「明日から、お兄ちゃんが帰ってくるでしょう?」
母親の言葉を、奏太はすぐには理解できなかった。
「……何言ってるの?」
「何って?」
「お兄ちゃんって誰だよ」
真由美はきょとんとする。
まるで、奏太の質問の意味が分からないという顔だった。
「誰って……」
その時。
コン、コン。
二階から音がした。
奏太の表情が変わる。
壁。
あの音。
そして――
「きゃあああっ!」
美月の悲鳴。
「美月!」
奏太は駆け出した。
階段を一気に上る。
「美月!」
妹の部屋の扉を開ける。
美月はベッドの上にいた。
壁際へ体を寄せ、震えている。
「どうした!?」
「……いた」
「何が?」
美月は窓を指さした。
「外……」
奏太はカーテンへ近づく。
「待って!」
美月が叫ぶ。
「開けないで!」
「でも」
「お願い!」
奏太は手を止めた。
「何を見た?」
美月は唇を震わせる。
「お兄ちゃん」
「……俺?」
「違う」
美月は首を横に振る。
「もう一人の方」
奏太の背中を冷たいものが走った。
「どこにいた?」
「窓の外」
「ここ二階だぞ」
「分かってる!」
美月は泣きそうな顔をしている。
「でもいたの!」
「どんなふうに?」
美月は答えようとして、
口を閉じた。
「美月?」
「……こっち見てた」
「顔は?」
「お兄ちゃんだった」
「本当に?」
「うん」
「それだけ?」
美月は首を横に振る。
「何か言ってた」
「何て?」
「聞こえなかった」
「窓閉まってるから?」
「違う」
美月は震える。
「口だけ動かしてた」
「何て言ってた?」
「分かんない」
その時。
階段を上がってきた母親が部屋へ入る。
「どうしたの?」
「母さん、外に誰かいる!」
「外?」
「窓のところ!」
真由美はカーテンへ近づく。
「やめて!」
美月が叫ぶ。
だが母親は勢いよくカーテンを開けた。
窓の外。
暗い庭。
街灯。
隣家の屋根。
誰もいない。
「ほら」
「でも……」
「疲れてるのよ」
「絶対いた!」
「美月」
真由美は妹の頭を撫でる。
「大丈夫だから」
奏太は窓へ近づいた。
二階の高さ。
人が立てる場所などない。
ベランダもない。
ただ。
窓ガラスの外側に、
手の跡が残っていた。
「母さん」
「何?」
「これ」
真由美も気づく。
指の形がはっきり分かる。
誰かが外側から窓へ手を押しつけた跡。
「……鳥とか?」
「鳥に指五本あるの?」
母親は黙った。
奏太はスマートフォンで写真を撮る。
その瞬間。
美月が言った。
「分かった」
「何?」
「さっき、何て言ってたか」
奏太が振り返る。
「思い出した?」
「うん」
美月は奏太ではなく、窓を見ている。
「あの人……」
一度息を飲む。
「『そこ、僕の部屋』って言ってた」
◇
午後十一時三十八分。
その夜、三人はリビングに集まっていた。
誰も二階へ戻ろうとしなかった。
テレビはついている。
しかし内容など誰も見ていない。
「警察に相談しよう」
奏太が言った。
真由美は黙っている。
「母さん」
「……うん」
「写真もある。窓の手形もある」
「そうね」
「それと」
奏太は母親を見る。
「さっきの話」
「何?」
「明日、お兄ちゃんが帰ってくるって」
真由美の表情が固まる。
「私、そんなこと言った?」
「言った」
「……覚えてない」
「また?」
「ごめん」
「謝ってほしいんじゃない」
奏太は声を落とす。
「母さん、本当に大丈夫?」
「大丈夫よ」
そう答えたものの、母親自身も不安そうだった。
美月がソファの端で膝を抱えている。
「ねえ」
「何?」
「今日、みんなここで寝ない?」
奏太は頷いた。
「そうしよう」
「私、布団持ってくる」
「一人で行くな」
「じゃあ一緒に来て」
二人で立ち上がる。
その時。
ピンポーン。
三人の動きが止まった。
時計を見る。
午後十一時四十一分。
「誰……?」
美月が呟く。
奏太はインターホンのモニターを見る。
誰もいない。
まただ。
「出ない方がいい」
母親が言う。
「うん」
ピンポーン。
もう一度。
そして、
ピンポーン。
三回目。
奏太はモニターを見る。
画面には玄関前が映っている。
誰もいない。
だが。
「……待って」
「どうしたの?」
美月が近づく。
「これ」
画面の一番下。
ほんの少しだけ、
黒い髪が映っている。
誰かがカメラの真下に立っている。
「いる……」
美月が奏太の服を掴む。
奏太はインターホンの通話ボタンを押した。
「誰ですか」
返事はない。
「誰だ!」
ザーッ。
ノイズ。
そして。
『……僕』
三人が凍りつく。
奏太と同じ声だった。
「何しに来た」
『帰ってきた』
「ここは俺の家だ」
『知ってる』
「帰れ」
『どうして?』
「警察呼ぶぞ」
少し沈黙。
そして声が笑う。
『呼べば?』
