写真の中で、少年は笑っていた。
母親の真由美。
妹の美月。
そして、亡くなった父。
その三人に囲まれるように立っている少年。
桐谷奏太と同じ顔をした、知らない少年。
「……俺だ」
奏太は呟いた。
「でも……俺じゃない」
隣に立つ莉子は何も言わない。
写真を持つ奏太の手が震えていた。
顔だけなら、偶然似ているという可能性もあったかもしれない。
だが違う。
髪型。
身長。
笑った時に少しだけ細くなる右目。
左耳の下にある小さなほくろまで同じだった。
どう見ても桐谷奏太だった。
しかし奏太には、この写真を撮った記憶がない。
「裏……」
莉子が小さく言った。
「え?」
「写真の裏」
奏太はもう一度裏返す。
そこには、自分とまったく同じ筆跡で書かれている。
『ただいま』
「これ……いつ撮った写真だと思う?」
「分からない」
「家族旅行の写真なんだよね?」
「うん」
「三年前?」
「そう」
「じゃあ……」
莉子は言いにくそうに続けた。
「三年前から、もう一人いたってこと?」
「そんなわけない」
奏太は即座に否定した。
「絶対にない」
「でも写真には……」
「俺は覚えてるんだよ」
海。
旅館。
父親と早朝に釣りをしたこと。
美月とソフトクリームを奪い合ったこと。
母親が道を間違えて、父親と笑っていたこと。
全部覚えている。
「この写真だって俺も一緒に撮った」
「じゃあ、なんで……」
「分かんないよ!」
思わず声が大きくなる。
莉子が黙った。
「……ごめん」
「ううん」
奏太は写真を鞄へ入れた。
「家に帰る」
「私も行く」
「え?」
「一人で帰るつもり?」
「でも……」
「私も確認したい」
莉子の表情は真剣だった。
「奏太の家族が、この写真をどう見るのか」
◇
午後六時二十三分。
二人は桐谷家の前に立っていた。
「ここだよね?」
莉子が尋ねる。
「何回も来たことあるだろ」
「確認しただけ」
奏太は玄関を開ける。
「ただいま」
リビングから母親の声が返ってきた。
「おかえり」
「水瀬も一緒」
「莉子ちゃん?」
真由美が顔を出す。
「あら、久しぶり」
「お邪魔します」
「どうぞ。夕飯食べていく?」
「いえ、今日はちょっと……」
普通だった。
昨日までと何も変わらない。
奏太は少しだけ安心した。
「母さん」
「何?」
「これ見て」
例の写真を渡す。
真由美は写真を受け取る。
「あら、懐かしい」
奏太の心臓が止まりそうになった。
「……懐かしい?」
「三年前の旅行じゃない」
母親は笑っている。
「お父さん、この日すごく張り切ってたわね」
「母さん」
「何?」
「この写真に写ってる男、誰?」
真由美の笑顔が消えた。
「男?」
「ここ」
奏太は自分と同じ顔をした少年を指さす。
母親は少年を見る。
そして不思議そうに奏太を見た。
「何言ってるの?」
「誰?」
「奏太でしょう」
部屋の空気が変わった。
莉子が奏太を見る。
「俺?」
「そうよ」
「じゃあ……」
奏太は唾を飲み込む。
「ここにいる俺は?」
母親は笑った。
「何言ってるのよ」
「ちゃんと答えて」
「奏太でしょ?」
「写真のこいつも?」
「奏太」
「俺も?」
「奏太」
母親の笑顔が少しずつ不自然に見えてくる。
「じゃあ二人いるじゃん」
沈黙。
真由美が写真を見る。
そして、
「……二人?」
初めて気づいたような顔をした。
「そうだよ!」
奏太は写真を指さす。
「こいつが俺なら、ここにいる俺は誰なんだよ!」
母親は奏太を見る。
写真を見る。
また奏太を見る。
「……変ね」
「やっと分かった?」
「どうして」
真由美の表情から血の気が引いていく。
「どうしてあなたが二人いるの?」
その言葉を聞いた瞬間。
奏太は、安心してしまった。
母親にも見えている。
自分がおかしくなったわけではない。
しかし――
「お母さん?」
莉子が声を掛ける。
真由美は写真から目を離さない。
「これ……」
「はい」
「いつ撮ったの?」
「三年前でしょ?」
奏太が答える。
「違う」
「え?」
「この写真じゃない」
母親が指していたのは、写真の中の少年だった。
