犯人の身体で一年間

第一章 交換屋


 その日の朝まで、相沢湊は自分の人生が特別だと思ったことなど一度もなかった。

 二十二歳の大学四年生で、卒業まであと半年ほど。就職先はすでに決まり、残っているのは卒業論文といくつかの単位だけで、大学へ行かない日は駅前の書店でアルバイトをしていた。

 父と母、それから高校二年生の妹との四人暮らし。

 父とは最近あまり話さなくなったし、母から就職後の生活について聞かれると面倒に感じることもあった。妹とはテレビのチャンネルや冷蔵庫のプリン程度のことで言い合いになり、そのたびに母から「二人とも何歳なの」と呆れられていた。

 どこにでもある家族だった。

 だから湊は、その日常が翌日も続くものだと疑ったことがなかった。

「今日、夕飯いる?」

 大学へ向かおうとしていた朝、玄関まで追いかけてきた母が聞いた。

「たぶん」

「たぶんじゃ困るんだけど」

「バイトないから帰ると思う」

「じゃあ作るよ」

「うん」

「何か食べたいものある?」

「何でもいい」

「それが一番困るの」

 いつもの会話だった。

 靴を履きながら適当に返事をしていると、リビングから妹の声が飛んできた。

「お母さん、今日カレーがいい」

「昨日もカレー食べたいって言ってなかった?」

「食べてないから今日も言ってるの」

「じゃあカレーでいい?」

 母に聞かれ、湊は玄関のドアへ手をかけながら答えた。

「いいよ」

「じゃあ早く帰ってきなさいよ」

「はいはい」

「はいは一回」

「はい」

 ドアを閉める直前、母が何か言った気がした。

 けれど湊は振り返らなかった。

 イヤホンを耳に入れ、いつもの駅へ向かった。

 その日の夜、母の作ったカレーを食べることはなかった。


◇


 午後七時四十三分。

 湊が自宅の前まで戻ってきた時、最初に目に入ったのは赤い光だった。

 住宅街の暗闇を一定の間隔で染めている。

 赤。

 消える。

 また赤。

 最初は救急車だと思った。

 近所の誰かが倒れたのだろうかと考えながら角を曲がり、そこで足が止まった。

 救急車だけではなかった。

 パトカーが二台。

 さらに少し離れた場所にも一台。

 何人もの警察官が道路に立ち、黄色い規制線が張られている。

 その中心にある家を見て、湊はしばらく状況を理解できなかった。

 自分の家だった。

「……何だよ、これ」

 イヤホンを外す。

 音楽が消えた瞬間、周囲のざわめきが一気に耳へ入ってきた。

 無線の音。

 誰かの話し声。

 近所の住民たちの小さな声。

 救急車のエンジン音。

 湊は歩き出した。

 早足になり、やがて走る。

「すみません、通してください」

 規制線の前にいた警察官が手を出した。

「ここから先には入れません」

「俺の家です」

「え?」

「そこ、俺の家なんです」

 警察官の表情が変わった。

「お名前は?」

「相沢です。相沢湊」

「少し待ってください」

「家族は?」

「相沢さん、まずこちらへ」

「家族は中にいるんですか」

 警察官は答えなかった。

 その沈黙だけで、胸の奥に嫌なものが広がっていく。

「母親と父親と妹がいるんです」

「……確認しますので」

「確認って何ですか」

「相沢さん」

「電話すれば――」

 湊はスマートフォンを取り出した。

 母へ電話する。

 呼び出し音。

 一回。

 二回。

 三回。

 出ない。

 父へかける。

 出ない。

 妹。

 出ない。

「何なんだよ……」

 誰に言ったのか、自分でも分からなかった。

 玄関が開いた。

 中から何人かが出てくる。

 その向こうに見えた自宅は、朝出てきた家とはまるで違う場所のようだった。

 警察官がいる。

 知らない靴が並んでいる。

 白い手袋をした人間が動いている。

 自分の家なのに、自分の家ではない。

「相沢湊さんですね」

 背後から声がした。

 振り返ると、四十代くらいの男性が立っていた。

 スーツの上にコートを羽織り、首から身分証を下げている。

「捜査一課の水城といいます」

「家族は?」

