「この部屋、最初は僕のだったんだよ」
壁の向こうから聞こえた声。
奏太は何も答えられなかった。
声は間違いなく、自分のものだった。
録音された声を聞いた時に感じる、わずかな違和感すらない。
頭の中で響く自分自身の声と、まったく同じだった。
そして――
ガチャ。
再び、ドアノブを回す音。
「……やめろ」
奏太はベッドの上で後ずさった。
だが、目の前に扉はない。
あるのは白い壁だけ。
ガチャ。
ガチャ、ガチャ。
何度も回される。
まるで向こう側にいる誰かが、鍵の掛かった扉を開けようとしているようだった。
「やめろ!」
奏太が叫んだ瞬間。
音が止まった。
静寂。
スマートフォンの画面を見る。
午前二時十四分。
たった一分。
それなのに、何十分も経ったように感じた。
「……母さん」
奏太はベッドから飛び降りた。
机を動かし、部屋の鍵を開ける。
廊下へ出た。
「母さん!」
母親の寝室へ向かう。
ノックする。
「母さん!」
返事がない。
ドアノブを回す。
鍵は掛かっていない。
「入るよ」
扉を開けた。
母親は眠っていた。
「母さん!」
「……ん?」
真由美がゆっくり目を開ける。
「奏太?」
「壁から声がした!」
「壁?」
「俺の部屋の!」
真由美は寝ぼけた表情で時計を見る。
「二時じゃない……」
「だから!」
「明日にしなさい」
「でも……!」
その時。
真由美が奏太の後ろを見る。
表情が止まった。
「……奏太」
「何?」
「あなた」
真由美は眉をひそめる。
「どうして廊下から来たの?」
「は?」
「だって……」
母親は寝室の壁を指さした。
「さっきまで、そっちにいたでしょう?」
奏太は振り返る。
壁。
何もない。
「何言ってんの?」
「あなたの声が聞こえてた」
「どこから?」
「壁の向こう」
奏太の心臓が大きく跳ねる。
「何て言ってた?」
「分からない」
「思い出して!」
「そんな怒鳴らないでよ」
「大事なんだ!」
母親は困惑しながら考える。
「誰かと話してたみたいだった」
「誰と?」
「……あなたと」
「え?」
「二人とも奏太の声だったから、変だなって思って……」
奏太は何も言えなくなった。
母親は寝ぼけていた。
夢だった可能性もある。
しかし。
もし違ったら。
奏太は自分の部屋へ戻った。
壁を見つめる。
もう音は聞こえない。
壁へ耳を当てる。
静かだった。
その夜。
奏太は朝まで眠れなかった。
◇
八月二十五日。
午前七時三十分。
「お兄ちゃん」
朝食を食べていると、美月が突然言った。
「何?」
「今日、学校?」
「文化祭準備」
「ふーん」
美月はトーストを食べながら奏太を見ている。
「……何だよ」
「別に」
「昨日から変だぞ」
「お兄ちゃんの方が変だよ」
「どこが」
美月は少し考える。
「なんか……」
「何?」
「昨日より、お兄ちゃんっぽくない」
奏太の手が止まる。
「意味分かんない」
「私も分かんない」
美月は視線を落とした。
母親がキッチンから声を掛ける。
「美月、変なこと言わないの」
「だって」
「奏太も気にしない」
奏太は何も言わなかった。
テーブルを見る。
今日は皿が三枚。
昨日のように、一枚多くはない。
それだけで少し安心した。
「そうだ、母さん」
「何?」
「昨日の写真、警察に持っていこうと思う」
真由美の手が止まった。
「写真?」
「ほら、昨日見せた」
「何の?」
奏太は母親を見る。
「家の写真」
「……?」
「郵便受けに入ってたやつ!」
真由美は本当に分からないという顔をしている。
「そんなの見せてもらった?」
「昨日見せたよ!」
「覚えてないわね」
「『誰が撮ったの?』って言ったじゃん!」
「そうだった?」
奏太は美月を見る。
「美月は覚えてるよな?」
「……うん」
美月は頷いた。
だがその表情はどこか不安そうだった。
母親だけが忘れている。
「母さん、最近疲れてるんじゃない?」
「そうかもしれないわね」
真由美は笑った。
その笑顔が、なぜか怖かった。
◇
「今日はあるよな」