「この子……」
震えた声。
「いつから写ってたの?」
「だから分かんないんだよ」
真由美は何かを思い出そうとするように額へ手を当てる。
「私……」
「母さん?」
「この子を知ってる」
奏太と莉子が固まった。
「知ってる?」
「でも……」
真由美は苦しそうに目を閉じる。
「思い出せない」
「何を?」
「名前」
「俺と同じ顔なんだから俺じゃないの?」
「違う」
真由美は即答した。
奏太の背中を冷たい汗が流れる。
「どうして分かるの?」
「分からない」
「じゃあなんで!」
「だって……」
母親の目から涙がこぼれた。
「この子を見てると」
一度、言葉を飲み込む。
「すごく悲しくなるの」
◇
「何してるの?」
階段から美月の声がした。
三人が振り向く。
美月がリビングへ入ってくる。
「美月」
「何?」
「この写真」
奏太が差し出す。
美月は受け取った。
数秒。
何も言わない。
「分かる?」
「……うん」
「誰?」
美月が少年を指さす。
「お兄ちゃん」
「やっぱり俺?」
「うん」
「じゃあ俺は?」
美月が奏太を見る。
その瞬間。
表情が変わった。
「……え?」
「俺は誰?」
美月は写真を見る。
奏太を見る。
また写真を見る。
「待って」
「何?」
「なんで……?」
美月が後ずさる。
「どうした?」
「お兄ちゃん」
「だから何だよ」
「どっち?」
奏太は言葉を失った。
「どっちって……」
「分かんない」
美月の呼吸が速くなる。
「写真のお兄ちゃんと、今のお兄ちゃん」
「同じだろ」
「違う」
奏太の心臓が跳ねる。
「何が?」
「目」
「目?」
「写真のお兄ちゃんは……」
美月が震える指で写真を指す。
「左目の下にほくろがある」
奏太は笑った。
「俺もあるだろ」
左目の下を指さす。
しかし。
美月の表情が固まっている。
「……ないよ」
「は?」
奏太はリビングの鏡へ走った。
自分の顔を見る。
右目。
左目。
何もない。
「嘘……」
昨日まであった。
小学生の頃、美月に「ゴミついてる」とからかわれたこともある。
確かにあった。
なのに消えている。
「そんな……」
莉子が近づく。
「奏太」
「莉子は覚えてるよな?」
「……うん」
「あったよな?」
「小さいのが」
「だよな!」
写真を見る。
少年にはある。
自分にはない。
奏太は急に、自分の顔が自分のものではないような感覚に襲われた。
◇
その夜。
莉子は家へ帰った。
奏太は自室で古い写真を全部調べた。
幼稚園。
小学校。
中学校。
家族旅行。
運動会。
誕生日。
写真によって違っていた。
奏太がいる写真。
いない写真。
そして――
二人いる写真。
「……なんだよこれ」
小学五年生の運動会。
ゴールテープを切る奏太。
観客席にも奏太がいる。
中学一年生の入学式。
母親の隣に奏太。
校舎二階の窓にも奏太。
父親の葬儀。
家族の後ろに奏太。
そして。
廊下の奥にも、
もう一人の奏太。
「ずっと……いた?」
写真を落とす。
その時。
廊下から足音。
ギシッ。
ギシッ。
「美月?」
返事はない。
足音が部屋の前で止まる。
コン、コン。
ノック。
「誰?」
返事はない。
「母さん?」
沈黙。
奏太は扉へ近づく。
鍵は掛けてある。
ドアスコープはない。
「誰なんだよ」
すると。
扉の向こうから声。
「僕」
奏太は凍りつく。
自分の声。
「……何しに来た」
「帰ってきただけ」
「どこから」
「ずっと近くにいたよ」
「壁の中?」
沈黙。
「答えろよ!」
「奏太」
「何だよ」
「写真、見た?」
奏太は床に散らばった写真を見る。
「見たよ」
「僕もいたでしょう?」
「お前は誰なんだ」
「だから」
声が少し笑う。
「奏太だよ」
「俺が奏太だ!」
「そう思ってるんだ」
「……何?」
扉の向こうの声が、静かに続ける。
「じゃあ聞くけど」
一拍。
「お父さんが死んだ日のこと、覚えてる?」
奏太は口を開く。
だが。
言葉が出なかった。
「……覚えてるよ」
「何月何日?」
「それは……」
「どこの病院?」
「……」
「最後に何を話した?」
「黙れ」
「覚えてないでしょう?」
