第二章 知らない人生
黒瀬直人の部屋で朝を迎えてから、相沢湊は一度もカーテンを開けていなかった。
外が明るくなっていることは、布地の隙間から差し込む細い光で分かる。
けれど今が何時なのかも、ここがどこなのかも、まだ正確には把握できていない。
そんなことより先に確認しなければならないものが、床いっぱいに散らばっていた。
自分の家。
父。
母。
妹。
そして自分。
黒瀬直人の机から見つかった写真は全部で十二枚あり、そのほとんどが相沢家と家族を離れた場所から撮影したものだった。
偶然で説明できる枚数ではない。
湊は床に座ったまま一枚ずつ写真を並べ、裏側まで確認していった。
最も古いものは約三か月前。
七月十二日。
午後五時三十一分。
自宅前で植木に水をやっている母が写っている。
七月二十日。
午前八時十三分。
駅へ向かう父。
八月二日。
午後四時二十分。
制服姿の妹。
八月十八日。
午前十時四分。
自宅から出てくる自分。
そして昨日。
家族が亡くなった日。
十一月六日。
午後六時十四分。
自宅の玄関。
誰も写っていない。
湊はその写真だけを手に取り、何度も確認した。
何もない。
ただ自分の家が写っているだけ。
それなのに十二枚の中で、その写真が一番怖かった。
事件が起きた時間を警察は教えてくれなかった。
けれど湊が帰宅したのは午後七時四十三分で、その時にはすでに警察と救急車が到着していた。
午後六時十四分。
事件より前なのか。
それとも後なのか。
分からない。
「……黒瀬」
自分のものではない声が部屋に響いた。
「お前、何なんだよ」
当然、返事はない。
湊は写真を置き、立ち上がった。
鏡が視界に入る。
知らない男。
何度見ても慣れない。
寝癖のついた黒髪。
自分より少し細い目。
頬の傷。
無精髭。
自分が動けば男も動く。
頭では理解していても、鏡を見るたび誰かがこちらを真似しているような気がした。
湊は視線を逸らした。
今、黒瀬直人は自分の身体にいる。
交換が本当に成立しているのなら間違いない。
ならば。
もし黒瀬が家族の事件に関係しているのなら。
「俺の身体で何するつもりなんだよ……」
その言葉を口にした瞬間、別の恐怖が生まれた。
黒瀬は自分の家を知っている。
父を知っている。
母を知っている。
妹を知っている。
そして当然、自分のことも知っている。
写真を撮るほど長い間、相沢家を見ていた。
そんな男が今は相沢湊になっている。
大学の友人に会える。
親戚にも会える。
警察とも話せる。
家族を失った遺族として事件の情報を聞くことさえできるかもしれない。
「まずい」
湊は机を探した。
スマートフォン。
黒瀬のものがあるはずだ。
ベッド。
鞄。
机。
充電器はある。
なのに端末がない。
ポケットを確認する。
ない。
ジャケット。
ない。
「どこだよ」
部屋中を探し、ようやくベッドと壁の隙間に黒いスマートフォンを見つけた。
電源ボタンを押す。
画面が点く。
午前七時二十八分。
十一月七日。
通知が三件。
ロック。
「当然か」
暗証番号。
四桁。
湊は適当に試す。
誕生日。
違う。
免許証の数字。
違う。
0000。
違う。
三回失敗したところで手を止めた。
これ以上やってロックが強くなれば困る。
机に置こうとした時。
画面に新しい通知が現れた。
メッセージ。
送信者。
『S』
内容は表示されない。
「S……?」
知人。
仕事相手。
恋人。
何も分からない。
数秒後、もう一件届く。
『S』
今度は通知設定のせいなのか、一部だけ文章が表示された。
『昨日の件――』
そこまで。
湊の指が止まった。
昨日の件。
ただの仕事かもしれない。
約束かもしれない。
それでも今の湊には、昨日という言葉だけで十分だった。
「開け……」
暗証番号。
黒瀬なら何にする。
誕生日ではない。
電話番号。
住所。
湊は財布を開き、カード類を全部机に並べた。
銀行。
クレジット。
会員証。
診察券。
そして一枚だけ見覚えのある黒いカード。
『EXCHANGE MEMBERSHIP』
「交換屋……」
裏側。
会員番号。
0417。
湊はスマートフォンへ入力した。
ロックが解除された。
「……まじかよ」
偶然ではない。
黒瀬は交換屋の会員番号を暗証番号に使っていた。
つまり、この男にとって交換屋はそれだけ身近な存在だったということになる。
湊はすぐメッセージを開いた。
しかし。
「……ない?」
Sという名前が見当たらない。
検索。
S。
該当なし。
通知には確かに届いていた。
もう一度通知履歴を確認しようとするが残っていない。
「消した?」
そんなはずはない。
湊は触っていない。
相手が送信を取り消したのかもしれない。
だとしても気になる。