学校へ到着した奏太は、真っ先に教室後方のクラス写真を確認した。
昨日と同じ。
自分はいない。
「……やっぱり」
「奏太!」
莉子がやって来る。
「昨日、大丈夫だった?」
「全然」
「何かあった?」
奏太は昨夜の出来事を全部話した。
壁。
自分の声。
母親が聞いた二人の奏太。
莉子の顔から、徐々に笑みが消えていく。
「警察行こう」
「俺もそう思ってる」
「今日行こう。私も一緒に行く」
「なんで莉子まで」
「一人で行かせられるわけないでしょ」
そこへ直人がやって来た。
「何の話?」
「昨日の写真」
奏太が答える。
直人は首を傾げる。
「写真?」
「ほら、見せただろ」
「俺に?」
「昨日!」
直人は考える。
「……悪い。覚えてない」
奏太と莉子が同時に黙った。
「直人」
「何?」
「本当に?」
「何が?」
「俺が家の写真見せただろ?」
「知らねえよ」
直人は笑う。
「寝ぼけてんじゃね?」
昨日。
確かに見せた。
直人は「警察案件じゃん」と言った。
それを忘れている。
「莉子」
「……うん」
莉子も気づいていた。
母親だけではない。
直人も。
昨日の出来事を忘れ始めている。
◇
昼休み。
奏太と莉子は図書室へ向かった。
学校の古い卒業アルバムを調べるためだった。
「なんでアルバム?」
「昨日の写真のことが気になって」
莉子が棚から去年の卒業アルバムを取り出す。
「昔の写真にも奏太がいなかったら、何か分かるかもしれない」
「俺、卒業してないけど」
「部活動とか文化祭の写真あるでしょ」
二人でページをめくる。
体育祭。
文化祭。
部活動。
去年の奏太が写っているはずの写真。
「あった」
莉子が指を止める。
文化祭の写真。
直人。
莉子。
クラスメイトたち。
奏太は――
いない。
「ここにいた」
奏太は覚えている。
「俺、直人の隣だった」
だが写真では、その場所だけ妙に空いている。
「また……。」
次のページ。
体育祭。
いない。
次。
球技大会。
いない。
次。
入学式。
いない。
「全部消えてる……。」
奏太の写真だけがない。
莉子がアルバムを閉じようとした。
その時。
「待って」
奏太が手を止める。
ある写真。
校舎の前で撮影された生徒たち。
その後ろ。
二階の窓。
小さく、人影が写っている。
「拡大できないかな」
莉子がスマートフォンで撮影し、画面を拡大する。
粗い画像。
だが分かる。
少年だ。
「これ……」
莉子の声が震える。
奏太も分かってしまった。
その少年は、
奏太だった。
「なんで……」
写真が撮影された日、奏太は校庭にいた。
なのに。
写真の中では、二階の窓からこちらを見ている。
莉子がさらに拡大する。
「奏太」
「何?」
「この窓……」
莉子は校舎の方を見る。
「どこの教室?」
二人は窓の位置を確認する。
二階の一番端。
「あそこ……」
奏太は立ち上がった。
現在は使われていない資料室だった。
◇
放課後。
二人は資料室の前に立っていた。
扉には、
『関係者以外立入禁止』
と書かれている。
「やめるなら今だよ」
莉子が言う。
「ここまで来て?」
「一応言っただけ」
奏太がノブを回す。
開いた。
「鍵掛かってないじゃん」
中は埃っぽかった。
古い机。
椅子。
段ボール。
使われなくなった教材。
窓へ向かう。
「ここだ」
卒業アルバムに写っていた場所。
奏太は窓から校庭を見る。
「俺がここにいた……?」
「写真ではね」
莉子が周囲を調べる。
「何かないかな」
奏太も棚を見る。
古いファイル。
プリント。
壊れた時計。
特に変わったものはない。
その時。
「奏太」
莉子が呼ぶ。
「これ」
壁に、小さな落書きがあった。
鉛筆で書かれている。
かなり薄い。
奏太は顔を近づけた。
そこには、
『きりたにそうた』
と書かれていた。
「……俺?」
「誰かが書いたのかな」
「いつ?」
莉子が指でなぞる。
「結構古そう」
その下にも文字がある。
さらに薄い。
埃を払う。
『またまちがえた』
二人は顔を見合わせた。
「何を……?」
その瞬間。
ガチャン!