「黙れ!」
奏太は扉を殴った。
「知ってるよ」
向こうの声は静かなままだった。
「だって」
「僕は覚えてるから」
奏太の呼吸が止まる。
「最後にお父さんが言ったんだ」
声が少し近づく。
まるで扉へ顔を寄せたように。
「『奏太、美月を頼む』って」
「……」
「そのあと、お父さんは僕の手を握った」
「やめろ」
「泣いてた母さんを、僕が抱きしめた」
「やめろ!」
「美月は廊下でずっと泣いてた」
「黙れ!!」
奏太は耳を塞ぐ。
知らない。
そんな記憶はない。
父親が亡くなったことは覚えている。
葬儀も覚えている。
なのに。
その日の具体的な記憶だけが、
きれいに抜け落ちている。
扉の向こうの声が言った。
「ねえ」
「……何だよ」
「本当に君が桐谷奏太なら」
一拍。
「どうして僕の方が、奏太のことを覚えてるの?」
奏太は答えられなかった。
そして。
廊下から別の声が聞こえた。
「お兄ちゃん?」
美月だった。
「美月!」
奏太は扉へ駆け寄る。
「そこにいるのか?」
「うん」
「今、扉の前に誰かいる?」
「え?」
「俺と同じ顔の奴!」
沈黙。
「美月!」
「誰もいないよ」
「そんなわけない!」
「本当にいない」
奏太は鍵を開けた。
勢いよく扉を開く。
美月が一人で立っている。
廊下には誰もいない。
「どこ行った……」
「何?」
「今ここにいたんだよ!」
「誰が?」
「俺が!」
美月が怯えた顔をする。
「……お兄ちゃん」
「何?」
「今日、変だよ」
「俺だって分かってる!」
「そうじゃなくて」
美月は奏太の部屋を見る。
床に散らばった写真。
「誰と話してたの?」
「だから俺と同じ奴!」
「ずっと一人だったよ」
「聞こえなかった?」
「声は聞こえた」
「だろ!」
「でも……」
美月は言った。
「お兄ちゃんの声しか聞こえなかった」
奏太は動けなくなった。
「俺と、もう一人いただろ?」
「いないよ」
「二人で話してた!」
「違う」
美月の顔色が悪くなる。
「お兄ちゃん」
「何?」
「ずっと一人で」
言うべきか迷ったあと、
「声を変えながら、自分と話してたよ」
◇
午前零時四十分。
奏太は眠れず、リビングへ降りた。
冷蔵庫から水を取り出す。
頭がおかしくなったのか。
もう一人の奏太など存在しない?
自分が無意識に話しているだけ?
写真も、自分で加工した?
郵便受けに入れたのも自分?
「……そんなわけない」
その時。
リビングの棚にある写真立てが目に入った。
父親。
母親。
美月。
そして奏太。
今日確認した家族旅行の写真だった。
奏太は近づく。
写真の中の少年には、
左目の下にほくろがある。
「……」
自分の顔を触る。
ない。
写真を見る。
ある。
その瞬間。
背後から、
コン。
音。
奏太は振り向く。
一階の廊下。
例の壁とは違う。
「……ここにも?」
コン。
壁の向こう。
奏太はゆっくり近づく。
耳を当てる。
何も聞こえない。
すると。
スマートフォンが震えた。
知らない番号からメッセージ。
写真が一枚添付されている。
奏太は開いた。
今のリビング。
奏太が壁へ耳を当てている。
撮影されたばかり。
「……どこだ」
周囲を見る。
誰もいない。
写真の撮影位置を確認する。
リビングの隅。
壁際。
そこから撮られている。
奏太はその場所へ向かう。
何もない。
ただ壁があるだけ。
スマートフォンを見る。
新しいメッセージ。
『あと五日』
そしてもう一通。
『次は家族です』
「……やめろ」
さらに通知。
今度は動画だった。
再生する。
暗い映像。
最初は何も見えない。
やがてカメラがゆっくり進む。
狭い場所。
左右に木材。
配線。
壁の内側。
撮影者は、
家の壁の中を歩いている。
映像が止まる。
一枚の扉が映る。
扉にはプレート。
『桐谷奏太』
撮影者の手が伸びる。
ドアノブを回す。
扉が開く。
その先には、
奏太の部屋。
ベッドには、
誰かが眠っている。
動画がゆっくり近づく。
眠っている人物の顔が映る。
「……俺?」
奏太だった。
しかし。
今、奏太は一階にいる。
スマートフォンを持って、
