碧の待つ車へ飛び込むように乗り込んだ瞬間、ようやく肺に息が戻った。
ドアが閉まる。
外の気配が遮られて、張りつめていた神経が少しだけ緩む。
それでも心臓はまだ速いままだった。
「全員いる?」
運転席の碧がバックミラー越しに確認する。
「いる」
恒一が短く答える。
「伊織も無事だ」
助手席から伊織が振り返る。
腕の中には、あの帳簿と記録媒体がしっかり抱えられていた。
「証拠もあります」
その言葉で、私はやっと少しだけ息をついた。
逃げきれた。
まだ完全じゃなくても、とにかく今は生きてここにいる。
隣では、要が黙ったまま私を見ていた。
その視線に気づいて顔を向けると、要は何も言わずに私の頬へ手を伸ばす。
「……何」
「震えてる」
そう言われて初めて、自分の指先が小さく揺れているのに気づいた。
「平気」
反射でそう答えたけれど、要は信じなかった。
「平気なやつはそんな顔しない」
低い声。
責めるんじゃなくて、見抜いたうえで受け止める響き。
次の瞬間、要は私の手を取って、自分の手の中に包み込んだ。
大きくて、少し冷たいのに、すぐに熱が移る。
「呼吸」
「え」
「合わせろ」
言われるままに息を吸って、吐く。
もう一度。
そのたびに、要の親指が手の甲をゆっくりなでた。
「……少し、落ち着いた」
そう言うと、要の目がほんの少しだけやわらいだ。
「ならいい」
車は夜の道路を滑るように走っていく。
窓の外の港の灯りが、流れる線みたいに過ぎていった。
しばらくして、別拠点へ戻るとすぐに机の上へ資料が並べられた。
さっきまでの甘さも緊張も全部抱えたまま、また現実が目の前に積み上がる。
「倉庫で確認できた人物は二人」
伊織が画面を切り替える。
「月城蓮司と、帽子の男です」
「蓮司は確定だ」
恒一が腕を組む。
「問題はもう一人」
私はモニターに映るぼやけた静止画を見つめた。
横顔までは出ていない。
でもあの気配は忘れられない。
倉庫の通路で向けられた視線が、まだ肌に残っている気がした。
「動き方が妙なんです」
伊織が静かに言う。
「蓮司の護衛にしては近すぎる。部下というより、対等に近い位置です」
「共同関係ってこと?」
碧が首をかしげる。
「その可能性が高いです」
私は画面を見たまま、小さくつぶやいた。
「……あの人、私の名前を知ってた」
部屋が静まる。
そうだ。
あの瞬間、上からはっきり呼ばれた。
白石紗菜、と。
ただの巻き込まれた人間としてじゃない。
最初から知っていたみたいに。
要の表情が、すっと冷える。
「蓮司側に紗菜の情報が渡ってる」
「内部から漏れてるか、前から追われてたかだな」
恒一が言う。
「どっちにしても気味悪いね」
碧の笑みも今は薄い。
私は自分の腕をそっと抱いた。
兄の死の真相を追う中で、知らないうちに自分も向こうの視界に入っていた。
その事実がじわじわ怖い。
すると、隣の要が椅子ごと近づいた。
触れるか触れないかの距離。
でも、その近さだけで少し落ち着く。
「伊織」
要が低く言う。
「帽子の男の体格、歩幅、利き手、全部洗え」
「すでに始めています」
「それと蓮司の過去の接触記録。兄貴の件より前まで遡れ」
「了解です」
伊織の指がキーボードの上を滑る。
画面には複数の記録と、時系列の表が並び始めた。
「……これ」
思わず私が声をもらす。
ある日付の列に、見覚えがあった。
兄が亡くなる二日前。
その欄に、蓮司と帽子の男の接触記録がある。
「その日」
私は画面を指さした。
「お兄ちゃん、電話してきた」
全員の視線が集まる。
喉が少し詰まる。
でも今は、話さなきゃいけない。
「珍しく夜に電話してきて、大丈夫かって聞いたら、すぐ切れたの。あとで話すって言って……それっきりだった」
その記憶は、ずっと引っかかっていた。
でも怖くて深く考えないようにしていたのかもしれない。
伊織がすぐに記録を照合する。
「時間は」
「二十二時くらい」
「合います」
伊織の声が少しだけ鋭くなる。
「この接触記録は二十一時四十分です」
部屋の空気が重くなる。
兄はそのあと、私に電話した。
