改札も通れない完璧令嬢に、庶民高校生の俺が普通の放課後を教えます

 祖父の病室から出てきた玲華は、来たときよりも少しだけ表情が柔らかくなっていた。
 俺の姿に気づいた瞬間、それまで張り詰めていた肩の線がふっと緩む。俺に気づかれないように取り繕おうとしていたが、遅かった。ああいう表情はどれだけ取り繕っても隠しきれないものらしい。
「思ったより、元気そうでした」
「よかったですね」
「はい」
 短いやり取りだったが玲華の声には安堵がにじんでいた。財閥の跡取り娘としてではなく、ただ祖父を心配する孫として、あの部屋にいたのだろう。病室の前の廊下で待っていた俺には、中の様子は見えなかった。それでも扉越しに漏れ聞こえた声のトーンだけで、何となく想像はついた。畏まった話し方ではなく、もっと柔らかい、まるで小さな子供が祖父に甘えるときのような声だった。

 病院を出ると、夕方の空気がひんやりと頬を撫でた。西日が病院の白い壁を橙色に染めている。駅へ戻ろうと歩き出したところで玲華の足取りが急に危うくなる。
「鷹司さん?」
「……何でもありません」
 そう言った直後、玲華はふらりと体を傾けた。俺は思わず彼女の腕を支える。触れた腕は思っていたよりずっと細く、頼りなかった。普段の堂々とした立ち振る舞いからは想像もつかない華奢さに、俺のほうが一瞬戸惑ったくらいだ。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫です。少し、立ちくらみが」
「今日、お昼ちゃんと食べました?」
 尋ねると玲華は気まずそうに視線をそらした。目が泳ぐというのはこういう表情のことを言うのだろう。日頃どんな理不尽にも動じない彼女が、こんな些細な質問ひとつでたじろいでいるのが妙に新鮮だった。
「祖父のことで、頭がいっぱいで……」
 つまり食べていないということだ。
 俺は少し考えてから駅とは反対方向を指さした。
「うちの店、この近くなんです。何か食べていきませんか」
「お店、というのは」
「定食屋です。商店街にある、小さい店ですけど」
 玲華は一瞬迷うような顔をしたが空腹には勝てなかったらしい。小さくうなずいた。
「……ご迷惑でなければ」
「さっきも同じこと言いましたね」
「……そうでしたか」
 照れ隠しなのか玲華はつんと顎を上げてみせた。そういう仕草が意外と子どもっぽいことに俺は気づき始めていた。学園でこの表情を見た生徒はきっと一人もいないだろうな、と思うと少し得意な気分になった。
            ☆
 商店街に入ると、玲華は物珍しそうに周囲を見回した。八百屋の店先に並ぶ野菜、惣菜屋から漂う揚げ物の匂い、道の端に停められた自転車の列。何もかもが初めて見る光景であるかのように彼女の目は忙しなく動いていた。
 途中、揚げたてのコロッケを店先で売っている惣菜屋の前を通り過ぎたとき、玲華はほんの一瞬だけ足を止めて視線を向けた。すぐに何事もなかったように前を向いたが、俺はその一瞬を見逃さなかった。
「あとで買います?」
「……別に、気になっていません」
 棒読みだった。