昨日の件。
その続きを知りたい。
湊は連絡先を開いた。
登録件数。
九件。
「少な……」
二十八歳の人間にしては異様に少ない気がした。
会社。
病院。
不動産会社。
クリーニング。
タクシー会社。
個人名は四人だけ。
知らない名前ばかり。
通話履歴を開く。
昨日。
発信一件。
午後五時四十八分。
登録されていない番号。
通話時間。
十一秒。
その次。
着信。
午後六時三十二分。
非通知。
通話時間。
一分四十四秒。
そして。
午後七時五分。
発信。
「……え?」
湊は画面へ顔を近づけた。
番号を知っている。
何度も見た。
自分の番号だった。
相沢湊のスマートフォン。
黒瀬は昨日、午後七時五分に自分へ電話している。
湊は記憶を探った。
昨日の午後七時五分。
大学から帰宅する途中。
電車。
たぶん駅へ着く少し前。
電話が鳴った記憶はない。
着信履歴にも、知らない番号などなかったはずだ。
通話時間を見る。
0秒。
出ていない。
「俺に……何の用だったんだ」
黒瀬は自宅を監視していた。
家族の写真を持っていた。
事件当日の午後七時五分、自分へ電話をかけている。
その三十八分後、湊は自宅へ到着した。
偶然。
そう考えるには、もう材料が多すぎた。
◇
まず黒瀬直人という人間を知らなければならない。
湊はそう考え、部屋の中を調べ始めた。
間取りは1LDK。
一人暮らし。
家具は少なく、生活感も薄い。
冷蔵庫には水と栄養飲料、コンビニの弁当が一つ。
酒はない。
煙草もない。
洗面所には歯ブラシが一本。
女性が出入りしている様子もなさそうだった。
クローゼット。
黒。
紺。
灰色。
似たような服ばかり。
スーツが二着。
仕事は会社員なのだろうか。
机にあった名刺を確認する。
『黒瀬直人』
名前だけ。
会社名がない。
電話番号。
メールアドレス。
「何の名刺だよ」
裏面も白紙。
さらに引き出しを探す。
領収書。
交通費。
コンビニ。
ビジネスホテル。
ガソリンスタンド。
日付順に並べていく。
そして。
湊の手が止まった。
三日前。
自宅近くのコンビニ。
「……」
レシートに印字された店舗名。
間違いない。
湊も何度も利用している店だった。
時間。
午後十一時十三分。
買ったものは水とサンドイッチ。
その前日。
同じ店。
午後九時四十二分。
さらに一週間前。
自宅から徒歩十分ほどのガソリンスタンド。
「ずっと近くにいたのか」
写真だけではない。
黒瀬は何度も相沢家の周辺へ来ていた。
何のために。
誰を見ていた。
家族全員なのか。
それとも。
「俺?」
自分だったのか。
湊は考える。
交換屋。
黒瀬も会員。
相沢家を監視していた男。
そしてその男と、自分がランダムに選ばれた。
「そんなわけないだろ」
偶然で済ませる方が不自然だった。
湊は立ち上がった。
交換屋へ行く。
店員に聞く。
どうして黒瀬だったのか。
本当にランダムなのか。
今すぐ元に戻せないのか。
昨日歩いた道を思い出す。
駅。
商店街。
路地。
場所は完全には覚えていないが、探せるはずだった。
◇
午前九時五十二分。
外へ出るまでに、湊は二十分近くかかった。
玄関に立っただけで怖くなった。
外へ出れば、自分は黒瀬直人として見られる。
誰かに声をかけられるかもしれない。
知人と遭遇しても分からない。
仕事へ行く必要があるのかも分からない。
それでも部屋に閉じこもっているわけにはいかない。
靴を履く。
玄関を開ける。
マンションの廊下。
誰もいない。
エレベーター。
一階。
外。
冷たい風。
知らない街だった。
スマートフォンの地図を開く。
現在地を見て驚いた。
「ここ……」
自宅からそれほど離れていない。
電車なら四駅。
車なら二十分程度。
黒瀬は遠くから来た人間ではなかった。
ずっと近くに住んでいた。
湊は駅へ向かう。
歩いている間、すれ違う人の顔を何度も見た。
誰かが自分を知っているかもしれない。
しかし誰も声をかけない。
それが少し安心であり、同時に不気味だった。
駅へ着く。
昨日歩いた場所まで電車で移動する。
そこから記憶を頼りに商店街を探した。
◇
「……ここだ」
午前十一時十八分。
見覚えのある商店街。
閉まった店。
古い看板。
昨夜は暗くて気づかなかったが、昼間に見るとかなり寂れた場所だった。
湊は歩く。
商店街の終わり。
細い路地。
「あった」
曲がる。
そして。
「……え?」
立ち止まった。
店がない。
交換屋があった場所。
そこにはシャッターの閉まった空き店舗があるだけだった。
看板もない。
ガラス張りの扉もない。
湊は近づく。
シャッター。
錆びている。
最近閉店したようには見えない。
「そんな……」
場所を間違えた?
