「あ、教科書忘れちゃって……」
「あー、それなら見せてあげようか。俺のでよければ」
「え、いいの? ありがとう」
川野くんが机をこちらに寄せてくれて、教科書を真ん中に置く形になる。
「この辺からだったよな、確か」
「うん、そのはず」
肩が触れそうな距離で、ふたり並んで教科書を覗き込む。
特に意識するようなことでもない、ただのクラスメイトとしての、なんでもないやり取りのはずだった。
──その光景を、廊下の窓越しに、須藤先輩が見ていたことに、このときの私は気づいていなかった。
◇
「咲奈、最近お昼どこにも行かないよね」
翌日の昼休み、梨沙子がふと不思議そうに聞いてきた。
「え?」
「ほら、夏休み前によく保健室通ってたじゃん。海里くんがらみで、なんか噂になってたやつ。二学期入ってから、それやってないのかなって」
そういえば、あの噂が広まって以来、梨沙子にもなんとなく事情が伝わっていたんだった。
わざわざ自分から説明したことはなかったけれど、こうして間接的に知られているのは、今更ながら恥ずかしい。
「あ、うん。ちょっと最近、色々あって」
「ふーん。まぁ、無理しないでね」
梨沙子はそれ以上追及せず、あっさりと話題を変えてくれる。
その気遣いに、内心ほっとしながらも、私は自分の胸の内にある本当の理由から、ずっと目を逸らし続けていた。
行かなきゃ、行かなきゃと思いながら、結局この日も、私は保健室に向かうことができなかった。
一度は席を立って、教室の入口まで歩いたのに。
廊下の向こうを見つめたまま、私はまた、その場に立ち尽くしてしまった。