つまりこの二人と会った直後に。
何かあったのだ。
何かを知って、誰かに伝えたかった。
「お兄ちゃん……」
胸がきゅっと痛む。
でも今度は、ただ苦しいだけじゃない。
確実に近づいている。
兄が残した真実の輪郭に。
要の手が、そっと私の手の上に重なった。
人前なのに、今はもうそれを隠そうともしない。
「近い」
低い声が落ちる。
「あと少しで、繋がる」
私はその手のぬくもりに支えられるように、小さくうなずいた。
そのとき、伊織の画面に新しい情報が弾き出された。
「出ました」
全員が前のめりになる。
「帽子の男の歩行パターンと過去映像の一致率が高い人物がいます」
「誰だ」
恒一が聞く。
伊織は画面を見つめたまま、短く告げた。
「東條玲央」
知らない名前だった。
でも、要の表情が変わる。
「……東條」
その声音に、私はすぐに気づく。
この名前を、要は知っている。
「誰」
静かに聞くと、要は少しだけ間を置いた。
そして、低く言う。
「昔、月城家の仕事をしていた男だ」
「していた?」
「今は表から消えてる。けど裏ではまだ動いてるって噂があった」
碧が小さく息を吐く。
「最悪の組み合わせだね。蓮司と東條が組んでるなら、相当深いよ」
私はモニターの名前を見つめた。
東條玲央。
兄の最期の直前に蓮司と会っていた男。
そして私の名前を知っていた影。
真相が、また一段近づく。
要が椅子から立ち上がる。
その目はもう完全に決まっていた。
「次は東條を追う」
「場所は?」
恒一が即座に返す。
伊織が新たな地図を出す。
「絞れています。市内の高層ホテルです。定期的に蓮司側の人間と会っています」
ホテル。
表の顔をした場所。
でもその奥で、兄の死につながる闇が動いている。
私は要を見上げた。
要もこちらを見る。
ほんの一瞬だけ、戦う顔がやわらぐ。
「行けるか」
その問いに、私は今度は迷わなかった。
「行く」
要の口元がわずかにやわらいで、次の瞬間にはまた鋭くなる。
「じゃあ、終わらせに行く」
夜はまだ終わらない。
でも、確実に朝へ近づいていた。
ドアが閉まる。
外の気配が遮られて、張りつめていた神経が少しだけ緩む。
それでも心臓はまだ速いままだった。
「全員いる?」
運転席の碧がバックミラー越しに確認する。
「いる」
恒一が短く答える。
「伊織も無事だ」
助手席から伊織が振り返る。
腕の中には、あの帳簿と記録媒体がしっかり抱えられていた。
「証拠もあります」
その言葉で、私はやっと少しだけ息をついた。
逃げきれた。
まだ完全じゃなくても、とにかく今は生きてここにいる。
隣では、要が黙ったまま私を見ていた。
その視線に気づいて顔を向けると、要は何も言わずに私の頬へ手を伸ばす。
「……何」
「震えてる」
そう言われて初めて、自分の指先が小さく揺れているのに気づいた。
「平気」
反射でそう答えたけれど、要は信じなかった。
「平気なやつはそんな顔しない」
低い声。
責めるんじゃなくて、見抜いたうえで受け止める響き。
次の瞬間、要は私の手を取って、自分の手の中に包み込んだ。
大きくて、少し冷たいのに、すぐに熱が移る。
「呼吸」
「え」
「合わせろ」
言われるままに息を吸って、吐く。
もう一度。
そのたびに、要の親指が手の甲をゆっくりなでた。
「……少し、落ち着いた」
そう言うと、要の目がほんの少しだけやわらいだ。
「ならいい」
車は夜の道路を滑るように走っていく。
窓の外の港の灯りが、流れる線みたいに過ぎていった。
しばらくして、別拠点へ戻るとすぐに机の上へ資料が並べられた。
さっきまでの甘さも緊張も全部抱えたまま、また現実が目の前に積み上がる。
「倉庫で確認できた人物は二人」
伊織が画面を切り替える。
「月城蓮司と、帽子の男です」
「蓮司は確定だ」
恒一が腕を組む。
「問題はもう一人」
私はモニターに映るぼやけた静止画を見つめた。
横顔までは出ていない。
でもあの気配は忘れられない。
倉庫の通路で向けられた視線が、まだ肌に残っている気がした。
「動き方が妙なんです」
伊織が静かに言う。