隣の路地?
戻る。
確認。
もう一度。
やはりここだ。
昨日。
この場所に交換屋があった。
「すみません」
背後から声。
湊が振り返る。
隣の古本屋から年配の男性が顔を出している。
「何か探してる?」
「あの」
湊は空き店舗を指差した。
「ここに店ありましたよね」
「店?」
「昨日」
「昨日?」
「夜です」
男性は空き店舗を見る。
「ここ、ずっと空いてるよ」
「え?」
「十年以上じゃないかな」
「交換屋って」
「何それ」
「店です」
「知らないねえ」
「昨日、ここに入ったんです」
男性は困ったように笑った。
「場所間違えてるんじゃない?」
「でも」
「このシャッター、何年も開いてないよ」
湊は錆びたシャッターを見る。
嘘を言っているようには見えない。
「……ありがとうございます」
その場を離れようとした時。
「兄ちゃん」
「はい」
「その店」
「え?」
「何て言った?」
「交換屋です」
男性の表情が少しだけ変わった。
「いや」
「知ってるんですか?」
「知らない」
「今」
「聞いたことある気がしただけ」
「どこで?」
「分からない」
男性は首を傾げる。
「変だな」
「何が?」
「昔」
少し考えてから。
「誰かが同じこと聞きに来たような」
湊の胸がざわつく。
「いつですか」
「さあ。何年も前だと思うけど」
「誰が?」
「覚えてない」
「男?」
「たぶん」
「どんな人?」
男性は湊を見る。
しばらく。
妙に長く。
「……あんたに似てた気がする」
湊は動けなくなった。
今の自分。
黒瀬直人の顔。
「俺に?」
「まあ昔のことだから、勘違いかもしれないけどね」
男性は店へ戻った。
湊だけが残る。
交換屋。
黒瀬は以前にもここへ来ていた。
それなら。
自分との交換は本当に初めてなのか。
◇
午後一時十五分。
黒瀬の部屋へ戻ると、スマートフォンに着信履歴が残っていた。
非通知。
三件。
午前十一時四十一分。
十二時二分。
十二時五十八分。
湊は画面を見つめた。
「誰だよ」
その瞬間。
着信。
非通知。
心臓が跳ねる。
出るべきか迷う。
黒瀬として出なければならない。
声はすでに黒瀬のもの。
問題は話し方だ。
湊は通話ボタンを押した。
「……もしもし」
沈黙。
「もしもし?」
『黒瀬さん?』
女。
若い声。
「はい」
『やっと出た』
「すみません」
『大丈夫?』
「何がですか」
沈黙。
『……何がって?』
まずい。
相手は黒瀬を知っている。
「いや、ちょっと寝起きで」
『寝起き?』
「はい」
『今まで?』
「……そうです」
女は少し黙った。
『昨日、眠れたんだ』
湊の指が止まる。
「どういう意味ですか」
『黒瀬さん』
「はい」
『本当に大丈夫?』
「大丈夫です」
『昨日のこと覚えてる?』
また。
昨日。
「もちろん」
『じゃあ』
女の声が小さくなる。
『あれ、どうしたの』
「あれ?」
『写真』
湊は床に並べた写真を見る。
「どの写真ですか」
言った瞬間。
電話の向こうが静かになった。
『黒瀬さん』
「はい」
『誰?』
背中が冷たくなる。
「何言ってるんですか」
『黒瀬さんじゃないでしょ』
「……」
『あなた誰?』
通話が切れた。
湊はスマートフォンを耳に当てたまま動けなかった。
「バレた?」
たった数十秒。
それだけで。
もう一度かけ直そうとしても非通知なので番号が分からない。
数秒後。
メッセージ。
S。
今度は内容が表示された。
『部屋から出て』
湊の呼吸が止まる。
続けて。
『今すぐ』
「何だよ」
もう一件。
『警察が向かってる』
湊は立ち上がった。
「警察?」
なぜ。
黒瀬に。
事件?
もう黒瀬まで辿り着いた?
頭の中に昨日の刑事、水城の顔が浮かぶ。
もし警察が黒瀬直人を疑っているなら、今ここにいる自分はどうなる。
説明できない。
身体が入れ替わった。
交換屋。
そんな話を誰が信じる。
そして黒瀬本人は、自分の身体でどこかにいる。
湊は写真を急いで集めた。
鞄へ入れる。
スマートフォン。
財布。
交換屋の会員証。
鍵。
その時。
インターホン。
ピンポーン。
湊の動きが止まる。
早すぎる。
もう来た?
