犯人の身体で一年間


第三章 一年前の僕


『私たちは家族じゃない』

 母の声が頭の奥で響いた瞬間、湊は駅前のガラスに片手をついた。

 目の前には黒瀬直人の顔がある。

 けれど今だけは、その顔が知らない男のものには見えなかった。

 一年前にも同じ顔を見ていた。

 毎朝起きるたびに鏡の中にいて、歯を磨けば同じように口を動かし、眠れない夜には暗い窓へ薄く浮かんでいた顔。

 思い出したわけではない。

 記憶として形になったわけでもない。

 それでも身体のどこかが、この顔を知っている。

「俺は……一年前にも」

 黒瀬直人になっていた。

 三日間。

 その三日間の記憶だけが自分の人生から抜け落ちている。

 いや、本当に三日間だけなのだろうか。

 十一月七日。

 黒瀬の話が本当なら一年前の今日、自分は交換屋で黒瀬と入れ替わった。

 そのあと何らかの理由で元に戻り、交換屋へ行ったことも黒瀬の身体で過ごしたことも忘れた。

 そして一年後。

 家族が亡くなった翌日に、再び同じ店へ入り同じ男と交換した。

 偶然ではない。

 誰かが仕組んでいる。

 それも一年前からではなく、もっと前から。

 湊はスマートフォンを開き、Sから届いた最後のメッセージをもう一度読んだ。

『一番信用してはいけないのは、一年前の相沢湊』

 自分を信用するな。

 そんな言葉ほど厄介なものはない。

 黒瀬を疑うことはできる。

 水城刑事も疑える。

 Sだって何者か分からない。

 けれど一年前の自分を疑えと言われても、その自分の記憶がない。

「だったら」

 湊は小さく呟いた。

「調べるしかないだろ」

 黒瀬の言葉もSの言葉も信じない。

 自分で確かめる。

 一年前の十一月七日から三日間。

 その時、自分が何をしていたのか。

 それを知れば今回の事件に近づける。

 少なくとも湊には、そう思えた。


◇


 最初に向かったのは大学だった。

 黒瀬の身体で自分の大学へ行くというのは妙な感覚だった。

 正門。

 校舎。

 自動販売機。

 講義棟へ向かう学生たち。

 すべて知っている場所なのに、今日は自分だけが部外者だった。

 友人とすれ違った。

 佐伯だった。

 いつもなら向こうからくだらない話を振ってくるのに、当然こちらを見ても何も言わない。

 湊は思わず立ち止まった。

 佐伯はスマートフォンを見ながら横を通り過ぎ、そのまま人混みへ消えていく。

 自分の身体が変わるだけで、世界から自分が消えたように感じる。

「……こういうことか」

 一年間。

 これを続ける。

 誰も自分を自分として見てくれない生活。

 昨日までは想像できなかった。

 けれど今は、そんなことより確認したいものがある。

 大学の図書館。

 学生証は使えない。

 当然だった。

 今持っているのは黒瀬の財布だけで、自分の学生証は相沢湊の身体と一緒に黒瀬が持っている。

 そこで湊は大学へ入ることを諦め、キャンパス横にある喫茶店へ向かった。

 学生がよく使う小さな店。

 自分も一年以上通っている。

 ドアを開ける。

「いらっしゃいませ」

 店主の声。

 当然こちらを知らない。

 湊は奥の席へ座り、コーヒーを頼んだ。

 目的は一つ。

 一年前の予定を確認すること。

 黒瀬のスマートフォンを開き、カレンダーを一年前まで遡る。

 十一月。

 予定はほとんど入っていない。

 十一月七日。

 空白。

 八日。

 空白。

 九日。

 空白。

 十日。

 一件。

『返却』

「返却?」

 詳細を開く。

 場所。

 記載なし。

 時間。

 午後十一時五十分。

 そしてメモ。

『三日間で終わらせる』

 湊の指が止まった。

「本当だったんだ」

 一年前の交換。

 三日間。

 黒瀬の話と一致している。

 十一月七日に交換し、十一月十日の深夜に戻ったのだとすれば辻褄は合う。

 けれど何を三日間で終わらせるつもりだったのか。

 湊は七日、八日、九日の写真を探した。

 黒瀬のスマートフォンに保存されている写真は多くない。

 ほとんどが仕事らしい書類や風景。

 しかし一年前まで遡ると、不自然な空白があった。

 十一月六日。

 写真あり。

 十一月七日。

 なし。

 八日。

 なし。

 九日。

 なし。

 十日。

 なし。

 十一日。

 再び写真がある。

 交換期間だけ綺麗に消えている。

「消したのか」

 誰が。

 自分?

 黒瀬?

 交換屋?