扉が閉まった。
「え!」
莉子が駆け寄る。
「開かない!」
ノブが動かない。
「誰か!」
奏太が扉を叩く。
「開けてください!」
返事はない。
すると。
部屋の奥から、
コン。
二人の動きが止まった。
「……今の」
莉子も聞いている。
コン。
壁。
奏太の家と同じ音。
「なんで……」
奏太はゆっくり壁へ近づく。
「やめた方がいい」
「でも」
「奏太」
コン、コン。
壁の向こう。
奏太は耳を当てる。
何も聞こえない。
そして――
「見つけた」
自分の声。
奏太は飛び退いた。
「聞こえた?」
「……うん」
莉子にも聞こえていた。
壁の向こうから。
奏太の声が。
「やっと見つけた」
「誰だ!」
奏太が叫ぶ。
返事がある。
「僕だよ」
「だから誰なんだ!」
壁の向こうの声が笑った。
「昨日教えたじゃん」
奏太は息を呑む。
「この部屋も」
一拍。
「最初は僕のだったんだよ」
昨日と同じ言葉。
だが。
ここは奏太の家ではない。
学校だ。
「どういう意味だ……」
奏太が呟く。
すると莉子が突然、奏太の腕をつかんだ。
「奏太……」
「何?」
莉子は部屋の奥を指していた。
古いロッカー。
一つだけ扉が少し開いている。
「さっき、閉まってたよね?」
「……うん」
ゆっくり近づく。
奏太がロッカーを開けた。
中には何もない。
いや。
一枚の写真が置かれていた。
「また……」
奏太が取り出す。
写真には、
今いる資料室が写っていた。
奏太と莉子。
二人が壁に耳を当てている。
「待って……」
莉子が青ざめる。
「これ、今じゃない?」
服装。
荷物。
すべて同じ。
つまり数分前。
この部屋のどこかから、
誰かが二人を撮影していた。
奏太は写真を裏返した。
黒い文字。
『あと六日』
そして、その下。
昨日までなかった文章が書かれている。
『一人目は、もう忘れた。』
「一人目……?」
奏太が呟く。
その瞬間。
「……あれ?」
莉子が突然言った。
「どうした?」
「私たち」
莉子は教室を見回す。
「二人で来たんだよね?」
「そうだけど」
「……そうだよね」
だが莉子の顔から血の気が引いていく。
「どうしたんだよ」
「分かんない」
莉子は頭を押さえる。
「ここに来るまで……」
「うん」
「もう一人、誰か一緒だった気がする」
奏太は笑おうとした。
だが笑えなかった。
なぜなら。
自分にも、
同じ感覚があった。
三人で階段を上った。
三人で廊下を歩いた。
誰かがくだらない冗談を言った。
その記憶だけがある。
なのに。
顔が思い出せない。
名前も。
声も。
「誰だ……?」
奏太は必死に思い出そうとする。
頭の奥に霧がかかったように、何も出てこない。
その時。
莉子のスマートフォンが震えた。
一件のメッセージ。
知らない番号。
添付された一枚の写真。
莉子が開く。
三人で資料室へ向かう後ろ姿だった。
奏太。
莉子。
そして二人の間に、
見覚えのない男子生徒が歩いている。
「……誰?」
莉子が呟く。
奏太にも分からない。
だが写真の男子生徒は、奏太の肩へ腕を回していた。
まるで長年の親友のように。
その下にメッセージが一行。
『高瀬直人を忘れましたか?』
「……高瀬?」
奏太はその名前を口にする。
胸の奥がざわついた。
知っている。
絶対に知っている名前だ。
でも、
顔が思い出せない。
その瞬間。
奏太のスマートフォンから通知音が鳴った。
連絡先が一件、自動的に削除された。
画面に一瞬だけ表示された名前。
高瀬直人
そして消えた。
「待て!」
奏太は慌てて画面を操作する。
履歴。
メッセージ。
写真。
何もない。
最初から、
そんな人間は存在しなかったかのように。
莉子が震えた声で言った。
「奏太……」
「何?」
「一人目って……」
奏太は手の中の写真を見る。
裏面。
『一人目は、もう忘れた。』
そして初めて理解した。
『あと六日』という言葉。
それは単純に、
奏太が消えるまでの時間を数えているのではない。
何かが、一日ごとに一人ずつ消えている。
では。
六日後。
最後に消えるのは――
誰なのか。
その時。
誰も触れていない資料室の扉が、
ガチャリ。
ゆっくり開いた。
廊下には誰もいなかった。
ただ床の上に、
もう一枚の写真が置かれている。
奏太は拾い上げた。
今度は自分の家族写真だった。
母親。
美月。
父親。
そして、
昨日まで空白だった場所に――
知らない少年が写っていた。
奏太と同じくらいの年齢。
奏太と同じ髪型。
奏太と同じ顔。
少年は家族の真ん中で、
楽しそうに笑っている。
写真の裏には、
たった一言。
『ただいま』
奏太は、その文字を見つめ続けた。
なぜだろう。
初めて見るはずなのに。
その文字が、
自分の筆跡とまったく同じだった。
――第三章「知らない家族」へ続く。