モニターを見る。
男が二人。
スーツ。
一人は知らない。
もう一人。
「……」
知っている。
昨日。
警察署。
自分へ事情を聞いた刑事。
水城。
インターホン。
もう一度。
ピンポーン。
湊は動けない。
水城がカメラを見る。
『黒瀬直人さん』
昨日は自分に、
相沢湊さんですね。
そう言った男。
今度は違う名前で自分を呼んでいる。
『警察です』
湊は唾を飲み込んだ。
『少しお話を伺いたいのですが』
警察はすでに黒瀬へ辿り着いている。
つまり。
この身体の持ち主は、やはり事件と何か関係している。
逃げる?
無理だ。
逃げれば余計に怪しまれる。
出るしかない。
湊は深く息を吸った。
玄関へ向かう。
ドアを開ける。
「黒瀬直人さんですね」
水城が言った。
「……はい」
「警視庁の水城です」
昨日も聞いた。
けれど当然、水城は自分を知らない。
正確には。
相沢湊の顔をした自分しか知らない。
「突然申し訳ありません」
「何ですか」
「少し確認したいことがありまして」
水城は手帳を出した。
「昨日の午後六時頃」
湊の心臓が強く鳴る。
「どちらにいらっしゃいました?」
「昨日……」
「はい」
答えられない。
自分なら分かる。
大学から帰る途中だった。
しかし黒瀬がどこにいたかは知らない。
「自宅だと思います」
「思います?」
「……家にいました」
水城は湊を見る。
「お一人で?」
「はい」
「証明できる方は?」
「いません」
「そうですか」
隣の刑事がメモを取る。
「何かあったんですか」
知らないふりをする。
水城はすぐには答えない。
「相沢さんというご家族をご存じですか」
湊は息を止めそうになった。
「……知りません」
自分の家族。
知りません。
口にした瞬間、胸の奥が痛んだ。
「本当に?」
「はい」
水城が一枚の写真を出す。
自宅。
「この家は?」
「知らないです」
「行ったことは?」
「ありません」
「この男性」
次。
父。
「知りません」
「この女性」
母。
「……知りません」
「こちらの女の子」
妹。
「知りません」
喉が震えた。
それを悟られないようにする。
水城は最後に一枚出した。
相沢湊。
自分。
「この人物は?」
湊は写真を見る。
昨日まで鏡で見ていた顔。
今、その身体の中には黒瀬がいる。
「……知らないです」
水城は写真をしまった。
「そうですか」
「何なんですか」
「昨日、このご家族に関係する事件がありまして」
「ニュース?」
「まだ詳細はお話しできません」
「だったらなんで俺に」
俺。
黒瀬。
その言葉が自然に出てしまった。
水城は湊の顔をじっと見ている。
「黒瀬さん」
「はい」
「あなたの車が」
嫌な予感。
「昨日の午後六時十二分」
水城。
「相沢さんのご自宅から約百メートル離れた防犯カメラに映っています」
湊の頭が真っ白になった。
「……俺の車?」
「はい」
「間違いじゃ」
「ナンバーも確認しています」
「盗まれたとか」
「盗難届は出ていますか」
「……いえ」
「では、昨日車を使用したのは?」
分からない。
黒瀬。
お前は昨日何をしていた。
「覚えてません」
言ってしまった。
水城の目が変わる。
「覚えていない?」
「いや」
「先ほど自宅にいたと」
「……」
「どちらですか」
「家にいたと思います」
「思う?」
「はい」
「車は?」
「分かりません」
水城は少し黙った。
「見せていただけますか」
「何を」
「車です」
逃げられない。
「……はい」
◇
地下駐車場。
黒瀬の車。
黒いセダン。
免許証に登録されている住所の駐車区画。
水城たちと一緒に向かう。
車はあった。
「鍵は?」
湊は部屋で見つけた鍵を出した。
車の鍵だった。
ロック解除。
ライトが点滅する。
水城が車を見る。
「昨日もこれを?」
「覚えてません」
「そうですか」
水城は無理に車内へ入ろうとはしなかった。
「今日は確認だけです」
「……はい」
「またお話を伺う可能性があります」
「分かりました」
「黒瀬さん」
「はい」
「思い出したことがあれば、どんな小さなことでも構いません」
「はい」
水城たちは去っていく。
湊は地下駐車場に残った。
足音が完全に消えるまで動かなかった。
「……六時十二分」
写真。
自宅。
午後六時十四分。
車。
自宅近く。
午後六時十二分。
ほぼ同じ時間。
黒瀬はいた。
事件当日。
間違いなく自分の家の近くにいた。
湊は車を見る。
調べる。
何かあるかもしれない。
鍵を開ける。
運転席。
何もない。
助手席。
何もない。
後部座席。
黒い上着。
コンビニの袋。
そして床。
小さなものが落ちている。
「……」
湊はしゃがんだ。
拾う。
赤い紐。
小さな銀色の飾り。
星。
見覚えがある。
「嘘だろ」
妹。
美咲。
高校へ入学した時、友達とお揃いで買ったと言っていた。
スマートフォンにつけていたストラップ。
湊は何度も見ている。
間違えるはずがない。
「なんで……」
黒瀬の車に。
妹のストラップ。
手が震える。
その時。
後部座席の下。
白いもの。
紙。
引っ張り出す。
封筒。
何も書かれていない。
中。
一枚の紙。
湊は開いた。
短い文章。
『交換後、相沢湊には近づくな』
息が止まる。
その下。
『一年間、絶対に接触するな』
さらに。
『予定通りなら、彼は何も知らない』
「……予定?」
湊は紙を持ったまま動けなかった。
誰が書いた。
誰に宛てた。
黒瀬?