「……」
『どっちを連れていくかな』
ブツン。
通話が切れた。
美月が震えている。
母親は顔面蒼白だった。
「奏太……」
「絶対開けるな」
奏太は警察へ電話しようとスマートフォンを取り出す。
その時。
玄関から音。
カチャ。
鍵が回った。
「え?」
内側のサムターンが、
ゆっくり動いている。
誰も触っていない。
「離れて!」
奏太は二人を後ろへ下がらせる。
カチャ。
鍵が開いた。
「なんで……」
ドアノブが下がる。
扉が、
ゆっくり開く。
冷たい夜風が入り込む。
玄関の外には――
誰もいなかった。
「……いない」
奏太は外を見る。
住宅街は静かだった。
街灯。
道路。
向かいの家。
誰もいない。
その時。
母親が小さく言った。
「……おかえり」
奏太は振り返る。
「母さん?」
真由美は開いた玄関を見ていた。
「何言ってんの?」
「え?」
「今、おかえりって」
「私が?」
「そうだよ」
母親は困った顔をする。
「言ってないわよ」
奏太は何も言えなかった。
◇
翌朝。
八月二十六日。
奏太はリビングのソファで目を覚ました。
スマートフォンを見る。
午前七時十八分。
隣では美月が眠っている。
母親の姿はない。
「……母さん?」
キッチンから音がする。
包丁。
フライパン。
朝食を作っているようだ。
「おはよう」
奏太が声を掛ける。
「おはよう」
母親はいつも通りだった。
「昨日……」
「何?」
「いや」
奏太は言うのをやめた。
テーブルを見る。
そして。
動きが止まった。
皿が、
四枚。
「母さん」
「何?」
「これ」
「朝ご飯?」
「なんで四人分?」
真由美が奏太を見る。
「何言ってるの?」
その瞬間。
二階から足音が聞こえた。
ギシッ。
ギシッ。
奏太の心臓が跳ねる。
美月も目を覚ました。
「……何?」
足音。
誰かが階段を下りてくる。
一段。
一段。
「母さん」
「どうしたの?」
「誰かいる」
「誰かって?」
真由美は笑った。
「お兄ちゃんでしょう?」
奏太と美月が同時に母親を見る。
階段から足が見える。
制服のズボン。
白いシャツ。
ゆっくり下りてくる。
そして。
少年がリビングへ入ってきた。
「おはよう」
奏太は息をすることすら忘れた。
自分だった。
顔。
髪。
身長。
声。
何もかも同じ。
ただ一つ。
左目の下に、
小さなほくろがある。
「……」
美月は震えている。
母親だけが笑顔だった。
「遅いじゃない」
「ごめん、寝坊した」
少年は自然に椅子へ座った。
「いただきます」
トーストを手に取る。
奏太は立ち尽くしたまま、その光景を見る。
「お前……」
少年が奏太を見る。
「ん?」
「誰だ」
少年は不思議そうな顔をする。
「何言ってるの?」
「名前を言え」
「桐谷奏太」
母親が笑う。
「朝から何してるの、二人とも」
「二人ともって……!」
「奏太」
母親が少し怒った顔をする。
「お兄ちゃんに失礼でしょう」
「俺がお兄ちゃんだろ!」
真由美の表情が止まる。
「……え?」
「俺が奏太だ!」
母親は少年を見る。
奏太を見る。
そして。
申し訳なさそうに言った。
「ごめんなさい」
「……何が?」
「あなた」
母親の声が震えた。
「誰だったかしら」
世界から音が消えたように感じた。
「……母さん?」
真由美は本当に分からない顔をしている。
「どうして私のことを母さんって呼ぶの?」
「やめろよ」
「ごめんなさい」
「母さん!」
奏太が近づくと、真由美は一歩後ろへ下がった。
その反応。
知らない人間を警戒する母親の目。
「やめて」
奏太の声が震える。
「俺だよ」
「……」
「奏太だよ!」
母親は何も答えない。
「美月!」
奏太は妹を見る。
「お前は分かるよな?」
美月は震えていた。
「昨日一緒にいただろ!」
「……」
「窓の外の奴を見ただろ!」
「……うん」
「俺が兄ちゃんだろ?」
美月は奏太を見る。
そしてもう一人を見る。
何度も見比べる。
「美月!」
ようやく美月が口を開いた。
「分かんない……」
「何が?」
「どっちがお兄ちゃんか」
奏太は言葉を失った。
もう一人の奏太が立ち上がる。
「怖がらせるなよ」
「黙れ」
「美月、困ってるじゃん」
「お前が何したんだ!」
「何もしてない」
「俺の家族に何した!」
少年は少し悲しそうな顔をした。
「俺の家族?」
そして。
笑った。
「それ、こっちの台詞だよ」
奏太は拳を握る。
「お前は誰なんだ」
「何回言わせるんだよ」
少年は奏太を真っ直ぐ見る。
「桐谷奏太」
「嘘だ!」
「じゃあ」
少年は棚の引き出しを開けた。
迷いがない。
そこから一冊の古いアルバムを取り出す。
「これは?」
奏太は知っている。
家族のアルバム。
少年が開く。
幼稚園の入園式。
運動会。