 分からない。

 その時、店員がコーヒーを運んできた。

「お待たせしました」

「ありがとうございます」

 カップを受け取る。

 店員が戻る。

 湊は何気なく店内を見た。

 その瞬間だった。

「……え?」

 壁。

 古い写真。

 この店では開店以来、店内で撮った写真を何枚か壁に飾っている。

 学生。

 家族。

 常連客。

 店主。

 その中の一枚。

 日付。

 去年の十一月八日。

 湊は立ち上がった。

 写真へ近づく。

「嘘だろ」

 写っている。

 黒瀬直人。

 今の自分の顔。

 窓際の席。

 誰かと向かい合っている。

 そして相手は。

「母さん……」

 相沢恵美。

 一年前。

 母と黒瀬が会っている。

 違う。

 その時黒瀬の身体にいたのが自分なら。

「俺と母さん?」

 自分が黒瀬の身体で母に会っていた。

 湊は写真へ顔を近づけた。

 母は笑っていない。

 黒瀬の身体をした自分も笑っていない。

 テーブルの上には封筒。

 そして写真の端。

 もう一人。

 後ろの席に座っている男。

「……水城」

 刑事。

 水城がいる。

 三人。

 一年前。

 同じ店。

 偶然とは思えない。

「すみません」

 湊は店員を呼んだ。

「この写真なんですけど」

「はい?」

「いつ撮ったものか分かります?」

 店員が写真を見る。

「日付書いてありますよ」

「去年の十一月八日ですよね」

「そうですね」

「この人たち、覚えてませんか」

 黒瀬。

 母。

 水城。

 店員は少し考える。

「私はちょっと……」

「店長なら?」

「聞いてみましょうか」

「お願いします」

 数分後。

 奥から六十代くらいの店主が出てきた。

「写真?」

「はい。この三人なんですけど」

 店主が写真を見る。

「ああ」

 すぐだった。

「覚えてます?」

「この人は覚えてる」

 指。

 黒瀬。

 今の湊。

「俺?」

「はい。何回か来てましたよ」

「何回?」

「三回くらいだったかな」

 湊の心臓が速くなる。

「去年の十一月七日から十日くらいですか」

「そこまでは覚えてないけど、この写真の頃だね」

「誰と来てました?」

「最初は一人」

「はい」

「次はこの女性」

 母。

「それから」

 店主が写真の水城を見る。

「この人とも話してたと思う」

「三人で?」

「いや」

 店主は首を振る。

「別々だった」

「別々?」

「この写真の日も最初は女性と二人で、そのあと女性が帰ってから後ろの男性が席を移動してきた」

 湊は写真を見る。

 母が帰ったあと。

 水城が自分の前へ座った。

「何を話してたか覚えてませんか」

「さすがにそこまでは」

「何でもいいんです」

 店主が少し考える。

「そうだなあ」

 そして。

「名前の話をしてたような」

「名前?」

「うん」

「どんな」

「聞こえたのは少しだけだけど」

 店主は思い出すように眉を寄せる。

「あなたが、名前が違うって言ってた」

「俺が?」

「たぶん」

「誰の名前です?」

「そこまでは」

「他には?」

 店主はしばらく黙った。

「一回だけ」

「はい」

「女性が泣いてた」

 母。

「何て言ってました?」

「それは覚えてる」

 店主の声が少し小さくなる。

「あなたに」

 一拍。

「もう湊に戻らないでって」

 湊は何も言えなかった。


◇


 店を出たあとも、その言葉が頭から離れなかった。

 もう湊に戻らないで。

 昨日。

 黒瀬から聞いた母の言葉。

『もし湊が交換屋へ行ったら、今度こそ一年間戻さないで』

 一年前から母は交換屋を知っていた。

 それだけではない。

 自分が黒瀬と入れ替わっていることも知っていた。

 だから黒瀬の顔をした自分へ、

 もう湊に戻らないで。

 そう言った。

「なんでだよ……」

 自分の息子に戻るなと言う母。

 普通ではない。

 何か理由がある。

 母は何かを恐れていた。

 そしてその理由は、おそらく一年前の三日間にある。

 湊は駅へ向かいながら黒瀬のスマートフォンを操作した。

 通話履歴。

 一年前の履歴は残っていない。

 メッセージ。

 ほとんど消えている。

 メール。

 古いものが大量に残っている。

 検索。

『相沢』

 0件。

『湊』

 0件。

『恵美』

 0件。

『交換』

 三件。

 湊は立ち止まった。

 一件目。

 一年前。

 十一月六日。

 交換前日。

 件名。

『ご予約確認』

 送信元。

 見覚えのないアドレス。

 本文。

『交換日時 11月7日 00:12』

『交換期間 三日間』

『交換相手 指定済』

 湊は息を呑む。

 指定済。

 去年もランダムではなかった。

 次。

『注意事項』

『期間中、交換相手本人との直接接触は禁止』

『記憶保持を希望する場合は事前申請が必要です』

「……記憶保持?」

 湊は画面を見つめる。

 今回、そんな説明はされていない。

 さらに下。

『記憶保持申請 未提出』

 つまり一年前。

 自分は最初から交換期間中の記憶を失うことになっていた?