 【食事処ささおか】の暖簾をくぐると、カウンターの奥から母さんが顔を出した。
「あら、陽翔(はると)。お客さん?」
「うん。ちょっと事情があって」
 母さんは玲華を見て一瞬だけ目を丸くしたが、すぐにいつもの調子に戻った。制服姿の見慣れない女子生徒が息子と一緒に現れて驚かないほうがおかしいのだが、母さんはそういうところで無駄に騒ぎ立てない人だった。
「いらっしゃい。好きな席、座ってね」
 玲華は店内をぐるりと見渡してから、テーブル席にそっと腰を下ろした。カウンター越しに父さんが黙々と鍋を振っている。厨房から漂う出汁の匂いに、玲華の鼻が小さく動いた。
 その仕草があまりに素直だったので、俺はまた笑いそうになるのをこらえなければならなかった。生徒会長の顔でこの調子だったら、きっと教師陣も戸惑うだろう。
「何にします?」
「……お薦めは、何でしょうか」
「今日なら生姜焼き定食かな。うちの定番です」
「では、それを」
 注文を告げると玲華は姿勢を正したまま、じっと店内の様子を観察していた。壁に貼られた品書き、常連らしき客との母さんのやり取り、厨房と客席の距離の近さ。何もかもが物珍しいらしい。
「こういうお店に来るのは、初めてですか?」
「……外食自体、数えるほどしか経験がありません。行くとしても、決まったホテルのレストランか、父の関係者との会食です」
「じゃあ、定食屋は」
「初めてです」
 あっさりと認められて俺のほうが驚いた。想像していた以上に、この人の世界は狭かったらしい。学年首席で生徒会長で財閥の跡取り娘という肩書きの重さに比べて、経験してきた世界の狭さがあまりに対照的で、なんだか少し胸が締めつけられるような気持ちになった。
 しばらくして湯気の立つ生姜焼き定食が運ばれてくる。玲華はそれをしばらく見つめたあと、箸を手に取り、丁寧な所作で肉を一切れ口に運んだ。
 瞬間、玲華の目が大きく見開かれた。
 だが、それも一瞬のこと。彼女はすぐに表情を引き締め、何事もなかったかのように咀嚼を続ける。
「……美味しいです」
 声は控えめだったが、続く二口目、三口目の箸の進み方が言葉よりも雄弁だった。心なしか背筋も少しだけ緩んでいるように見えた。
 そこへ、肩までの髪を高い位置で一つに結んだ妹の結衣が、ひょっこり顔を出す。
「お兄ちゃん、そのお客さん誰?」
「学校の生徒会長」 
「生徒会長さんが、なんでうちの店に」
「色々あったんだよ」
 結衣は興味津々といった様子で玲華の隣に椅子を持ってきて座った。中学生らしい遠慮のなさで、じろじろと玲華を観察している。
「お姉さん、たこ焼き食べたことあります?」
「たこ焼き……名前は知っていますが、食べたことはありません」
「え、うそ。じゃあ食べてみてください。今買ってきます」
 結衣は返事を待たずに店を飛び出し、数分後には湯気の立つたこ焼きのパックを手に戻ってきた。
「熱いから気をつけてくださいね」
 玲華は一つを爪楊枝で刺し、迷わず口に運んだ。
 次の瞬間、彼女の目にじわりと涙が浮かんだ。
「あ、あつ……」
「言ったのに」
 結衣がくすくす笑う横で玲華は涙目のまま、それでも次の一つに手を伸ばそうとしていた。生徒会の会議で理不尽な意見に一歩も引かない姿を思い出すと、この執念深さも納得できる気がした。
「無理しなくていいですよ」
「いえ……美味しいので」
 涙目で“美味しい”と主張する生徒会長の姿は、学園で見る姿とはまるで別人だった。誰かがこの光景を写真に撮って学園中に配ったら、明日から玲華の評判はどうなってしまうのだろう、とくだらない想像をして、俺は密かに笑いをかみ殺した。
 俺はその様子を見ながら妙な気持ちになっていた。誰もが一目置く完璧な少女が、目の前でたこ焼きに涙目になっている。
 それが、なぜだか無性に微笑ましかった。
 食事を終えたあと玲華はレジ横に置かれた駄菓子のかごに目を留めた。百円玉を握りしめ、真剣な顔で品定めをしている。腕を組んで唸る姿は、まるで重大な経営判断を下す前の社長のようだった。
「そんなに悩みます?」
「初めての選択なので」
「駄菓子ですよ」
「私にとっては、未知の選択です」
 真顔で返されて俺は何も言えなくなった。
 結局、玲華は小さな箱入りのキャラメルを一つ選んで会計を済ませた。宝物でも扱うように、それを鞄にしまう。その手つきがあまりに丁寧だったので、俺は思わず「それ、百円ですよ」と言いそうになったが、なんとか飲み込んだ。
 店を出て夕暮れの商店街を並んで歩きながら、玲華がぽつりとつぶやいた。
「私、放課後に寄り道をしたことが、一度もありません」
「一度も?」
「友人と買い食いをしたことも、理由もなく街を歩いたこともありません。すべて、決められた予定の中で生きてきました」
 その声には恨み言というより、ただ事実を淡々と述べるような響きがあった。だからこそ、余計に胸に残った。恨みがましく語られていたら、まだ聞き流せたかもしれない。でも玲華の口調はあまりに穏やかで、それが当たり前のことのように語られている分だけ、俺の中に妙な引っかかりを残した。
 商店街の灯りがぽつぽつと点き始め、夕焼けの色がゆっくりと群青に変わっていく。人通りが少しずつ増えてくる時間帯の中、玲華だけがどこか浮いた存在のように、周囲をゆっくりと眺めていた。
 俺は少し考えてから軽い調子で言ってみた。
「じゃあ今度、普通の放課後ってやつを教えますよ」
 冗談半分のつもりだった。深く考えたわけではなく、その場の勢いで出た言葉だった。
 だが玲華はしばらく黙り込んだあと真剣な表情で俺を見上げた。
「本当に、いいのですか」
「え?」
「私に、普通の放課後というものを、教えてくださるのですか」
 その目にはからかいを許さない真剣さがあった。夕暮れの光に照らされた瞳が、まっすぐにこちらを見据えている。
 俺は少し気圧されながらもうなずくしかなかった。
「……はい。教えます」
「では、お願いします」
 深々と頭を下げる玲華に、俺は慌てて手を振った。
「そんな畏まらなくていいですから」
「重要な約束です。軽々しく扱うつもりはありません」
 鷹司玲華は、こういうところが本当に生徒会長なのだと俺は思い知らされた。たかが放課後の付き添い程度のことを、まるで正式な契約を交わすかのように受け止めている。
 こうして誰にも秘密の「庶民体験」が静かに始まろうとしていた。