この動画を見ている。
なのに二階のベッドには、
もう一人の奏太が眠っている。
動画の中で。
眠っていた奏太が、
突然目を開けた。
カメラを見る。
そして笑った。
「次は僕の番」
動画が終了する。
奏太は二階を見上げた。
静かだった。
行ってはいけない。
頭では分かっている。
それでも確かめずにはいられなかった。
奏太は階段を上る。
一段。
一段。
自室の前へ立つ。
扉は閉まっている。
自分はさっき開けたまま降りたはずだった。
奏太はノブへ手を掛ける。
ゆっくり開ける。
暗い部屋。
机。
本棚。
ベッド。
誰もいない。
「……」
安心した瞬間。
枕元に何かが置かれていることに気づいた。
一枚の写真。
奏太は拾った。
今日の夕食。
母親。
美月。
奏太。
三人がテーブルを囲んでいる。
しかし。
奏太の隣に、
もう一つ椅子がある。
そこには誰も座っていない。
写真の裏。
『明日は四人で食べよう』
そして階下から、
母親の声が聞こえた。
「奏太ー?」
「……何?」
「ちょっと来て」
奏太は写真を握ったまま階段を下りる。
リビング。
母親が冷蔵庫の前に立っている。
「どうしたの?」
「明日の夕飯なんだけど」
「うん」
真由美は何気なく言った。
「何が食べたい?」
「何でもいい」
「そう」
冷蔵庫を閉める。
「じゃあ四人分買ってくるね」
奏太の表情が固まる。
「……母さん」
「何?」
「今、何人分って言った?」
「四人分」
真由美は当然のように答えた。
「なんで?」
「なんでって……」
母親は笑った。
「明日から」
一瞬だけ、
奏太の知らない表情をした。
「お兄ちゃんが帰ってくるでしょう?」
その瞬間。
二階から、
コン、コン。
誰かが壁を叩いた。
そして美月の部屋から、
悲鳴が聞こえた。
――第四章「帰ってきた兄」へ続く。
母親の真由美。
妹の美月。
そして、亡くなった父。
その三人に囲まれるように立っている少年。
桐谷奏太と同じ顔をした、知らない少年。
「……俺だ」
奏太は呟いた。
「でも……俺じゃない」
隣に立つ莉子は何も言わない。
写真を持つ奏太の手が震えていた。
顔だけなら、偶然似ているという可能性もあったかもしれない。
だが違う。
髪型。
身長。
笑った時に少しだけ細くなる右目。
左耳の下にある小さなほくろまで同じだった。
どう見ても桐谷奏太だった。
しかし奏太には、この写真を撮った記憶がない。
「裏……」
莉子が小さく言った。
「え?」
「写真の裏」
奏太はもう一度裏返す。
そこには、自分とまったく同じ筆跡で書かれている。
『ただいま』
「これ……いつ撮った写真だと思う?」
「分からない」
「家族旅行の写真なんだよね?」
「うん」
「三年前?」
「そう」
「じゃあ……」
莉子は言いにくそうに続けた。
「三年前から、もう一人いたってこと?」
「そんなわけない」
奏太は即座に否定した。
「絶対にない」
「でも写真には……」
「俺は覚えてるんだよ」
海。
旅館。
父親と早朝に釣りをしたこと。
美月とソフトクリームを奪い合ったこと。
母親が道を間違えて、父親と笑っていたこと。
全部覚えている。
「この写真だって俺も一緒に撮った」
「じゃあ、なんで……」
「分かんないよ!」
思わず声が大きくなる。
莉子が黙った。
「……ごめん」
「ううん」
奏太は写真を鞄へ入れた。
「家に帰る」
「私も行く」
「え?」
「一人で帰るつもり?」
「でも……」
「私も確認したい」
莉子の表情は真剣だった。
「奏太の家族が、この写真をどう見るのか」
◇
午後六時二十三分。
二人は桐谷家の前に立っていた。
「ここだよね?」
莉子が尋ねる。
「何回も来たことあるだろ」
「確認しただけ」
奏太は玄関を開ける。
「ただいま」
リビングから母親の声が返ってきた。
「おかえり」
「水瀬も一緒」
「莉子ちゃん?」
真由美が顔を出す。
「あら、久しぶり」
「お邪魔します」
「どうぞ。夕飯食べていく?」
「いえ、今日はちょっと……」
普通だった。
昨日までと何も変わらない。
奏太は少しだけ安心した。