 誰が決めた。

 次のメール。

 十一月十日。

 午後十一時四十二分。

 交換終了直前。

 件名。

『最終確認』

 本文。

『記憶処理の内容を変更しますか』

 その下。

『現在の設定』

『交換期間中の記憶――削除』

『交換屋に関する記憶――削除』

『交換相手に関する記憶――削除』

 そして。

『申請者――相沢湊』

 湊はスマートフォンを持つ手を下ろした。

「俺が……」

 自分で消した。

 黒瀬が消したのではない。

 交換屋が勝手に奪ったわけでもない。

 一年前の相沢湊自身が、自分の意思で三日間の記憶を削除した。

 Sの言葉。

『一番信用してはいけないのは、一年前の相沢湊』

 黒瀬の言葉。

『君は俺の身体で家族を調べてた』

 母の言葉。

『もう湊に戻らないで』

 何があった。

 たった三日間で。

 自分は何を知った。

 なぜ忘れなければならなかった。


◇


 午後三時四十一分。

 湊は黒瀬のマンションには戻らなかった。

 追ってきた男が誰なのか分からない以上、危険だった。

 駅前のファミリーレストラン。

 一番奥の席。

 人目がある。

 ここなら少なくとも突然何かされる可能性は低い。

 湊はメールをさらに調べた。

 一年前。

 十一月十日。

 もう一件。

 下書き。

 送信されていないメールが残っていた。

 宛先。

 なし。

 件名。

『一年後の俺へ』

 湊の指が止まった。

「……俺?」

 開く。

 本文。

『これを読んでいるなら、たぶん全部忘れている』

 息が浅くなる。

 自分が書いた。

 一年前の自分が。

 記憶を消す前に。

『忘れることを決めたのは俺自身だ』

『誰かに強制されたわけじゃない』

『黒瀬を信用するな』

『水城も信用するな』

 Sと同じ。

 その次。

『でも二人とも敵とは限らない』

 湊は眉をひそめる。

『母さんは全部知っている』

『父さんは半分しか知らない』

『美咲は何も知らない』

『だから美咲だけには絶対に話すな』

 妹。

 湊は目を閉じる。

 もう聞くことはできない。

 美咲もいない。

『一番重要なのは、俺たちが相沢家を調べていた理由だ』

 俺たち。

 自分と誰か。

『家族を疑っていたわけじゃない』

『家族を守るためでもない』

 その次。

 湊の指が止まる。

『誰が本当の家族なのか確認していた』

「……」

 昨日。

 蘇った記憶。

『私たちは家族じゃない』

 母の言葉。

 メールは続く。

『俺は母さんの息子だ』

『美咲は俺の妹だ』

『そこは間違いない』

『でも』

 空白。

『父さんは違う』

 湊は画面を見つめた。

「父さんが……?」

 実の父ではない。

 そういう意味なのか。

 けれど、それだけなら交換屋とは関係ない。

 さらに読む。

『正確には、今の父さんの身体にいる人間が違う』

 湊の呼吸が止まった。

 身体。

 中にいる人間。

 交換。

「まさか」

『いつから入れ替わっているか分からない』

『母さんも知らない』

『少なくとも五年前から、父さんは父さんじゃない』

 湊は椅子へ深く座り込んだ。

 父。

 相沢修一。

 毎朝新聞を読みながらコーヒーを飲んでいた。

 休日は昼まで寝ていた。

 たまに料理をすると必ず味が濃かった。

 美咲とテレビのチャンネルで言い合って。

 母に怒られて。

 自分の進路に口を出して。

 大学へ合格した時は誰より喜んでいた。

 あの父が。

 父ではなかった?