「蓮司の護衛にしては近すぎる。部下というより、対等に近い位置です」
「共同関係ってこと?」
碧が首をかしげる。
「その可能性が高いです」
私は画面を見たまま、小さくつぶやいた。
「……あの人、私の名前を知ってた」
部屋が静まる。
そうだ。
あの瞬間、上からはっきり呼ばれた。
白石紗菜、と。
ただの巻き込まれた人間としてじゃない。
最初から知っていたみたいに。
要の表情が、すっと冷える。
「蓮司側に紗菜の情報が渡ってる」
「内部から漏れてるか、前から追われてたかだな」
恒一が言う。
「どっちにしても気味悪いね」
碧の笑みも今は薄い。
私は自分の腕をそっと抱いた。
兄の死の真相を追う中で、知らないうちに自分も向こうの視界に入っていた。
その事実がじわじわ怖い。
すると、隣の要が椅子ごと近づいた。
触れるか触れないかの距離。
でも、その近さだけで少し落ち着く。
「伊織」
要が低く言う。
「帽子の男の体格、歩幅、利き手、全部洗え」
「すでに始めています」
「それと蓮司の過去の接触記録。兄貴の件より前まで遡れ」
「了解です」
伊織の指がキーボードの上を滑る。
画面には複数の記録と、時系列の表が並び始めた。
「……これ」
思わず私が声をもらす。
ある日付の列に、見覚えがあった。
兄が亡くなる二日前。
その欄に、蓮司と帽子の男の接触記録がある。
「その日」
私は画面を指さした。
「お兄ちゃん、電話してきた」
全員の視線が集まる。
喉が少し詰まる。
でも今は、話さなきゃいけない。
「珍しく夜に電話してきて、大丈夫かって聞いたら、すぐ切れたの。あとで話すって言って……それっきりだった」
その記憶は、ずっと引っかかっていた。
でも怖くて深く考えないようにしていたのかもしれない。
伊織がすぐに記録を照合する。
「時間は」
「二十二時くらい」
「合います」
伊織の声が少しだけ鋭くなる。
「この接触記録は二十一時四十分です」
部屋の空気が重くなる。
兄はそのあと、私に電話した。
つまりこの二人と会った直後に。
何かあったのだ。
何かを知って、誰かに伝えたかった。
「お兄ちゃん……」
胸がきゅっと痛む。
でも今度は、ただ苦しいだけじゃない。
確実に近づいている。
兄が残した真実の輪郭に。
要の手が、そっと私の手の上に重なった。
人前なのに、今はもうそれを隠そうともしない。
「近い」
低い声が落ちる。
「あと少しで、繋がる」
私はその手のぬくもりに支えられるように、小さくうなずいた。
そのとき、伊織の画面に新しい情報が弾き出された。
「出ました」
全員が前のめりになる。
「帽子の男の歩行パターンと過去映像の一致率が高い人物がいます」
「誰だ」
恒一が聞く。
伊織は画面を見つめたまま、短く告げた。
「東條玲央」
知らない名前だった。
でも、要の表情が変わる。
「……東條」
その声音に、私はすぐに気づく。
この名前を、要は知っている。
「誰」
静かに聞くと、要は少しだけ間を置いた。
そして、低く言う。
「昔、月城家の仕事をしていた男だ」
「していた?」
「今は表から消えてる。けど裏ではまだ動いてるって噂があった」
碧が小さく息を吐く。
「最悪の組み合わせだね。蓮司と東條が組んでるなら、相当深いよ」
私はモニターの名前を見つめた。
東條玲央。
兄の最期の直前に蓮司と会っていた男。
そして私の名前を知っていた影。
真相が、また一段近づく。
要が椅子から立ち上がる。
その目はもう完全に決まっていた。
「次は東條を追う」
「場所は?」
恒一が即座に返す。
伊織が新たな地図を出す。
「絞れています。市内の高層ホテルです。定期的に蓮司側の人間と会っています」
ホテル。
表の顔をした場所。
でもその奥で、兄の死につながる闇が動いている。
私は要を見上げた。
要もこちらを見る。
ほんの一瞬だけ、戦う顔がやわらぐ。
「行けるか」
その問いに、私は今度は迷わなかった。
「行く」
要の口元がわずかにやわらいで、次の瞬間にはまた鋭くなる。
「じゃあ、終わらせに行く」
夜はまだ終わらない。
でも、確実に朝へ近づいていた。