「母さん」
「何?」
「これ見て」
例の写真を渡す。
真由美は写真を受け取る。
「あら、懐かしい」
奏太の心臓が止まりそうになった。
「……懐かしい?」
「三年前の旅行じゃない」
母親は笑っている。
「お父さん、この日すごく張り切ってたわね」
「母さん」
「何?」
「この写真に写ってる男、誰?」
真由美の笑顔が消えた。
「男?」
「ここ」
奏太は自分と同じ顔をした少年を指さす。
母親は少年を見る。
そして不思議そうに奏太を見た。
「何言ってるの?」
「誰?」
「奏太でしょう」
部屋の空気が変わった。
莉子が奏太を見る。
「俺?」
「そうよ」
「じゃあ……」
奏太は唾を飲み込む。
「ここにいる俺は?」
母親は笑った。
「何言ってるのよ」
「ちゃんと答えて」
「奏太でしょ?」
「写真のこいつも?」
「奏太」
「俺も?」
「奏太」
母親の笑顔が少しずつ不自然に見えてくる。
「じゃあ二人いるじゃん」
沈黙。
真由美が写真を見る。
そして、
「……二人?」
初めて気づいたような顔をした。
「そうだよ!」
奏太は写真を指さす。
「こいつが俺なら、ここにいる俺は誰なんだよ!」
母親は奏太を見る。
写真を見る。
また奏太を見る。
「……変ね」
「やっと分かった?」
「どうして」
真由美の表情から血の気が引いていく。
「どうしてあなたが二人いるの?」
その言葉を聞いた瞬間。
奏太は、安心してしまった。
母親にも見えている。
自分がおかしくなったわけではない。
しかし――
「お母さん?」
莉子が声を掛ける。
真由美は写真から目を離さない。
「これ……」
「はい」
「いつ撮ったの?」
「三年前でしょ?」
奏太が答える。
「違う」
「え?」
「この写真じゃない」
母親が指していたのは、写真の中の少年だった。
「この子……」
震えた声。
「いつから写ってたの?」
「だから分かんないんだよ」
真由美は何かを思い出そうとするように額へ手を当てる。
「私……」
「母さん?」
「この子を知ってる」
奏太と莉子が固まった。
「知ってる?」
「でも……」
真由美は苦しそうに目を閉じる。
「思い出せない」
「何を?」
「名前」
「俺と同じ顔なんだから俺じゃないの?」
「違う」
真由美は即答した。
奏太の背中を冷たい汗が流れる。
「どうして分かるの?」
「分からない」
「じゃあなんで!」
「だって……」
母親の目から涙がこぼれた。
「この子を見てると」
一度、言葉を飲み込む。
「すごく悲しくなるの」
◇
「何してるの?」
階段から美月の声がした。
三人が振り向く。
美月がリビングへ入ってくる。
「美月」
「何?」
「この写真」
奏太が差し出す。
美月は受け取った。
数秒。
何も言わない。
「分かる?」
「……うん」
「誰?」
美月が少年を指さす。
「お兄ちゃん」
「やっぱり俺?」
「うん」
「じゃあ俺は?」
美月が奏太を見る。
その瞬間。
表情が変わった。
「……え?」
「俺は誰?」
美月は写真を見る。
奏太を見る。
また写真を見る。
「待って」
「何?」
「なんで……?」
美月が後ずさる。
「どうした?」
「お兄ちゃん」
「だから何だよ」
「どっち?」
奏太は言葉を失った。
「どっちって……」
「分かんない」
美月の呼吸が速くなる。
「写真のお兄ちゃんと、今のお兄ちゃん」
「同じだろ」
「違う」
奏太の心臓が跳ねる。
「何が?」
「目」
「目?」
「写真のお兄ちゃんは……」
美月が震える指で写真を指す。
「左目の下にほくろがある」
奏太は笑った。
「俺もあるだろ」
左目の下を指さす。
しかし。
美月の表情が固まっている。
「……ないよ」
「は?」
奏太はリビングの鏡へ走った。
自分の顔を見る。
右目。
左目。
何もない。
「嘘……」
昨日まであった。
小学生の頃、美月に「ゴミついてる」とからかわれたこともある。
確かにあった。
なのに消えている。
「そんな……」
莉子が近づく。
「奏太」
「莉子は覚えてるよな?」
「……うん」
「あったよな?」
「小さいのが」
「だよな!」
写真を見る。
少年にはある。