「少し場所を移しましょう」

「だから家族は」

 水城と名乗った刑事は、ほんの一瞬だけ目を伏せた。

 その表情を見た瞬間、湊はもう聞きたくなくなった。

 聞けば何かが決まってしまう。

 今ならまだ、何かの間違いかもしれない。

 近所で事件があっただけかもしれない。

 父も母も妹も、どこか別の場所にいるのかもしれない。

 そんな都合のいい可能性を頭の中でいくつも作った。

 けれど、刑事の口から出た言葉は、その全部を静かに消した。

「ご家族三名の死亡が確認されています」

 その瞬間に何を感じたのか、湊はあとになっても思い出せなかった。

 悲しいとも思わなかった。

 怖いとも思わなかった。

 叫びもしなかった。

 ただ、意味が分からなかった。

「……三名?」

「はい」

「誰が?」

「お父様と、お母様、それから妹さんです」

「いや」

 自分でも驚くほど普通の声が出た。

「妹、今日学校ですよ」

「……」

「母親も夕飯作るって」

「相沢さん」

「カレーなんです」

 刑事は何も言わない。

「今日、カレー作るって言ってたんですよ」

 自分が何を説明しているのか分からなくなった。

 そんなことを刑事に伝えてどうする。

 カレーを作る予定だったから死ぬはずがないとでも言いたいのか。

 それでも湊の頭には、朝の母の声ばかりが残っていた。

 早く帰ってきなさいよ。

 はいはい。

 はいは一回。

 はい。

 それが最後だった。


◇


 そこからの時間は、ところどころ抜け落ちている。

 警察署へ行った。

 何かを聞かれた。

 家族との関係。

 最後に会った時間。

 家を出た時刻。

 大学にいた時間。

 誰と会ったか。

 最近、家族に変わった様子はなかったか。

 恨まれるようなことは。

 知らない人物を見たことは。

 何度聞かれても、分からないとしか答えられなかった。

 父は普通の会社員だった。

 母は近所のスーパーでパートをしていた。

 妹は高校生。

 少なくとも湊の知る限り、誰かに命を狙われるような家族ではなかった。

「金品を目的とした犯行なんですか」

 湊が聞いた。

 刑事は断定できないと言った。

「犯人は?」

「現在捜査中です」

「何か分かってるんですか」

「お話しできる段階ではありません」

「じゃあ何も分かってないんですか」

「そういうわけではありません」

「だったら教えてください」

 少し強い口調になった。

 水城は怒らなかった。

「必ず捜査します」

 それだけだった。

 必ず。

 その言葉が、ひどく遠く感じられた。


◇


 警察署を出た頃には、日付が変わっていた。

 自宅には戻れなかった。

 警察からも、しばらく立ち入らないようにと言われている。

 親戚へ連絡すれば泊めてもらえた。

 大学の友人へ電話してもよかった。

 けれど誰とも話したくなかった。

 湊は一人で歩いた。

 どこへ向かっているのか、自分でも分からない。

 駅を越え、繁華街を抜け、知らない道へ入った。

 十一月の夜は思っていたより寒かった。

 コートを着ていない。

 朝はそこまで寒くなかったから、薄いジャケットだけで家を出ていた。

 ポケットの中でスマートフォンが何度も震えていた。

 親戚。

 大学の友人。

 知らない番号。

 たぶん警察。

 誰からの連絡にも出なかった。

 画面を見るたびに、母へ電話した履歴が目に入る。

 父。

 妹。

 母。

 三人とも、もう電話に出ることはない。

 それがまだ理解できなかった。

 何時間歩いたのか分からない。

 見覚えのない商店街へ入っていた。

 ほとんどの店は閉まっている。

 シャッター。

 消えた看板。

 街灯。

 誰もいない道路。

 湊は立ち止まった。

「……どこだよ、ここ」

 スマートフォンの地図を開こうとして、やめた。

 帰る場所がないのに現在地を確認して何になるのだろうと思った。

 そのまま歩く。

 商店街の終わりに細い路地があった。

 なぜそこへ入ったのかは分からない。