『証拠は交換履歴にある』

『交換屋には全会員の履歴が残っている』

『でも普通の会員には見られない』

『水城はそれを調べている』

 湊は止まる。

 水城刑事。

 だから一年前、自分は水城と会っていた。

『水城は警察として動いているわけじゃない』

『個人的に交換屋を追っている』

『理由は聞くな』

『聞いたらたぶん巻き込まれる』

「もう巻き込まれてるよ……」

 思わず呟いた。

 次。

『黒瀬は交換屋の古い会員』

『何度も交換している』

『だから身体の履歴と本人の履歴が一致しない』

『黒瀬の身体で犯罪をした人間がいても、黒瀬本人が犯人とは限らない』

 今回と同じ。

 事件の日、黒瀬の身体は相沢家にいた。

 しかし中身が誰だったか分からない。

『そして』

 文章はそこで一度途切れていた。

 次の行。

『俺も同じだ』

 湊は動けない。

『相沢湊の身体で何かをした人間がいても、それが俺とは限らない』

 頭が混乱する。

 一年前。

 自分の身体。

 その時中にいたのは黒瀬のはず。

 なら黒瀬が何かした。

 しかし。

 もし黒瀬もまた誰かと交換していたら。

 交換の上に交換。

 身体だけでは犯人を特定できない。

 湊は続きを読む。

『この事件で顔を信じるな』

『名前も信じるな』

『身体も信じるな』

『その人間が何を知っているかだけを見ろ』

 そして最後。

『一年後、もし家族に何か起きたら』

 湊の指が震え始める。

 なぜ。

 一年前の自分は。

 一年後に家族へ何か起きる可能性を考えている。

『それは偶然じゃない』

『俺たちは一度失敗した』

『次は』

 そこで文章が途切れている。

「次は……?」

 スクロール。

 何もない。

 下書きはそこで終わっていた。


◇


 午後四時十二分。

 Sからメッセージ。

『見つけた?』

 湊はすぐ返信した。

『何を』

『一年前のあなたが残したもの』

 背筋が冷たくなる。

『メールのことか』

 既読。

『やっぱり見つけたんだ』

『お前誰だ』

 既読。

『一年前の俺を知ってるのか』

 既読。

 返事。

『知ってる』

『会ったことある?』

『ある』

『いつ』

『三日間ずっと一緒にいた』

 湊は画面を見る。

 三日間。

 交換期間。

『名前は』

 返事なし。

『教えろ』

『まだ無理』

『なんで』

『あなたが私を覚えていないから』

 私。

 女性。

 電話の声も女性だった。

『写真は』

『何』

『一年前の俺と一緒に写ってないか』

 しばらくして。

 一枚の画像が届いた。

 湊は開く。

 夜。

 公園。

 ベンチ。

 黒瀬直人。

 つまり一年前の湊。

 隣。

 女性。

 帽子。

 マスク。

 顔はほとんど分からない。

 ただ。

 手首。

 ブレスレット。

 湊はどこかで見たことがある気がした。

『顔見せろ』

『無理』

『なんで』

『今の私の顔を見ても意味がない』

 湊の指が止まる。

『交換してるのか』

 既読。

 返事。

『そう』

 Sも交換屋の会員。

『今誰の身体』

 返事なし。

『一年前は』

 既読。

『一年前の身体も私のものじゃない』

 誰も顔で判断できない。

 黒瀬。

 水城。

 S。

 父。

 そして自分。

 この物語にいる誰も、本当にその身体の持ち主なのか分からない。

『一年前の俺は何をしてた』

 既読。

『調べてた』

『何を』

『交換屋』

『家族じゃないのか』

『両方』

『なんで』

 少し間。

『あなたのお父さんが』

 次。

『交換屋の会員だったから』

 湊は目を閉じた。

 メールの内容と一致する。

『誰と交換した』

『分からない』

『いつ』

『少なくとも五年前』

『本当の父さんは』

 返事が遅い。

『生きてるのか』

 既読。

 一分。

 二分。

『分からない』

 湊は唇を噛む。

『事件の日、父さんの身体にいたのは誰』

 既読。

『それも分からない』

『お前何なら分かるんだよ』

 送った直後、後悔した。

 Sはしばらく返さない。

 そして。

『一つだけ』

『何』

『昨日亡くなった三人のうち』

 湊の指が止まる。

『一人は』

 次。

『事件が起きる前から死んでいた』

「……何?」

 意味が分からない。

『どういう意味』

『身体は生きていた』

『でも中にいた本来の人間は、もういなかった』

 湊は画面を見つめる。

『誰』

 既読。

『父さん?』

 既読。

『母さん?』

 既読。

『美咲?』

 返事が来ない。

『誰なんだよ』

 ようやく。

『それを調べたから』

 一拍。

『あなたは一年前の記憶を消した』

 湊は動けなかった。


◇


 午後五時五十六分。

 湊はファミリーレストランを出た。

 空はもう暗くなり始めている。

 行く場所がない。

 黒瀬の部屋は危険。

 自分の家には警察がいるかもしれない。

 友人の家へ行っても、今の姿では説明できない。

 ホテル。

 それしかない。

 駅近くのビジネスホテルへ入り、黒瀬の名前で部屋を取った。

 七階。

 狭い部屋。

 ベッド。

 机。

 ユニットバス。

 湊は鞄からノートを取り出した。

 黒瀬の車で見つけたもの。

『相沢家』

 ページをめくる。

 父。

 母。

 美咲。

 自分。

 改めて見る。

 字。

「……」

 何か引っかかる。

 湊は一年前のメールを開いた。

 自分が残した下書き。

 当然、文字はデジタルなので筆跡は分からない。

 ノート。

 見覚えのある字。

「まさか」

 自分の字に似ている。

 湊はホテルのメモ用紙へ文字を書く。

 相沢湊。

 相沢修一。

 相沢恵美。

 相沢美咲。

 ノートと並べる。

「……俺だ」

 癖。

『相』の木偏。

『美』の最後の払い。

 数字の7。

 全部同じ。

 黒瀬の車にあったノート。

 家族を何か月も監視していた記録。

 それを書いたのは。

「俺……?」

 でもおかしい。

 一年前の交換期間は三日間だけ。

 ノートには数か月分の記録がある。

 自分が書けるはずがない。

 では。

 自分と同じ筆跡の人間が書いた?

 そんなことがあるのか。

 湊はページを最初から確認する。

 七月。

 八月。

 九月。

 十月。

 十一月。

 そして気づいた。

 ページの端。

 小さな数字。

 01。

 次。

 02。

 03。

 日付ではない。

「何だこれ」

 最後。

 24。

 二十四。

 湊はノートを裏返す。

 裏表紙。

 薄く何か書かれている。

 鉛筆。

 消した跡。

 光に当てる。

 読める。

『交換記録 No.24』

「二十四……?」

 一年前の三日間だけではない。

 もっとある。

 自分は。

 何度も交換している?