予定通り。
彼。
相沢湊。
つまり。
「俺との交換を……知ってた?」
偶然ではない。
黒瀬は自分と入れ替わることを知っていた。
少なくとも誰かは知っていた。
交換屋はランダムだと言った。
嘘だったのか。
湊は紙を裏返す。
裏面。
手書きで一行。
『11月7日 午前0時12分 交換成立』
湊は時計を見る。
交換屋。
店内で止まっていた時計。
午前零時十二分。
同じ。
交換が成立する前から、時間まで決められていた。
「最初から……」
湊は呟く。
「俺だったんだ」
誰かが自分を選んだ。
黒瀬直人と相沢湊。
二人を入れ替えるために。
ではなぜ。
家族が亡くなったその日に。
なぜ自分が交換屋へ辿り着いた。
なぜ店員は、
お待ちしていました。
そう言った。
偶然だと思っていた言葉が、今になって意味を変えていく。
湊は紙を封筒へ戻そうとした。
その時。
封筒の奥にもう一枚あることに気づいた。
小さな写真。
「……」
取り出す。
黒瀬直人。
今の自分。
誰かと一緒に写っている。
場所。
喫茶店のような店。
向かい側に座っている人物。
湊は写真を近づけた。
「なんで」
知っている顔だった。
水城。
さっきまでここにいた刑事。
黒瀬直人と水城刑事が、事件より前に会っている。
写真の裏。
日付。
十月二十三日。
事件の約二週間前。
そして短い文字。
『二回目の確認』
湊は顔を上げた。
地下駐車場。
誰もいない。
水城はさっき、
初めて黒瀬に会ったように振る舞っていた。
相沢家を知っているか。
相沢湊を知っているか。
そう質問した。
けれど。
「お前も……嘘ついてたのか」
その瞬間。
スマートフォンが震えた。
S。
メッセージ。
『警察には何も話さないで』
湊はすぐに入力する。
『誰だ』
送信。
既読。
返事。
『その身体の持ち主を知っている人間』
湊。
『黒瀬は俺の家族を知ってたのか』
数秒。
既読。
返事が来ない。
『事件に関係してるのか』
既読。
『答えろ』
既読。
そして。
『あなたは今、どこ?』
湊は答えない。
すぐ次。
『黒瀬の車?』
背中が冷たくなる。
周囲を見る。
監視されている?
『なんで分かる』
返信。
『そこにいるなら早く離れて』
『なぜ』
長い沈黙。
そして。
『トランクを開けないで』
湊の視線が止まる。
車。
後ろ。
トランク。
なぜそんなことを言う。
言われなければ気にしなかった。
湊は車へ近づく。
スマートフォン。
『開けないで』
もう一件。
『お願い』
さらに。
『まだ知らない方がいい』
湊はトランクの前に立った。
「ふざけんな」
知らない方がいい。
家族を失った。
知らない男と入れ替わった。
その男は自宅を監視していた。
事件当日に家の近くにいた。
妹のストラップが車内にある。
自分との交換まで予定されていた。
ここまで来て。
知らない方がいい?