 ただ、奥に明かりが見えた。

 こんな時間なのに一軒だけ店が開いている。

 古い建物だった。

 飲食店にも見えない。

 服屋でもない。

 ガラス張りの扉。

 その横に、小さな看板がある。

 湊は足を止めた。

 白い文字。

 たった三文字。

『交換屋』

「……何だ、それ」

 声に出してしまった。

 リサイクルショップだろうか。

 物々交換。

 古物商。

 そんなものを想像した。

 しかしショーウィンドウには商品が一つもない。

 店内には机と椅子だけが見える。

 帰ろうと思った。

 こんな時間に知らない店へ入る理由などない。

 それでも、扉に貼られた紙が目に入った。

『今の人生を、交換しませんか』

 湊はしばらくその文字を見ていた。

「くだらない」

 呟いて、歩き出そうとした。

 その時。

 カラン。

 目の前の扉が開いた。

「こんばんは」

 男が立っていた。

 三十代にも四十代にも見える。

 黒いシャツに黒いベスト。

 店員らしいが、名札はない。

「……まだ営業してるんですか」

「もちろん」

 男は微笑んだ。

「お待ちしていました」

 湊は眉を寄せる。

「俺を?」

「ええ」

「人違いですよ」

「そうでしょうか」

 男は扉を大きく開いた。

「寒いでしょう。少し中へ入りませんか」

「いや」

「珈琲くらいなら出せますよ」

「結構です」

「そうですか」

 男は無理に引き止めなかった。

「では、お気をつけて」

 扉を閉めようとする。

 湊はその直前、もう一度貼り紙を見た。

 今の人生を、交換しませんか。

「……どういう意味ですか」

 男の手が止まった。

「何がでしょう」

「これ」

 貼り紙を指差す。

「ああ」

 男は微笑んだ。

「文字通りですよ」

「人生を交換する?」

「はい」

「誰と」

「他人と」

 湊は男を見る。

「宗教か何かですか」

「よく言われます」

「じゃあ詐欺?」

「それもよく言われます」

「まともじゃない」

「それも」

 男は笑った。

 腹が立つほど穏やかだった。

「説明だけでも聞かれますか」

「聞いたら金取るんですか」

「説明は無料です」

「そのあと高い壺でも買わせる?」

「壺は扱っておりません」

「じゃあ何を交換するんですか」

 男は少しだけ目を細めた。

「身体です」

 湊は何も言わなかった。

「正確には、人生と言った方が近いかもしれません」

「……意味分かんないです」

「そうでしょうね」

「帰ります」

「どうぞ」

 また止めない。

 湊は数歩歩いた。

 それでも、なぜか足が止まった。

 まともではない。

 怪しい。

 こんな夜中に営業している時点でおかしい。

 それなのに。

 今の人生を交換する。

 その言葉だけが頭から離れなかった。

「……説明だけですよ」

 振り返る。

 男はまだ扉の前に立っていた。

「もちろん」

 微笑む。

「ようこそ、交換屋へ」


◇


 店内は外から見た以上に何もなかった。

 小さな受付。

 向かい合わせの椅子。

 奥へ続く廊下。

 壁に時計はあるが、時刻は止まっている。

 午前零時十二分。

「故障してるんですか」

「いいえ」

「止まってますけど」

「ここでは時計は必要ありませんので」

「……やっぱり帰ろうかな」

「ご自由に」

 男が椅子を引く。

「まずはお掛けください」

 湊は警戒しながら座った。

 男も向かいへ座る。

「改めまして。当店では、会員同士の人生交換を行っています」

「会員?」

「登録された方々です」

「何をどう交換するんですか」

「意識、と表現するのが最も分かりやすいでしょう」

 男は自分の胸元を指差した。

「あなたの意識が別の会員の身体へ移り、その方の意識があなたの身体へ移る。交換後は互いに相手の身体で生活していただきます」

 湊はしばらく男の顔を見ていた。

「本気で言ってます?」

「もちろん」

「そんなことできるわけないでしょ」

「普通はそう考えます」

「普通じゃなくても考えますよ」