自分にはない。
奏太は急に、自分の顔が自分のものではないような感覚に襲われた。
◇
その夜。
莉子は家へ帰った。
奏太は自室で古い写真を全部調べた。
幼稚園。
小学校。
中学校。
家族旅行。
運動会。
誕生日。
写真によって違っていた。
奏太がいる写真。
いない写真。
そして――
二人いる写真。
「……なんだよこれ」
小学五年生の運動会。
ゴールテープを切る奏太。
観客席にも奏太がいる。
中学一年生の入学式。
母親の隣に奏太。
校舎二階の窓にも奏太。
父親の葬儀。
家族の後ろに奏太。
そして。
廊下の奥にも、
もう一人の奏太。
「ずっと……いた?」
写真を落とす。
その時。
廊下から足音。
ギシッ。
ギシッ。
「美月?」
返事はない。
足音が部屋の前で止まる。
コン、コン。
ノック。
「誰?」
返事はない。
「母さん?」
沈黙。
奏太は扉へ近づく。
鍵は掛けてある。
ドアスコープはない。
「誰なんだよ」
すると。
扉の向こうから声。
「僕」
奏太は凍りつく。
自分の声。
「……何しに来た」
「帰ってきただけ」
「どこから」
「ずっと近くにいたよ」
「壁の中?」
沈黙。
「答えろよ!」
「奏太」
「何だよ」
「写真、見た?」
奏太は床に散らばった写真を見る。
「見たよ」
「僕もいたでしょう?」
「お前は誰なんだ」
「だから」
声が少し笑う。
「奏太だよ」
「俺が奏太だ!」
「そう思ってるんだ」
「……何?」
扉の向こうの声が、静かに続ける。
「じゃあ聞くけど」
一拍。
「お父さんが死んだ日のこと、覚えてる?」
奏太は口を開く。
だが。
言葉が出なかった。
「……覚えてるよ」
「何月何日?」
「それは……」
「どこの病院?」
「……」
「最後に何を話した?」
「黙れ」
「覚えてないでしょう?」
「黙れ!」
奏太は扉を殴った。
「知ってるよ」
向こうの声は静かなままだった。
「だって」
「僕は覚えてるから」
奏太の呼吸が止まる。
「最後にお父さんが言ったんだ」
声が少し近づく。
まるで扉へ顔を寄せたように。
「『奏太、美月を頼む』って」
「……」
「そのあと、お父さんは僕の手を握った」
「やめろ」
「泣いてた母さんを、僕が抱きしめた」
「やめろ!」
「美月は廊下でずっと泣いてた」
「黙れ!!」
奏太は耳を塞ぐ。
知らない。
そんな記憶はない。
父親が亡くなったことは覚えている。
葬儀も覚えている。
なのに。
その日の具体的な記憶だけが、
きれいに抜け落ちている。
扉の向こうの声が言った。
「ねえ」
「……何だよ」
「本当に君が桐谷奏太なら」
一拍。
「どうして僕の方が、奏太のことを覚えてるの?」
奏太は答えられなかった。
そして。
廊下から別の声が聞こえた。
「お兄ちゃん?」
美月だった。
「美月!」
奏太は扉へ駆け寄る。
「そこにいるのか?」
「うん」
「今、扉の前に誰かいる?」
「え?」
「俺と同じ顔の奴!」
沈黙。
「美月!」
「誰もいないよ」
「そんなわけない!」
「本当にいない」
奏太は鍵を開けた。
勢いよく扉を開く。
美月が一人で立っている。
廊下には誰もいない。
「どこ行った……」
「何?」
「今ここにいたんだよ!」
「誰が?」
「俺が!」
美月が怯えた顔をする。
「……お兄ちゃん」
「何?」
「今日、変だよ」
「俺だって分かってる!」
「そうじゃなくて」
美月は奏太の部屋を見る。
床に散らばった写真。
「誰と話してたの?」
「だから俺と同じ奴!」
「ずっと一人だったよ」
「聞こえなかった?」
「声は聞こえた」
「だろ!」
「でも……」
美月は言った。
「お兄ちゃんの声しか聞こえなかった」
奏太は動けなくなった。
「俺と、もう一人いただろ?」
「いないよ」
「二人で話してた!」
「違う」
美月の顔色が悪くなる。
「お兄ちゃん」
「何?」
「ずっと一人で」
言うべきか迷ったあと、
「声を変えながら、自分と話してたよ」
◇
午前零時四十分。
奏太は眠れず、リビングへ降りた。
冷蔵庫から水を取り出す。
頭がおかしくなったのか。
もう一人の奏太など存在しない?