「そんなわけ……」

 記憶がない。

 だから否定もできない。

 その時。

 ノートから一枚の紙が落ちた。

 折り畳まれている。

 開く。

 交換屋の会員証のコピー。

 名前。

『相沢湊』

 会員番号。

 0418。

 黒瀬。

 0417。

 連番。

 湊の身体が固まった。

 昨日、自分は初めて交換屋へ行った。

 そこで会員登録した。

 そう思っていた。

 なのに。

 一年前から会員番号がある。

 しかも黒瀬の次。

「俺は最初から……会員だった?」

 紙の下。

 登録日。

 五年前。

 湊は目を疑った。

「五年前?」

 当時。

 自分は十二歳。

 未成年。

 交換屋の説明では十八歳以上しか登録できないはず。

 ありえない。

 さらに。

 紹介者。

 名前。

『相沢修一』

「父さん……」

 父が自分を交換屋へ登録している。

 五年前。

 父が父ではなくなった可能性がある時期。

 全部が同じところへ集まり始める。

 五年前。

 父。

 交換屋。

 自分の会員登録。

 そして。

 湊は気づいた。

 会員番号。

 0418。

 黒瀬は0417。

 自分の直前。

「偶然じゃない」

 最初から二人はセットだった。

 五年前から。

 今回の事件より遥かに前から。


◇


 午後七時十三分。

 部屋の電話が鳴った。

 湊は飛び上がる。

 ホテルの内線。

 受話器を取る。

「はい」

『フロントです』

「はい」

『黒瀬様にお客様がお見えです』

 湊の身体が固まる。

「誰ですか」

『お名前は』

 一瞬。

『水城様とおっしゃっています』

 刑事。

 なぜここが分かった。

「警察ですか」

『いえ』

「え?」

『警察手帳などは提示されていません』

 湊は黙る。

「どんな人です?」

『四十代くらいの男性です』

「一人?」

『はい』

「……少し待ってもらってください」

『かしこまりました』

 電話を切る。

 すぐスマートフォン。

 S。

『水城が来た』

 既読。

 すぐ返事。

『会わないで』

『なんで』

『その水城が本物か分からない』

 湊は画面を見る。

『どういう意味』

『交換屋を追ってる人間が』

 次。

『自分だけ交換してないと思う?』

 湊は息を呑む。

 水城刑事の身体。

 中身。

 それすら信用できない。

『見分ける方法は』

 既読。

『ある』

『何』

『質問して』

『何を』

 少し間。

『一年前、喫茶店で母親が帰ったあと』

『あなたが水城に最初に言った言葉』

『本物なら答えられる』

 湊は迷った。

 逃げるべきか。

 それとも確かめるか。

 水城は一年前の自分を知っている。

 今の自分にはない記憶を持っている。

 危険。

 でも。

 答えに近づくには必要な人物。

 湊はフロントへ電話した。

「上がってもらってください」


◇


 数分後。

 ノック。

 コン。

 コン。

 湊はドアスコープを見る。

 水城。

 今日マンションへ来た男。

 見た目は同じ。

 ドアチェーンをかけたまま少し開ける。

「黒瀬さん」

 水城。

「どうしてここが」

「警察を甘く見ないでください」

「今、勤務中ですか」

 水城が黙る。

「何です?」

「一つ質問します」

「どうぞ」

「一年前」

 水城の表情が変わった。

「喫茶店で」

「……」

「相沢恵美が帰ったあと」

 水城は何も言わない。

「俺があなたに最初に何て言った」

 沈黙。

 十秒。

 長い。

 水城は小さく息を吐いた。

「思い出したんですね」

「答えてください」

「まだ全部じゃない」

「答えろ」

 水城はドア越しに湊を見る。

 そして。

「あなたは」

 一拍。

『父を殺したのは誰ですか』

「……」

「そう聞いた」

 湊の指が止まった。

「父は」

 昨日亡くなった。

 少なくとも自分の記憶では。

「一年前は生きてた」

「身体はね」

 水城の言葉。

 Sと同じ。

「入れてください」

「嫌です」

「ならここで話す」

「誰が中にいる」

 水城は少し笑った。

「そこまで疑えるなら上出来だ」

「質問に答えろ」

「水城圭介」

「身体の名前じゃない」

「分かってる」

 水城は静かに言った。