「では、お帰りになりますか」

 湊は立たなかった。

「……相手は選べるんですか」

「原則として選べません」

「原則?」

「交換相手は登録会員の中から選定されます」

「ランダムってこと?」

「そう考えていただいて構いません」

「男とか女とかも?」

「いくつか条件は設定できますが、個人を指定することはできません」

「相手の名前は?」

「交換成立後にご自身で確認していただきます」

「仕事とか家族とか」

「それも含めて、その方の人生です」

「じゃあ突然知らない人間の生活をしろって?」

「はい」

「無茶苦茶だ」

「ですから、希望される方しか利用しません」

 男は机の引き出しから一枚の黒いカードを出した。

 中央に銀色の文字。

『EXCHANGE MEMBERSHIP』

 その下に数字が並んでいる。

「交換期間は原則一年間」

 湊は顔を上げた。

「一年?」

「はい。一度交換が成立すると、契約期間中に元の身体へ戻ることはできません」

「途中で嫌になっても?」

「戻れません」

「相手が問題起こしたら?」

「戻れません」

「俺の身体で?」

「はい」

「一年間?」

「はい」

「馬鹿げてる」

「そう思われるなら利用されない方がいいでしょう」

 男はカードをしまおうとした。

 湊はその手を見つめていた。

 一年間。

 別人として生きる。

 自分ではない誰かになる。

 今日までの人生を、一度置いていく。

「……何で」

「はい?」

「こんなの利用する人いるんですか」

 男は少し考えるように首を傾けた。

「理由は様々です。仕事に疲れた方、人間関係を捨てたい方、自分とは違う人生を経験してみたい方。中には、ただ好奇心だけで利用される方もいます」

「逃げたい人も?」

「もちろん」

 その一言が胸に残った。

「逃げてもいいんですか」

「何からでしょう」

 湊は答えなかった。

 家。

 警察。

 親戚。

 友人。

 家族の写真。

 朝の会話。

 母が作るはずだったカレー。

 明日になれば、もっと現実になる。

 葬儀。

 手続き。

 質問。

 慰め。

 大丈夫かと何度も聞かれる。

 そしてそのたびに、三人がいなくなったことを確認させられる。

「逃げることが正しいかどうかを、当店は判断しません」

 男が言った。

「私どもが提供するのは、選択肢だけです」

「……一年後は?」

「元の身体へ戻ることができます」

「絶対?」

「双方が規約を遵守していれば」

「規約?」

 男は一冊の薄い冊子を机に置いた。

「交換相手への直接接触は禁止。交換屋の存在を第三者へ証明する行為も禁止されています。また相手の人生を著しく損なう行為についても制限があります」

「著しくって?」

「その判断はこちらで行います」

「怪しすぎる」

「ええ」

「否定しないんだ」

「怪しい店ですから」

 男は初めて少し楽しそうに笑った。

 湊は冊子を手に取る。

 細かな文字。

 全部読む気にはならなかった。

「今日じゃなくてもいいんですか」

「もちろん」

「考えてから来ても?」

「ええ」

「営業時間は?」

「必要な時には開いています」

「何時から何時まで」

「必要な時です」

「……そういうのいいから」

「申し訳ありません」

 湊は冊子を置いた。

「帰ります」

「分かりました」

 男はあっさり立ち上がった。

 やはり引き止めない。

 それが逆に気になった。

 扉まで歩く。

 手をかける。

 外には暗い商店街。

 そこへ戻れば、また相沢湊になる。

 家族を失った相沢湊。

 明日から一人になる相沢湊。

 刑事から連絡を待ち続ける相沢湊。

 犯人が見つかるかも分からないまま、家族のいない家へいつか戻らなければならない相沢湊。

「……もし」

 湊は扉を見たまま聞いた。

「今日やるって言ったら、すぐできるんですか」

「できます」

「相手は?」

「すでに条件の合う会員がおります」

 湊が振り返った。

「もういる?」

「はい」

「誰ですか」

「それはお伝えできません」