「もう遅いだろ」
鍵。
トランク。
開ける。
ゆっくり上がる。
中は暗い。
大きな黒いバッグ。
毛布。
工具箱。
それだけ。
湊は息を吐いた。
「何だよ」
バッグを開ける。
衣類。
何もない。
工具箱。
ドライバー。
レンチ。
普通の工具。
毛布。
持ち上げる。
その下。
一冊のノート。
「……」
黒。
何の表記もない。
開く。
最初のページ。
『相沢家』
湊の指が止まる。
次。
父。
相沢修一。
勤務先。
出勤時刻。
帰宅時刻。
よく利用する駅。
母。
相沢恵美。
勤務先。
買い物をする店。
帰宅時刻。
妹。
相沢美咲。
高校。
部活。
帰宅時間。
そして。
相沢湊。
大学。
アルバイト先。
友人。
帰宅時間。
「全部……」
何か月も調べている。
ページをめくる。
七月。
八月。
九月。
十月。
家族の生活。
予定。
行動。
そして十一月。
事件当日。
十一月六日。
父 18:02帰宅予定
母 17:31帰宅予定
美咲 17:46帰宅予定
湊 19:30以降
その下。
赤い線。
『三人確認』
湊の手が震える。
さらに下。
『19:00までに終了』
「……」
何を。
何を終了する。
考えたくない。
ページをめくる。
次は白紙。
その次。
白紙。
さらに。
最後のページ。
一行だけ。
『湊だけは残す』
湊はノートを落とした。
「……俺だけ?」
父。
母。
妹。
三人。
湊だけは残す。
偶然ではない。
家族は狙われた。
そして自分だけが意図的に残された。
なぜ。
誰が。
黒瀬が?
それとも別の誰か。
スマートフォン。
S。
『見た?』
湊は震える指で入力する。
『黒瀬がやったのか』
既読。
『家族を殺したのは黒瀬なのか』
既読。
返事が来る。
『違う』
湊は画面を見る。
『じゃあ誰だ』
数秒。
『黒瀬直人』
「……?」
意味が分からない。
『今違うって言っただろ』
返事。
『違う』
そして。
『黒瀬直人の身体がやった』
湊の指が止まる。
『どういう意味だ』
長い沈黙。
やがて。
『あなたが今いる身体』
『その身体は事件当日、相沢家にいた』
『でも』
一拍。
『その時、中にいた人間が黒瀬直人だったとは限らない』
湊は画面を見つめた。
「……まさか」
交換屋。
人間同士の身体を交換する店。
黒瀬は以前にも交換屋を利用していた可能性がある。
古本屋の老人も言っていた。
何年も前。
自分に似た男。
つまり黒瀬が交換屋を探していた。
『黒瀬は以前にも交換したことがあるのか』
既読。
返事。
『ある』
湊の呼吸が浅くなる。
『何回』
『分からない』
『誰と』
『それも分からない』
『じゃあ事件の日は』
返事が止まる。
『誰が黒瀬の身体にいた』
既読。
長い。
一分。
二分。
ようやく返事。
『それを知っているのは』
続けて。
『今、相沢湊の身体にいる人だけ』
湊は理解するまで数秒かかった。
今。
自分の身体にいる。
黒瀬直人。
黒瀬は知っている。
家族の事件。
交換。
そして。
事件当日に自分の身体を使っていた人物。
「だったら」
会えばいい。
自分に。
正確には。
自分の身体にいる黒瀬に。
しかし交換屋の規約。
交換相手への直接接触は禁止。
それでも家族の真相より重要な規則などあるはずがない。
湊はスマートフォンを握る。
自分の番号。
黒瀬から昨日電話している。
履歴。
そこから発信。
呼び出し。
一回。
二回。
三回。
心臓が鳴る。
四回。
そして。
『もしもし』
声。
自分の声だった。
湊は何も言えなくなった。
昨日まで毎日聞いていた自分自身の声。
『もしもし?』
「……黒瀬」
沈黙。
電話の向こうで息遣いが止まった。
「黒瀬直人だろ」
数秒。
やがて。
自分の声が静かに答える。
『そういう君は』
湊は拳を握る。
「相沢湊だ」
長い沈黙。
『やっぱり』
「何?」
『君だったか』
「やっぱりって何だよ」
『……』
「お前、最初から俺と入れ替わるって知ってたのか」
返事がない。
「答えろ」
『湊』
自分の声で名前を呼ばれる。
気味が悪い。
「呼ぶな」
『落ち着いて聞いて』
「家族を知ってるな」
沈黙。
「写真を持ってた」
『……』
「何か月も家を見張ってた」
『湊』
「昨日、俺の家にいたのか」
『……』
「お前がやったのか」
長い沈黙。
そして。
『違う』
「信じられるか!」
『俺じゃない』
「じゃあ誰だ!」
電話の向こう。
黒瀬はすぐに答えなかった。
『君は今、車にいる?』
湊は周囲を見る。
「なんで知ってる」
『ノートを見つけたんだな』
「これ、お前が書いたのか」
『違う』