七五三。
小学校の入学式。
どの写真にも、
左目の下にほくろのある少年が写っている。
「嘘だ……」
「これも?」
少年は次の写真。
父親の病室。
ベッドの横で父親の手を握る少年。
奏太が覚えていなかった日。
「父さんが最後に言ったこと」
少年が静かに言う。
「覚えてる?」
奏太は答えられない。
「『奏太、美月を頼む』」
昨日、壁の向こうから聞いた言葉。
「やめろ」
「病室は四〇七号室」
「やめろ」
「亡くなったのは午後六時二十二分」
「黙れ!」
「最後に握ってたのは右手」
「黙れ!!」
少年は黙った。
母親は涙を浮かべている。
「奏太……」
真由美が少年へ近づく。
その肩へ手を置く。
「覚えてたのね」
「忘れるわけないよ」
その光景を見て、
奏太は初めて恐怖とは違う感情を覚えた。
自分の場所を、
奪われている。
◇
奏太は家を飛び出した。
自転車へ乗る。
向かう場所は一つしかなかった。
莉子。
莉子だけは自分を覚えている。
スマートフォンで電話する。
一回。
二回。
三回。
『もしもし?』
「莉子!」
『……はい?』
奏太の体が固まる。
「俺」
『誰ですか?』
「……やめろよ」
『え?』
「奏太だよ」
沈黙。
『桐谷……くん?』
「そう!」
少し安心する。
『ごめんなさい』
莉子が言った。
『桐谷くんって、誰ですか?』
奏太は自転車を止めた。
「昨日一緒にいた!」
『昨日?』
「資料室!」
『何の話ですか?』
「写真見ただろ!」
『……すみません。人違いじゃないですか?』
「莉子!」
『怖いので切りますね』
「待って!」
通話が切れた。
奏太は道路の真ん中で動けなかった。
母親。
そして莉子。
次々と自分を忘れていく。
「……あと五日」
昨日届いたメッセージ。
『次は家族です』
その意味を、
ようやく理解した。
家族から自分の存在が消され始めている。
奏太は学校へ向かった。
◇
午前九時十二分。
二年三組。
教室へ入った瞬間。
誰も奏太を見なかった。
文化祭準備中の生徒たち。
笑い声。
音楽。
いつもの教室。
「莉子」
奏太が声を掛ける。
莉子が振り返る。
「……はい?」
本当に知らない顔。
「俺だよ」
「誰?」
奏太は言葉を失う。
その時。
担任教師が入ってきた。
「おい、君」
奏太を見る。
「どこのクラスだ?」
「……二年三組です」
「名前は?」
「桐谷奏太」
教師が出席簿を見る。
「桐谷?」
ページをめくる。
「いないぞ」
「そんなわけ……」
「クラス間違えてないか?」
「先生!」
奏太は出席簿を奪うように見る。
自分の名前がない。
そして。
一番下。
昨日まではなかった名前が追加されている。
桐谷奏太。
「あるじゃん!」
奏太が指さす。
教師が見る。
「ああ」
「ほら!」
「でも」
教師は教室の奥を指した。
「桐谷なら、もう来てるぞ」
奏太はゆっくり振り返った。
自分の席。
そこに、
もう一人の奏太が座っていた。
莉子と話している。
莉子が笑う。
その笑顔は、
昨日まで奏太へ向けられていたものだった。
もう一人の奏太がこちらを見る。
目が合う。
少年は誰にも見えないように、
口だけを動かした。
「あと五日」
奏太のスマートフォンが震える。
メッセージ。
知らない番号。
添付写真。
教室の集合写真だった。
今撮影されたものではない。
去年の写真。
昨日まで奏太が消えていた場所に、
もう一人の奏太が立っている。
そして写真の裏を撮影した二枚目。
黒い文字。
『交換は順調です』
さらにもう一通。
『でも、彼も本物ではありません』
「……え?」
奏太は画面を見つめる。
メッセージが続く。
『本物の桐谷奏太を見つけてください』
そして最後に、
『残り五日』
奏太は教室の奥にいる「もう一人の自分」を見る。
少年は笑っている。
家族は彼を奏太だと思っている。
学校も彼を奏太だと思っている。
写真も記録も、
すべて彼が本物だと証明している。
しかし。
メッセージの送り主は言った。
彼も本物ではない。
では――
本物の桐谷奏太は、
どこにいる?
その瞬間。
奏太はあることに気づいた。
教室後方。
昨日まで何もなかった壁。
そこに、
一枚の扉がある。
白い扉。
誰も気にしていない。
まるで昔からそこにあったように。
扉には小さなプレート。
奏太は近づく。
そこに書かれていた文字を見て、
息を止めた。
『桐谷奏太 1』
そして扉の向こうから、
コン、コン。
ノック。
続いて、
小さな少年の声。
「……やっと来た」
奏太は動けなかった。
「待ってたよ」
聞いたことのない声だった。
そして。
「僕が」
一拍。
「最初の桐谷奏太だから」
教室の時計が、
午前九時十三分を指した。
――第五章「最初の奏太」へ続く。