「年齢は?」

「交換後にご確認ください」

「何してる人?」

「同様です」

 何も分からない。

 普通なら絶対に選ばない。

 こんな話を信じる方がおかしい。

 けれど、その夜の湊は普通ではなかった。

 普通だった人生は、数時間前に終わっていた。

「一年」

 湊が呟く。

「はい」

「一年経ったら戻れる」

「原則として」

「その間だけ、俺じゃなくなる」

 男は少しだけ間を置いた。

「そう考えることもできます」

 湊は目を閉じた。

 母の声が聞こえた気がした。

 早く帰ってきなさいよ。

 目を開ける。

「……やります」

 男の表情は変わらなかった。

「よろしいのですか」

「今さら確認するんですね」

「重要なことですので」

「やります」

「承知しました」

 男は受付の奥から一枚の用紙を取り出した。

「では、会員登録を行います」


◇


 名前。

 生年月日。

 性別。

 いくつかの質問。

 健康状態。

 職業。

 交換希望期間。

 最後の欄には、こう書かれていた。

『交換期間 一年間』

 湊はペンを止めた。

「本当に途中では戻れない?」

「原則として」

「さっきから原則って言いますよね」

「規則には例外が存在する場合があります」

「例外って?」

「今はお伝えできません」

「何それ」

「規約です」

 湊は男を見る。

 聞きたいことは山ほどあった。

 それでも今は、何も考えたくなかった。

 署名する。

 相沢湊。

 自分の名前。

 それを見て、妙な感覚になった。

 これから一年間、この名前を使わなくなるのかもしれない。

「こちらへ」

 男に案内され、奥の廊下を進む。

 小さな部屋。

 中央に一脚の椅子が置かれている。

「座ってください」

「これだけ?」

「はい」

「機械とかないんですか」

「必要ありません」

「薬は?」

「使いません」

「どうやって交換するんですか」

「説明しても、おそらく理解できません」

「説明する気ないだけでしょ」

「それもあります」

 湊は椅子へ座った。

 不思議と怖くなかった。

 もう失うものがないと思っていたからかもしれない。

「目を閉じてください」

「寝るんですか」

「似たようなものです」

「起きたら?」

「交換は完了しています」

「本当に?」

「はい」

「もし何も起きなかったら」

「その時は笑って帰ってください」

 湊は少しだけ笑った。

 今日初めて笑った気がした。

「最後に一つ」

 男が言う。

「何ですか」

「交換後、混乱される方が多くいらっしゃいます。しかし、どのような相手であっても落ち着いてその方の生活を確認してください」

「分かりました」

「そして」

 男の声が少し低くなる。

「一年間という期間を、決して軽く考えないように」

 湊は目を閉じた。

「今の俺には、一年なんてどうでもいいですよ」

「そうですか」

「はい」

「では」

 男の声が遠ざかる。

「良い一年を」

 そこで意識が途切れた。


◇


 最初に感じたのは、頭の重さだった。

 湊はゆっくり目を開けた。

 天井。

 知らない天井だった。

「……え」

 起き上がる。

 部屋。

 知らない。

 ベッド。

 知らない。

 カーテン。

 机。

 本棚。

 床に置かれた黒い鞄。

 何一つ見覚えがない。

「……本当に?」

 声を出した瞬間、湊は固まった。

 声が違う。

 自分の声ではない。

 ベッドから降りる。

 足の感覚も違う。

 身体が少し重い。

 視線の高さも違う。

 部屋の隅に鏡があった。

 湊はゆっくり近づく。

 鏡を見る。

 知らない男が立っていた。

 二十代後半くらい。

 黒い髪。

 細い顔。

 自分より少し背が高い。

 頬に小さな傷跡がある。

 湊が右手を上げる。

 鏡の男も上げる。

 頬に触れる。

 鏡の男も同じ場所に触れる。

「……嘘だろ」

 知らない声で、知らない男が喋った。

 成功した。

 本当に入れ替わった。