「じゃあ誰だ」
『湊』
「何だよ!」
『そこから離れろ』
「なんで!」
『その車は』
そこで黒瀬の声が途切れる。
「車が何だよ」
『昨日から警察に追われてる』
「知ってるよ! さっき来た!」
『そうじゃない』
「何が」
『警察だけじゃない』
湊の背中に冷たいものが走る。
「……どういう意味」
『君を探してる奴がいる』
「誰」
『俺にも分からない』
「ふざけんな」
『でも』
黒瀬の声。
自分の声。
『そいつは君が俺の身体に入ったことを知ってる』
湊はスマートフォンを強く握った。
「S?」
沈黙。
『Sから連絡が来たのか』
「知ってるんだな」
『何を言われた』
「答えるのが先だ」
『何を言われた!』
初めて黒瀬が声を荒らげた。
「トランクを開けるなって」
『……開けた?』
「開けた」
『何があった』
「ノート」
『それだけ?』
「写真と」
『それだけか?』
「妹のストラップ」
沈黙。
完全な沈黙。
「黒瀬?」
『湊』
声が変わった。
『今すぐそこを出ろ』
「だからなんで」
『ノートを持って』
「お前に会う」
『ダメだ』
「規約なんか知るか」
『そういう意味じゃない』
「家族を殺した奴を知ってるんだろ!」
『……』
「一年待てると思うか?」
『会ったら』
「何だよ」
『俺たちは元に戻れなくなる』
湊は黙った。
「……何?」
『交換相手への直接接触が禁止されてる理由だ』
「知ってるのか」
『知ってる』
「どうなる」
黒瀬は答えない。
「言えよ」
『一年後』
一拍。
『君が相沢湊へ戻るためには、俺と一度も会わないことが条件になってる』
「……」
『直接会った時点で交換が固定される』
湊は言葉を失った。
「そんなの聞いてない」
『俺は聞いた』
「なんで俺には」
『分からない』
「じゃあ電話は?」
『電話は問題ない』
「なら全部話せ」
『できない』
「なんで!」
『俺にも分からないことがある』
「だったら分かってることだけでいい!」
黒瀬が黙る。
湊は待つ。
やがて。
『事件の日』
「……」
『俺は君の家に行った』
湊の呼吸が止まる。
『でも』
「何」
『家族を殺してない』
「じゃあ何しに行った」
『止めるためだ』
「誰を」
黒瀬は答えない。
「誰を止めようとした!」
『それが』
一拍。
『俺にも分からない』
「は?」
『顔は見た』
「なら」
『名前も知ってた』
「じゃあ言えよ!」
『でも今は思い出せない』
湊は怒りで頭が熱くなる。
「都合良すぎるだろ」
『そう思うよな』
「当たり前だ!」
『俺もそう思う』
「ふざけんな!」
『でも本当なんだ』
その時。
地下駐車場。
音。
カツ。
靴。
湊は振り返る。
誰かが入ってきた。
「……」
柱の向こう。
人影。
『湊?』
黒瀬。
「誰か来た」
『警察?』
「分からない」
男。
黒い帽子。
マスク。
こちらへ歩いてくる。
『逃げろ』
「誰だよ」
『分からないなら逃げろ!』
湊は車から離れる。
男が足を速める。
湊も走る。
非常階段。
扉。
開ける。
階段を上がる。
『湊!』
「走ってる!」
『ノートは?』
「持ってる!」
『絶対なくすな』
「分かってる!」
二階。
三階。
後ろ。
扉が開く音。
追ってきている。
湊は走った。
自分の身体ではない。
足の長さも呼吸も違う。
それでも必死に階段を上がる。
四階。
廊下。
エレベーター。
使わない。
反対側の非常階段へ。
後ろ。
男。
近い。
「くそっ」
『湊』
「何!」
『部屋には戻るな』
「じゃあどこ行くんだよ!」
『人の多い場所』
「分かった」
階段。
一階。
別の出口。
外。
道路。
昼。
人。
湊は駅へ向かって走った。
振り返る。
男はいない。
見失った。
それでも止まらない。
駅前。
人混み。
ようやく足を止める。
息を整える。
「……黒瀬」
『いる』
「一つ聞く」
『何』
「俺との交換」
息を整えながら。
「本当にランダムだったのか」
黒瀬は答えなかった。
「車に紙があった」
『……』
「交換時間まで書いてあった」
『湊』
「知ってたんだろ」
沈黙。
「答えろ」
そして。
黒瀬が言った。
『ランダムじゃない』
湊は目を閉じた。
予想していた。
それでも実際に聞くと、身体の奥が冷えた。
「じゃあ誰が決めた」
『俺じゃない』
「店員?」
『違う』
「じゃあ誰」
長い沈黙。
『君だよ』
湊は目を開けた。
「……何?」
『俺と君を交換相手に指定したのは』
駅前。
人々が行き交う。
自分だけが時間から取り残されたように感じる。
『相沢湊』
「俺?」
『そうだ』
「交換屋を知ったの昨日だぞ」
