「すぐ休ませる」
言葉は東條に向けたものなのに、触れ方はやさしすぎて胸が痛い。
東條はそれ以上何も言わず、やがて足音を遠ざけた。
けれど完全には安心できない。
あれは確認だ。
私たちを疑って、試した。
要は東條の気配が消えるまで動かなかった。
やがて小さく息を吐く。
「紗菜」
「……うん」
「よく耐えた」
そのひと言で、張りつめていたものが一気に揺らぐ。
「こわかった」
本音がぽろっと落ちた。
取りつくろう余裕なんて、もうない。
すると要が、ほんの一瞬だけ額を寄せる。
「知ってる」
「でも、要がいたから……」
そこまで言って、言葉が詰まる。
要の目が静かに細まる。
「続きは出てから聞く」
低い声。
でも少しだけ甘い。
「今ここで言われたら、本気で連れて帰る」
そんなことを言うから、怖かったはずなのに胸が熱くなる。
「行くぞ」
要が立ち上がる。
自然な動作で私の手を取る。
恋人のふりのまま。
でも今はもう、その手の温度だけが現実だった。