自分が無意識に話しているだけ?
写真も、自分で加工した?
郵便受けに入れたのも自分?
「……そんなわけない」
その時。
リビングの棚にある写真立てが目に入った。
父親。
母親。
美月。
そして奏太。
今日確認した家族旅行の写真だった。
奏太は近づく。
写真の中の少年には、
左目の下にほくろがある。
「……」
自分の顔を触る。
ない。
写真を見る。
ある。
その瞬間。
背後から、
コン。
音。
奏太は振り向く。
一階の廊下。
例の壁とは違う。
「……ここにも?」
コン。
壁の向こう。
奏太はゆっくり近づく。
耳を当てる。
何も聞こえない。
すると。
スマートフォンが震えた。
知らない番号からメッセージ。
写真が一枚添付されている。
奏太は開いた。
今のリビング。
奏太が壁へ耳を当てている。
撮影されたばかり。
「……どこだ」
周囲を見る。
誰もいない。
写真の撮影位置を確認する。
リビングの隅。
壁際。
そこから撮られている。
奏太はその場所へ向かう。
何もない。
ただ壁があるだけ。
スマートフォンを見る。
新しいメッセージ。
『あと五日』
そしてもう一通。
『次は家族です』
「……やめろ」
さらに通知。
今度は動画だった。
再生する。
暗い映像。
最初は何も見えない。
やがてカメラがゆっくり進む。
狭い場所。
左右に木材。
配線。
壁の内側。
撮影者は、
家の壁の中を歩いている。
映像が止まる。
一枚の扉が映る。
扉にはプレート。
『桐谷奏太』
撮影者の手が伸びる。
ドアノブを回す。
扉が開く。
その先には、
奏太の部屋。
ベッドには、
誰かが眠っている。
動画がゆっくり近づく。
眠っている人物の顔が映る。
「……俺?」
奏太だった。
しかし。
今、奏太は一階にいる。
スマートフォンを持って、
この動画を見ている。
なのに二階のベッドには、
もう一人の奏太が眠っている。
動画の中で。
眠っていた奏太が、
突然目を開けた。
カメラを見る。
そして笑った。
「次は僕の番」
動画が終了する。
奏太は二階を見上げた。
静かだった。
行ってはいけない。
頭では分かっている。
それでも確かめずにはいられなかった。
奏太は階段を上る。
一段。
一段。
自室の前へ立つ。
扉は閉まっている。
自分はさっき開けたまま降りたはずだった。
奏太はノブへ手を掛ける。
ゆっくり開ける。
暗い部屋。
机。
本棚。
ベッド。
誰もいない。
「……」
安心した瞬間。
枕元に何かが置かれていることに気づいた。
一枚の写真。
奏太は拾った。
今日の夕食。
母親。
美月。
奏太。
三人がテーブルを囲んでいる。
しかし。
奏太の隣に、
もう一つ椅子がある。
そこには誰も座っていない。
写真の裏。
『明日は四人で食べよう』
そして階下から、
母親の声が聞こえた。
「奏太ー?」
「……何?」
「ちょっと来て」
奏太は写真を握ったまま階段を下りる。
リビング。
母親が冷蔵庫の前に立っている。
「どうしたの?」
「明日の夕飯なんだけど」
「うん」
真由美は何気なく言った。
「何が食べたい?」
「何でもいい」
「そう」
冷蔵庫を閉める。
「じゃあ四人分買ってくるね」
奏太の表情が固まる。
「……母さん」
「何?」
「今、何人分って言った?」
「四人分」
真由美は当然のように答えた。
「なんで?」
「なんでって……」
母親は笑った。
「明日から」
一瞬だけ、
奏太の知らない表情をした。
「お兄ちゃんが帰ってくるでしょう?」
その瞬間。
二階から、
コン、コン。
誰かが壁を叩いた。
そして美月の部屋から、
悲鳴が聞こえた。
――第四章「帰ってきた兄」へ続く。