「俺は交換していない」

「証明は」

「できない」

「じゃあ信用できない」

「それでいい」

 即答だった。

「信用するな」

「……」

「一年前も俺は君にそう言った」

 湊の頭。

 一瞬。

 映像。

 喫茶店。

 母が帰る。

 席。

 水城が座る。

『あなた誰ですか』

『警察だ』

『信用できません』

『それでいい』

 頭痛。

「……っ」

「大丈夫か」

「来るな」

「分かった」

 映像。

 続き。

『父を殺したのは誰ですか』

『なぜそう思う』

『母さんが言った』

『何を』

『父さんはもういないって』

 消える。

 湊は壁へ手をついた。

「母さんが……」

 水城。

「思い出したか」

「少し」

「なら話が早い」

「父は五年前に」

「消えた」

 湊は水城を見る。

「死んだ?」

「分からない」

「どういう意味です」

「交換された」

「誰と」

「それを追ってる」

「五年間?」

「ああ」

「警察が?」

「違う」

 水城は首を振る。

「俺個人だ」

「なんで」

 水城は答えない。

「Sは理由を聞くなって」

 その瞬間。

 水城の表情が変わった。

「S?」

「知ってる?」

「連絡が来てるのか」

「誰です」

「何を言われた」

「質問してるのは俺です」

「Sに何を言われた!」

 水城が初めて声を荒らげる。

「一年前の俺を信用するなって」

 水城は黙る。

「黒瀬も」

「……」

「あなたも」

「……」

「全部信用するなって」

「それだけか」

「あと」

 湊は少し迷う。

「一年前の三日間、ずっと一緒にいたって」

 水城の顔から表情が消えた。

「……嘘だ」

「え?」

「Sが誰か知らないが」

 水城。

「一年前」

 一拍。

「君は三日間ほとんど俺と一緒にいた」

 湊は動けなかった。

「何?」

「十一月七日から十日」

「でも」

「一日目は交換屋」

「……」

「二日目は母親」

「……」

「三日目は」

 水城は続ける。

「君の父親を探していた」

「じゃあSは」

「少なくとも」

 水城。

「三日間ずっと一緒にいたというのは嘘だ」

 スマートフォンが震えた。

 S。

 メッセージ。

 まるで会話を聞いているようなタイミング。

『水城と話してるね』

 湊の背中が冷える。

 続けて。

『聞いて』

『今すぐ部屋から逃げて』

 次。

『その人』

 一拍。

『水城じゃない』

 湊はゆっくり顔を上げた。

 ドアの向こう。

 水城。

 こちらを見ている。

 スマートフォン。

 もう一件。

『本物の水城刑事は』

 湊の呼吸が止まる。

『昨日の午後十一時』

 そして。

『死んでる』

 湊は水城を見る。

「……あなた」

「何だ」

「昨日の十一時」

 水城の目が僅かに動いた。

「どこにいました?」

 沈黙。

「答えて」

「なぜ聞く」

「答えろ!」

 水城。

 いや。

 水城の身体をした誰か。

 ゆっくり笑った。

「Sか」

 湊は後ずさる。

「誰なんだ」

「ドアを開けろ」

「誰だ!」

「黒瀬」

「俺は黒瀬じゃない」

 相手は笑った。

「知ってるよ」

 湊の身体が固まる。

「相沢湊」

 名前。

 知っている。

「お前……」

「久しぶりだな」

 水城の身体をした男は、静かにドアへ手を置いた。

「一年ぶりか」

 湊は後ずさる。

 一年前。

 この人物に会っている。

「誰だ」

「忘れたのか」

「名前を言え」

「名前?」

 男は笑う。

「まだそんなものを信じてるのか」

 その瞬間。

 湊の頭の中。

 映像。

 暗い部屋。

 一年前。

 黒瀬の身体。

 目の前に男。

 顔は見えない。

『お前は誰だ』

 自分が聞く。

 男が答える。

『誰でもいい』

『身体なんて何度でも変えられる』

『名前だって同じだ』

 そして。

『でも一つだけ変えられないものがある』

『何だよ』

『記憶だ』

 映像が切れる。

「……お前」

 湊は頭を押さえる。

 男がドアの向こうから言う。

「思い出した?」

「まだ」

「残念」

「一年前、俺に何をした」

「何も」

「嘘だ」

「本当だよ」

 男は静かに続ける。

「記憶を消すと決めたのは君だ」

「なんで」

「知ったから」