『今の君はな』
「何言ってる」
『湊』
黒瀬の声が静かになる。
『俺たちは今回が初めてじゃない』
湊の呼吸が止まった。
「何が」
『入れ替わるのが』
「……」
『今回で二回目だ』
何も聞こえなくなった。
駅のアナウンス。
車。
人の声。
全部が遠ざかる。
「待て」
『……』
「俺は知らない」
『知ってる』
「交換屋なんて昨日初めて見た」
『そう思うようにされてる』
「誰に」
『分からない』
「一回目はいつだ」
黒瀬が黙る。
「いつ!」
『一年前』
湊は息を呑んだ。
『十一月七日』
「今日と同じ?」
『そうだ』
「その時も一年間?」
『違う』
「じゃあ」
『三日間』
「三日?」
『君は俺の身体で三日間過ごした』
「覚えてない」
『知ってる』
「その三日間に何した」
黒瀬は答えない。
「何したんだよ!」
『君の家族を』
一拍。
『調べてた』
湊は言葉を失った。
「……俺が?」
『そうだ』
「嘘だ」
『だからあの写真の全部が俺の撮ったものとは限らない』
「……」
『ノートも』
「まさか」
『あれを書いたのが俺なのか、君なのか』
黒瀬は静かに続ける。
『俺にも分からない』
湊は鞄の中にあるノートを見る。
相沢家。
父。
母。
妹。
自分。
そして。
湊だけは残す。
「俺が家族を調べてた?」
『可能性はある』
「何のために」
『それを知るために』
黒瀬。
『俺は昨日、君の家へ行った』
「……」
『そして』
少し間が空く。
『君の家族が死ぬ直前』
「やめろ」
『お母さんから聞いた』
「何を」
黒瀬は言った。
『湊を信じちゃいけないって』
「……」
『そう言われた』
湊は何も言えなかった。
母。
昨日の朝。
夕飯いる?
カレーでいい?
早く帰ってきなさいよ。
いつもの母。
その母が。
自分を信じるなと言った?
「嘘だ」
『俺も意味が分からなかった』
「母さんがそんなこと」
『でも言った』
「何で」
『そのあと』
黒瀬が続ける。
『もう一つ言った』
「……何」
『もし湊が交換屋へ行ったら』
駅前の風が吹く。
湊は動けない。
『今度こそ、一年間戻さないで』
通話が切れた。
「黒瀬?」
かけ直す。
つながらない。
「黒瀬!」
もう一度。
電源が入っていない。
湊はスマートフォンを下ろした。
頭の中に母の顔が浮かぶ。
今度こそ。
一年間。
戻さないで。
「母さん……」
なぜ交換屋を知っている。
なぜ黒瀬を知っている。
なぜ自分が以前交換したことを知っている。
そして。
なぜ。
自分を元の身体へ戻したくなかった。
その時。
スマートフォンが震えた。
S。
一件。
『黒瀬と話したね』
湊は画面を見る。
『あなたはまだ何も思い出していない』
次。
『でも一年前の記憶が戻ったら』
そして最後。
『家族を殺した犯人が誰なのか、あなた自身が分かる』
湊は返信する。
『誰なんだ』
既読。
すぐに返事。
『その答えを知る前に、一つだけ覚えておいて』
数秒。
『黒瀬直人を信用しないで』
続けて。
『水城刑事も信用しないで』
最後。
『そして一番信用してはいけないのは』
画面。
文字。
『一年前の相沢湊』
湊は動けなかった。
自分。
一年前の自分。
記憶にない三日間。
家族を調べていた自分。
交換屋を知っていた母。
事件当日に相沢家へいた黒瀬。
黒瀬と以前から会っていた水城刑事。
そして。
湊だけは残す。
あのノートの一行。
これまで湊は、黒瀬直人の身体に家族を奪った犯人がいるのだと思っていた。
しかし。
もし犯人が身体ではなく、中にいる人間によって変わるのなら。
事件当日。
黒瀬直人の身体には誰がいた。
そして一年前。
自分は黒瀬の身体で何をしていた。
湊は駅前のガラスに映った黒瀬直人の顔を見る。
知らない男。
そのはずだった。
けれど。
見ているうちに妙な感覚が生まれた。
この顔を。
自分は以前にも鏡で見たことがある。
そんな気がした。
「……俺は」
思い出せない。
それでも。
胸の奥だけが覚えている。
黒瀬の頬にある小さな傷へ触れた瞬間。
頭の中に一瞬だけ映像が走った。
一年前。
夜。
自宅。
黒瀬の身体。
目の前には母がいる。
泣いている。
そして母は、自分に向かって何かを叫んでいた。
『湊!』
違う。
その次。
『それ以上調べたら――』
映像が途切れる。
「……何を」
湊は頭を押さえた。
思い出せない。
ただ最後に。
母の声だけが蘇った。
『私たちは家族じゃない』
湊は顔を上げた。
「……え?」
記憶はそこで終わっていた。
第二章 知らない人生 完
――第三章「一年前の僕」へ続く。



