4.定時退社の壁、再び
「ふん。今回は『人間の記憶の揮発性』を突いたデバッグか。実に見事だったぞ、依」
誰もいなくなった部屋で、厩戸皇子がふっと妖艶な笑みを浮かべ、私に近づいてきた。
その長いまつ毛が、夕暮れの光を浴びてきらきらと輝いている。
「ありがとうございます。現場のエンジニアとも信頼関係(パイプ)が築けましたし、これで一件落着ですね」
私はホッと息をつき、私物の風呂敷包みを肩にかけた。執務室の「水時計(漏刻)」を見れば、ちょうど現代でいう午後五時、定刻ぴったりだ。
「それでは皇子、仕様変更のトラブルも解決しましたので、今日こそ私は『定時退社』を――」
「だめだ」
皇子がすっと私の風呂敷包みの結び目を扇の先で突いた。
「……はい?」
「お前がタクマに見せた、あの『筆算』という技術。あれをベースに、我が国の新しい税制や、来月発布する『冠位十二階』の予算計算シートをすべて作り直す必要がある。……つまり、新しい仕様書の作成(デスマーチ)の始まりだ」
皇子が、先ほどの倍以上の厚みがある、ずっしりとした未処理の木簡の束を、私の机にドン!と置いた。
「な、何ですかこの量は! 嫌です、私は今日こそ帰って、飛鳥の美味しいお水で淹れたお茶を飲んでのんびりするって決めてたんです!」
「僕の許可なくログアウト(退社)することは許さん。さあ、夜は長いぞ、依。僕のために、その鋭い頭脳をフル稼働させて、朝までにこの数字をすべてデバッグしろ」
悪魔のような微笑みを浮かべる若き天才。
私のホワイトな飛鳥スローライフは、今日も遥か彼方の地平線へと消え去っていくのだった。
「おのれ、聖徳太子ぃぃぃーーーーー!!」
(第2話 終)