「何を」

「交換屋の正体」

 湊の指が震える。

「何なんだよ」

「店じゃない」

「……」

「あれは」

 男。

「人間を交換する場所じゃない」

「じゃあ何だ」

「人間を」

 一拍。

「保存する場所だ」

 意味が分からない。

「保存?」

「身体が変わっても」

「……」

「名前が変わっても」

「……」

「記憶さえ残れば人間は続く」

 男の声。

「交換屋の会員が本当に交換していると思っていた?」

「違うのか」

「少し違う」

「何が」

「交換じゃない」

 男は笑った。

「上書きだよ」

 湊の呼吸が止まる。

「身体に」

 一拍。

「別の人間の記憶を上書きしてる」

「……」

「だから一年前」

 男。

「君は気づいた」

「何に」

「相沢湊という人間が」

 嫌な予感。

「本当に一人しかいないのかって」

 湊は動けない。

 その時。

 S。

 メッセージ。

『聞かないで』

『それ以上聞いたらダメ』

 男はドアの向こう。

「五年前」

「……」

「君の父親が交換屋へ君を登録した理由」

 S。

『逃げて』

「君は当時十二歳」

『お願い』

「本来なら会員になれない」

『聞かないで』

「それでも登録された」

「なんで」

 男が答える。

「君が」

 一拍。

「二人いたからだ」

 世界が止まる。

「……何?」

「相沢湊が二人いた」

「意味分かんない」

「一人は君」

「……」

「もう一人は」

 男。

「交換屋の中にいた」

 頭。

 激しい痛み。

「やめろ」

「五年前」

「やめろ」

「君の父親は」

「やめろ!」

「二人の湊を」

 一拍。

「一人に戻そうとした」

 記憶。

 白い部屋。

 十二歳。

 父。

 母。

 知らない機械。

 そして。

 目の前。

 自分。

 同じ顔。

 同じ年齢。

 泣いている少年。

『どっちが湊なの』

 母の声。

『分からない』

 父。

『記憶が同じなんだ』

 もう一人の自分。

『お母さん』

 自分。

『母さん』

 二人。

 同時。

 映像が消える。

「……あ」

 湊は床へ膝をついた。

「思い出した?」

 ドアの向こう。

「俺……」

 五年前。

 十二歳。

 もう一人の自分。

 確かにいた。

「俺が……二人」

 スマートフォンが震える。

 S。

『違う』

『騙されないで』

『二人いたんじゃない』

 次。

『最初から』

 湊は画面を見る。

『相沢湊は一人もいなかった』

「……」

 その瞬間。

 部屋の照明が消えた。

 真っ暗。

 廊下。

 非常灯。

 ドアの向こうの男が笑う。

「ようやく始まった」

「何が」

「思い出すんだよ」

 男。

「全部」

 湊のスマートフォン。

 知らないアプリが勝手に起動する。

 黒い画面。

 白い文字。

『MEMBER 0418』

『相沢湊』

 その下。

『登録日――5年前』

 さらに。

『身体所有者――不明』

 湊は息を止めた。

「身体所有者……?」

 次。

『記憶データ――相沢湊』

 そして。

『複製回数――24』

 湊の手からスマートフォンが落ちた。

 二十四。

 ノート。

『交換記録 No.24』

 同じ数字。

「……二十四回」

 男がドアの向こうで言う。

「違う」

「何が」

「君が二十四回交換したんじゃない」

 静かな声。

「相沢湊が」

 一拍。

「二十四人作られたんだ」

 湊は何も言えなかった。

 自分が誰なのか。

 そんなことを考えたことなど一度もなかった。

 父と母の子供として生まれ。

 妹と育ち。

 学校へ行き。

 大学へ入り。

 友人ができ。

 当たり前のように今日まで生きてきた。

 その全部が自分の人生だと思っていた。

 けれど。

 もし記憶だけを別の身体へ移せるのなら。

 その人生は誰のものなのか。

 そして。

 二十四人の相沢湊が存在したのなら。

 昨日。

 家族を奪った犯人は。

 黒瀬でも。

 水城でも。

 父でもない。

 自分と同じ記憶を持つ。

 別の相沢湊だった可能性がある。

「……まさか」

 昨日。

 家族。

 事件。

 自分だけが残された理由。

『湊だけは残す』

 あの一文。

 湊はようやく別の意味に気づいた。