 湊はしばらく鏡の前から動けなかった。

 やがて机の上に置かれた財布が目に入る。

 手に取る。

 中を確認する。

 現金。

 カード。

 運転免許証。

 一枚の免許証を引き抜く。

 写真。

 今、鏡に映っている男。

 名前。

『黒瀬 直人』

「黒瀬……直人」

 口に出す。

 二十八歳。

 住所も知らない場所だった。

 湊は免許証を見つめた。

 この男がこれから一年間、自分になる。

 そして自分は、この男として一年を生きる。

 急に怖くなった。

「俺……何やってんだ」

 ベッドへ腰を下ろす。

 戻りたい。

 そう思った。

 交換してから、まだ数分しか経っていない。

 それなのに、もう戻りたかった。

 しかし一年間は戻れない。

 自分で署名した。

 湊は両手で顔を覆った。

 その手すら自分のものではない。

 しばらくして顔を上げる。

 部屋を見渡した。

 まず、この男のことを知らなければならない。

 店員も言っていた。

 落ち着いて生活を確認しろ。

 仕事。

 人間関係。

 住所。

 スマートフォン。

 財布。

 何から調べればいい。

 湊は机へ近づいた。

 引き出しを開ける。

 書類。

 ボールペン。

 領収書。

 何枚かの名刺。

 さらに奥。

 小さな鍵。

「何の鍵だ……」

 取り出す。

 その下に、一枚の写真が伏せて置かれていた。

 湊は何気なく写真を取った。

 裏返す。

 そして、呼吸が止まった。

「……何で」

 写真には、一軒の家が写っていた。

 見間違えるはずがない。

 玄関。

 窓。

 庭の小さな植木鉢。

 父が休日に取り付けた少し曲がった郵便受け。

 湊が二十二年間暮らしてきた家だった。

 自分の家。

 写真は道路の反対側から撮影されている。

 しかも一枚ではなかった。

 引き出しの奥を探る。

 二枚。

 三枚。

 五枚。

 八枚。

 時間帯が違う。

 昼。

 夕方。

 夜。

 家だけではない。

 母が買い物袋を持って帰ってくる写真。

 父が車から降りる写真。

 制服姿の妹が玄関へ入っていく写真。

 そして。

 湊自身が大学へ向かう写真。

「……何だよ、これ」

 手が震えた。

 写真を落とす。

 床へ散らばる。

 その中の一枚。

 日付が印字されている。

 昨日。

 家族が亡くなった日。

 時刻は午後六時十四分。

 写真には自宅の玄関が写っていた。

 湊は動けなかった。

 頭の中で、交換屋の男の言葉が蘇る。

 交換相手はランダム。

 個人を指定することはできない。

 偶然。

 そう言っていた。

 床に散らばった家族の写真。

 知らない男の部屋。

 知らない身体。

 湊は震える手で、自分――黒瀬直人の顔に触れた。

 頬の小さな傷跡。

 冷たい皮膚。

 そして初めて、一つの考えが頭に浮かんだ。

 あり得ない。

 そんな偶然があるはずがない。

 けれど、写真は目の前にある。

「お前……」

 鏡の中の男を見る。

 今、その男の身体を動かしているのは自分だった。

 では。

 この身体の本当の持ち主は今どこにいる。

 答えに気づいた瞬間、湊の背中に冷たいものが走った。

 黒瀬直人は今――相沢湊の身体にいる。

 そしてこの男は、家族が亡くなる前から相沢家を見張っていた。

 湊は床に落ちた写真を見つめた。

 家族を失ってから、まだ一日も経っていない。

 犯人の顔すら知らない。

 警察も捜査を始めたばかり。

 それなのに自分は今、その事件に関わっているかもしれない男の身体の中にいる。

 しかも元へ戻れるのは、一年後。

 窓の外では、知らない街に朝の光が差し始めていた。

 相沢湊として迎えるはずだった朝は、もう来ない。

 鏡の中には黒瀬直人がいる。

 床には家族の写真が散らばっている。

 湊はその中心に立ったまま、ようやく理解した。

 自分は人生を交換したのではない。

 もしかすると――

 家族を奪った人間と、入れ替わってしまったのだ。


第一章 交換屋 完