 あれは。

 相沢湊という人間を助けるという意味ではない。

 相沢湊という記憶を。

 一つだけ残す。

 そういう意味だったのではないか。

 ドアの向こう。

 男が静かに言った。

「思い出せ」

「……」

「昨日」

「……」

「相沢家にいたのは」

 湊は顔を上げる。

「黒瀬直人の身体だけじゃない」

「……誰がいた」

「君だよ」

「俺は大学に」

「その君じゃない」

 男。

「別の相沢湊だ」

 湊の呼吸が止まった。

「そして」

 男の声が低くなる。

「君の家族を殺した犯人も」

 一拍。

「相沢湊だ」

 静まり返ったホテルの部屋。

 湊は何も言えない。

 家族を奪った犯人を探すため。

 自分は犯人の身体へ入った。

 そう思っていた。

 けれど本当は。

 犯人の身体など存在しなかったのかもしれない。

 犯人は身体を変え続ける。

 名前も変えられる。

 顔も変わる。

 そして今もどこかで。

 相沢湊の記憶を持った誰かが生きている。

 湊は床に落ちたスマートフォンを見る。

 画面。

『MEMBER 0418』

 その下に新しい表示。

『現存する相沢湊』

 読み込み。

 1。

 2。

 3。

 数字が増えていく。

 湊は画面を拾った。

「……何人いる」

 読み込みが止まる。

『現存数――3』

 三人。

 自分。

 今、自分の身体にいる黒瀬。

 そして。

 もう一人。

 その直後。

 Sから一件だけメッセージが届いた。

『やっとここまで思い出したね』

 続いて。

『じゃあ今度は』

 数秒。

『私が誰なのか思い出して』

 そして一枚の写真。

 五年前。

 十二歳の湊。

 父。

 母。

 美咲。

 家族四人。

 その後ろ。

 もう一人の少年。

 相沢湊と同じ顔。

 湊は写真を拡大する。

 少年の隣。

 一人の少女が立っている。

 見覚えがある。

 手首。

 ブレスレット。

 Sが送ってきた写真と同じ。

「……お前」

 頭の奥。

 名前。

 何かが浮かびそうになる。

 少女が笑っている。

 十二歳の自分が呼ぶ。

『――ちゃん』

 聞こえない。

 もう一度。

『――』

 その瞬間。

 スマートフォンへ着信。

 S。

 湊は震える指で出た。

「……もしもし」

 電話の向こう。

 女の声。

『久しぶり』

「誰なんだ」

 沈黙。

『五年前』

「……」

『あなたが最初に交換屋から連れ出した人間』

 湊の頭に白い部屋が浮かぶ。

 少女。

 手を握っている。

 走る。

 父が叫んでいる。

 母が泣いている。

 そして自分は少女へ言う。

『絶対に忘れないから』

 記憶が途切れる。

「……俺」

 湊の目から涙が落ちた。

 理由は分からない。

 名前も出てこない。

 それなのに。

 声だけで。

 懐かしかった。

『湊』

「……」

『今度は忘れないで』

 電話が切れた。

 画面。

 S。

 その表示が一瞬だけ変わった。

 名前。

 ほんの一秒。

 そして消える。

 けれど湊は見た。

「……沙耶」

 口から自然に名前が出た。

 思い出したのではない。

 もっと深いところから出てきた。

 その直後。

 ドアの向こうにいた男が初めて焦った声を出した。

「その名前をどこで知った」

 湊は顔を上げる。

「知ってるのか」

「誰から聞いた」

「答えろ」

「Sなのか」

「沙耶を知ってるんだな」

 沈黙。

 そして男は言った。

「知ってる」

「誰なんだ」

 男の声が変わる。

「五年前」

 一拍。

「最初に死んだ交換者だ」

 湊の表情が消えた。

「……死んだ?」

「ああ」

「今電話した」

「ありえない」

「した!」

「沙耶は五年前に死んだ」

 湊はスマートフォンを見る。

 通話履歴。

 S。

 今まで非通知だったはずの番号。

 今回は残っている。

 番号ではない。

 表示。

『MEMBER 0001』

 会員番号。

 一番。

 湊は息を止めた。

 交換屋。

 最初の会員。

 沙耶。

 そして。

 五年前に死んだはずの人間。

 それでも彼女の記憶は。

 どこかの身体で。

 今も生きている。


第三章 一年前の僕 完

――第四章「会員番号0001」へ続く。